goo blog サービス終了のお知らせ 

いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

アメーバブログ「いちご畑よ永遠に(旧ヤフーブログ)」は2023年7月に全件削除されましたが一部復活

新潟市 旧新潟税関庁舎 旧第四銀行住吉町支店 万代そば「バスセンターのカレー」

2024年02月24日 12時54分45秒 | 新潟県

旧第四銀行住吉町支店。登録有形文化財。新潟市中央区柳島町。

2023年9月30日(土)。

新潟市歴史博物館の見学を終え、海側にある旧第四銀行住吉町支店と交差点側にある旧新潟税関庁舎を見学した。3館を併せて一帯は「みなとぴあ」とよばれている。

旧第四(し)銀行住吉町支店は、昭和前期1927年の竣工、2003年移築。鉄筋コンクリート造2階一部3階建、建築面積537㎡。

重厚な古典主義様式の銀行建築。2階建で,躯体は鉄筋コンクリート造,外壁に花崗岩を張って石造風とし,コーニスを廻す。正面入口にはイオニア式列柱4本を並べ,柱間の壁上部アーチ型窓とする。当初の外装材,内部の造作をよく保存している。ロビー部の大理石製のカウンターなどが建設当初の姿に復原された。

 

新古典主義といわれるが、1920年代に流行していたアールデコの影響も受けていると思われる。内部2階まで見学した。

国史跡・重文・旧新潟税関庁舎。新潟市中央区緑町。

開港五港の中で唯一現存する、開港当時の運上所(税関)の遺構である国史跡「旧新潟税関」の敷地内に建つ。運上所の庁舎は、地元・新潟の大工たちが、一足先に開港した横浜や江戸に建てられ始めた洋風建築を参考にして造ったもので、明治2(1869)年8月21日に上棟、10月に完成した。

いわゆる擬洋風建築の一例で、赤瓦葺きの屋根とナマコ壁の外観にアーチ状の玄関口と塔屋などの洋風の意匠を取り入れている。

幕末の安政5(1858)年、徳川幕府はアメリカ・オランダ・イギリス・ロシア・フランスの五か国と修好通商条約を結び、新潟・横浜・函館・長崎・神戸の五港を開港することにした。新潟港は日本海側最大の港町であること、幕府領であることなどが理由で開港地に選ばれた。しかし、開港が実現しないまま幕府は倒れ、明治新政府が新潟港を開港したのは明治元年11月19日(西暦1869年1月1日)のことであった。

外国との貿易に際して、開港場には輸出入貨物の監督や税金の徴収といった運上業務や、外交事務を取り扱う「運上所」が設けられた。新潟港は川港であったため、開港後、信濃川の河口近くのヨシが生い茂る川岸を出島のように埋め立てて、運上所が建設された。

この「新潟運上所」は、明治6(1873)年に「新潟税関」と改称されて以後、昭和41(1966)年までの約100年間、税関業務に使用された。

内部に入ったが、パネル展示がある程度であった。塔屋へ登る階段がある。

 

万代そば。新潟市中央区万代。万代シテイバスセンタービル 1階。

旅行雑誌で予習していると、新潟市民のソウルフード「バスセンターのカレー」というのが目に入った。シンプルながらも一度食べたらやみつきになるその味は、県内外から注目を集めて、観光客も立ち寄るという。

自動車旅行で立ち寄るとなると駐車料金が高いのはコスパが悪い。検索していくと、朱鷺(とき)メッセ万代島駐車場Aが最適と気付いた。入場から最初の60分間は無料で、万代シテイバスセンターに近い。混雑時でなければ、60分以内で食事して帰って来られる距離であると予測できた。

「みなとぴあ」を出て、16時過ぎに万代島駐車場Aに着いた。満車に近かったが、駐車はできた。そこから15分弱歩いてバスセンターに着いた。中に入って店の場所を探す時間がかかると困ると思いながら一番近い入口に近づくと、カレーの臭いがした。入口のすぐ左という最適な場所にあったのは幸いであった。夕食の代わりにしたいことと、蕎麦屋なのでカレーだけでなく蕎麦も食べることにして、カレーはミニカレーにした。合計で680円だった。

