重文・旧東京音楽学校 奏楽堂。東京都台東区上野公園。
2024年10月29日(火)。
東京国立博物館で2024年10月16日~ 12月8日(日)まで「埴輪展」、東京都美術館で田中一村展」が2024年9月19日(木)~12月1日(日)まで開催されており、いずれも9時30分開館なので、上野駅に9時頃に着き、東京芸大構内から上野公園に移築された「旧東京音楽学校 奏楽堂」をまず外観だけみることにした。あることは知っていたが、場所を知らなかったが、芸大方向にあった。途中、東京都美術館を通ると100人ほどが行列していた。奏楽堂横に着くと前庭が修景工事中だった。
旧東京音楽学校 奏楽堂(そうがくどう)は、1890年(明治23年)に東京芸術大学音楽学部の前身である東京音楽学校のオーディトリウム(演奏会場)として建設された日本で最初に建てられた本格的な西洋式音楽ホールとされる。設計は、文部技官の山口半六と久留正道で、中央棟と翼棟からなり、奏楽堂とは中央家2階にある講堂兼音楽ホールのことであるが、今日建物そのものの名称となっている。
1972年(昭和47年)、老朽化のため大学構内から愛知県犬山市にある博物館明治村への移築保存で合意されたが、日本建築学会、音楽家グループ、市民らの反対により撤回され、1983年(昭和58年)に台東区へ譲渡された。
1984年(昭和59年)、上野公園内へ移築され、1987年10月から一般公開を開始した。翌1988年、国の重要文化財に指定された。
東京国立博物館「挂甲の武人 国宝指定50周年記念特別展「はにわ」」。
9時20分頃に博物館に着くと、200人ほどが開館を待っていた。9時30分に開門されると、ほとんどの人が埴輪展の会場に急いで歩いて行った。入口には通常の埴輪と「踊る人々」の複製が展示されていた。
すぐ先の「踊る人々」の実物の展示ケースにも人だかりがあった。
埴輪 踊る人々。埼玉県熊谷市 野原古墳出土。古墳時代・6世紀。東京国立博物館蔵。
埴輪といえばこれ!と思われる方も多いですが、実は時代が新しく、表現の省略が進んだ姿です。その反面、埴輪がもつ独特な「ゆるさ」を象徴する存在でもあります。王のマツリに際して踊る姿であるとする説のほかに、近年は片手を挙げて馬の手綱(たづな)を曳(ひ)く姿であるとする説も有力です。
第1章 王の登場
埴輪は王(権力者)の墓である古墳に立てられ、古墳からは副葬品が出土します。副葬品は、王の役割の変化と連動するように、移り変わります。古墳時代前期(3~4世紀)の王は司祭者的な役割であったので、宝器を所有し、中期(5世紀)の王は武人的な役割のため、武器・武具を所有しました。後期(6世紀)は官僚的な役割を持つ王に、金色に輝く馬具や装飾付大刀が大王から配布されました。このほか各時期において、中国大陸や朝鮮半島と関係を示す国際色豊かな副葬品も出土します。ここでは国宝のみで古墳時代を概説し、埴輪が作られた時代と背景を振り返ります。
国宝・金製耳飾。熊本県和水町 江田船山古墳出土。古墳時代・5~6世紀。東京国立博物館蔵。
水滴形および円錐形の飾りの付いた三連のチェーンをぶら下げた金製耳飾りで、一部に銀やガラス製の部品が使われています。揺れ動くたびにダイナミックにきらめき、音を奏でる最先端のアクセサリーでした。朝鮮半島南部にあった古代国家、加耶(かや)で製作され、熊本の豪族にもたらされたものでしょう。加耶諸国の中でも、大加耶(でがや)製品と特定されたらしい。
国宝・金銅製沓。熊本県和水町 江田船山古墳出土。古墳時代・5~6世紀。東京国立博物館蔵。
金銅板を鋲で留めて作られた全長34センチメートルの沓で、亀甲文で飾られ、各交点には小さな飾りが付けられていたと推定されます。死者のための沓で、底は全面に突起があり、実際に履いて歩くことはできません。朝鮮半島の百済で作られました。沓は耳飾りとともに朝鮮半島から伝来した新しいファッションのひとつで、人物埴輪の装いにも見られます。