「万代そば」は、「安い、早い、うまい」をモットーに1973年から続く老舗立喰そば屋という。

黄色いルーには、トンコツスープをベースに、玉ねぎ、にんじん、新潟県産の豚肉を使用。その下にはカレー用にブレンドされた県産米が隠れている。

 

無事、50分余りで万代島駐車場Aに帰り着き、駐車料金は無料だった。本日の行程を終えたので、道の駅「新潟ふるさと村」へ向かった。

新潟市歴史博物館 蒲原津・沼垂津・新潟津


新潟市歴史博物館 蒲原津・沼垂津・新潟津

2024年02月23日 13時56分20秒 | 新潟県

新潟市歴史博物館。新潟市中央区柳島町。

2023年9月30日(土)。

江南区郷土資料館から北へ進み、新潟港近くの新潟市歴史博物館へ向かった。南西交差点角に駐車場がある。焼失した1911年(明治44年)竣工の二代目新潟市庁舎の外観をモチーフに建設された博物館へ入館すると、中国人家族が見学していた。この時期は国慶節の連休がある。

新潟市信濃川・阿賀野川は日本海に流れ出て、大量の土砂を日本海へ運ぶ。海に流れ出た土砂は波や潮の流れにより、陸側へ押し戻され、さらに、砂は強い季節風によって内陸へ吹き飛ばされる。こうして砂が堆積し、新潟の土地ができていった。

信濃川と阿賀野川がもたらす水は、農水産業や舟運につかわれるなど人々の暮らしに恵みをもたらす一方で、災害などももたらしてきた。

弥生時代 2世紀 : 六地山遺跡(西区内野・曽和)が営まれる。

古墳時代

3世紀末から4世紀初めに、的場遺跡(西区的場流通)が営まれる。4世紀 角田山麓や新津丘陵に古墳が造られる。緒立八幡神社古墳が造られる。南赤坂遺跡(西蒲区竹野町)に北方系文化が流入する。

6世紀 : 高志深江国造が『国造本記』に記される。

渟足柵(ぬたりのき)の登場。

『日本書紀』には大化3(647)年の出来事として、渟足柵がつくられ、柵戸(きのへ)と呼ばれる柵に従事する人々が集められたことが記されている。柵戸とは農民でもあり、兵士でもあった。渟足柵がつくられた当時、蝦夷と呼ばれた人々が大和政権の支配がおよばない日本列島の北方に暮らしており、渟足柵はこうした蝦夷に備えた軍事施設であるとともに、都から遠く離れた地方を治める行政施設であった。

1990年に長岡市(旧和島村)の八幡林遺跡から「養老」(717~724年)の年号をもつ「沼垂城」と記された木簡が発見された。字は異なるものの「沼垂城」と「渟足柵」は同じ読みであり、同じ施設と考えられる。これによって文献でしか確認されていなかった渟足柵の存在が確かなものとなった。

また、この木簡の発見により、少なくとも養老年間まで渟足柵は「沼垂城」の名称で存続したことが明らかになった。「沼垂」は、現在でも新潟市内の地名として引き継がれている。

奈良時代が始まる8世紀前半、国―郡―郷を単位とする地方制度が整った。信濃川の河口には蒲原津があり、蒲原津は越後国の国津として人や物資の集まる交通の要所となった。新津丘陵では須恵器や鉄の生産が始まり、信濃川左岸の低地ではサケの漁獲・加工が行われた。また、海岸砂丘地帯では塩が作られた。

1564年(永禄7年) : 京都醍醐寺の僧が新潟に滞在する。

鎌倉から戦国時代の中世には、信濃川・阿賀野川河口には蒲原津(かんばらのつ)・沼垂津(ぬったりのつ)が栄え、戦国時代に新潟津(にいがたのつ)が登場した。この3つの港を総称して「三ケ津」と呼んでいた。それぞれの港は、川や潟を通じて越後国内の内陸部とつながり、また日本海を介して各地とつながっていた。

戦国時代の1520年(永正17年)に「新潟」という地名が記録に出てくるようになる。新潟津は信濃川河口左岸にあり、新潟津が現れてから蒲原津は衰え、新潟津が信濃川・阿賀野川河口の中心的な湊となった。

1580年(天正8年)。阿賀北(阿賀野川以北)の武将、新発田重家が新潟津を占拠し、上杉景勝(上杉謙信の後継者)との抗争が始まった。

1581年6月16日新発田重家が新潟津を奪取、同地に新潟城を築城し独立する。6月22日上杉景勝が木場城を築城する。

1586年(天正14年)、新発田方に味方していた新潟・沼垂の町民たちが上杉方へ寝返り、上杉方は新潟・沼垂を制圧することができた。新潟津を失った新発田氏は翌1587年(天正15年)に滅ぼされ、越後国は上杉景勝によって統一された。

1598年(慶長3年)、上杉景勝は豊臣秀吉の命令で会津(福島県)への国替えとなり、新潟湊は長岡藩領、沼垂湊は新発田藩領となった。長岡藩は新潟に新潟町代官を設置し新潟町となる。

その後、信濃川・阿賀野川河口部の地形が変化し、新潟湊は1655年(明暦元年)に信濃川左岸、現在の古町の地に移転した後に1676年(延宝4年)に長岡藩によって新潟町奉行が設置された。同じ時期に越後平野の生産力が増加し。北前船の西回り海運が安定する時期までに移転を終えた新潟湊は、1697年(元禄10年)には、日本海側屈指の湊に発展していた。

新潟町はかつて砂丘上にあり、明暦元(1655)年に現在の古町周辺に移転してきたと考えられている。この移転前の新潟町を「古新潟町」と呼び、古新潟町は本町、片町の2つの通りからなっていた。

元和2(1616)年に堀直寄が長岡藩主となり、新潟町も領地とした。直寄は長岡藩唯一の湊町である新潟町を発展させるため、沖の口役(出入港税)など町民にかかっていた9つの税を免除するとともに、新たに新町、材木町、洲崎町の建設を行わせた。直寄は商売ごとに居住地を分けさせ、本町では絹布、小物、紙などを売らせ、新町では米、大豆、くしあわび、こぶから、鮭などを売らせた。この時つくられた「新町」が後に本町になり、元々あった「本町」が古町になったといわれている。

1768年(明和5年)、長岡藩による御用金を原因とする一揆である新潟明和騒動が発生。新潟町民への長岡藩の御用金徴収に対し、涌井藤四郎らの町人が蜂起し、約2ヶ月に渡って町民による完全な自治を行った。

江戸時代後期、新潟湊では唐物(中国製品)と俵物(北海道製品)の密輸が行われていたことから幕府は密輸を摘発。1843年(天保14年)に新潟町を幕府領にした。川村修就が初代新潟奉行に任命された。(新潟上知。)

1868年(慶応4年)、新政府軍と旧幕府側との間に戊辰戦争が勃発。同年7月の北越戦争で新潟町は戦場になり、戦災で市街地を焼失した状態で明治維新を迎えた。

作家・坂口安吾が生まれた坂口家。

 

このあと、付近にある旧第四銀行住吉町支店、旧新潟税関庁舎を見学した。

新潟市 水の駅「ビュー福島潟」 江南区郷土資料館(亀田郷)

 


石原順(西山孝四郎)日経最高値 パラダイムシフトというより、「金融抑圧」による「円安バーゲンセール」

2024年02月22日 20時22分34秒 | 社会

石原順(西山孝四郎)日経最高値 パラダイムシフトというより、「金融抑圧」による「円安バーゲンセール」

2024年2月22日。✕(旧ツイッター)

 

日経平均34年ぶりに史上最高値、パラダイムシフトで海外資金流入 - Bloomberg

デフレでなくインフレ状態、消費者物価は右上がり続く-日銀総裁 - Bloomberg

 

日本銀行の植田和男総裁は22日、足元の物価動向について、デフレではなくインフレの状態にあるとの見解を示した。衆院予算委員会で答弁した。

 

リセッション(景気後退)に入ったのだから、インフレーションではなく、スタグフレーション。

バブルがないと経済はマイナスの自然利子率に陥ってしまう

こうした長期停滞の考え方はMITコンセンサスと呼ばれ、現在の日本銀行の政策のメインストリームを形成している。

日本人は今、「給料は上がらないが物価は上がる」という典型的なスタグフレーションの渦中にいる。この傾向は、これからもっとひどくなるだろう。公的債務の対GDP比の限界は250%程度と言われ、1940年代に英国が一度経験しているだけである。少子高齢化が進む日本は金利が上がると厳しい事態を迎える。

 

最近の日本の経済政策、すなわち、破滅的な量的緩和政策は、円安によって企業収益を上げ、その恩恵が家計に還元されるのを待つことが目的であった。しかし、トリクルダウンはいっこうに起こらず、国民の有意義な賃金上昇をもたらすという点では大失敗であった。

日銀が輪転機で刷った円で政府の借金を帳消しにするというインフレの方向性は、これから、日本国債や円に対する信認を揺るがすことになるだろう。

 

日銀の量的緩和政策は<日本国民の預金を連帯保証人とするインフレ政策>である。

景気が悪くてもインフレ懸念が強い時に政策金利を引き下げれば、将来のインフレ懸念を煽ることになり、将来の金利である中・長期の金利は上がってしまうのだ。

政府は景気が悪くなると中央銀行に金利を下げろと圧力をかけてくるが、中央銀行が金利を下げると、長期金利が逆に上がってしまうという現象が過去に何度も起きている。

問題は金利のコントロールがうまくいくかどうかである。中央銀行がコントロールできる金利は短期金利(=政策金利)だけである。景気が悪くなると、いつも政府は金融政策による景気刺激策を催促してくる。政治家が誤解しているのは、政策金利を下げれば全ての金利が下がると思っていることである。

 

金融抑圧とは何か?

自由市場における活動や、債券や通貨の価格形成に干渉する政府の政策は何であれ、金融抑圧的な行為と見なすことができます。

金融抑圧の一般的な動機として、政府が痛みを伴う財政再編を行うことなく、負債発行による資金調達能力を向上させることがあります。負債調達コストを、自由市場で要求される水準より低く抑えることによって、政府は借り入れコストを軽減し、債務残高の増加ペースを遅らせることができるのです。

金融抑圧は、密やかなデフォルトの一形態だと見なすこともできます。不換紙幣を発行する現代国家が、表面上は金利と元本を返済しつつも、債権者を割りの合わない目にあわせる紳士的な方法です。

2011年6月『世界的な金融抑圧という新時代』スコット・A・ マザー

 

これからの日本は、「金融抑圧」によって国民の富が政府に移転していく。早い話が、国民が貧乏(実質資産が目減り)になる一方で、政府は債務を実質的に圧縮していくのである。

2%のインフレが10年も続けば、政府の債務は実質20%軽減される。だが、多くの国民はそれを認識しづらい。いわゆる「茹でカエル」状態だ。

多くの借金を抱える国が、「インフレ率より長期金利を下げたい」という<金融抑圧の誘惑>にかられるのは当然の帰結なのかもしれない。

リーマン危機以降、どの国も債務残高が危険ラインに到達している。これを簡単に解消するにはハイパーインフレしかないが、そんなことはできないので金融抑圧政策が行われている。政府の借金圧縮(いわゆる財政健全化)のための「増税」や「歳出削減」は、国民やマスコミから文句が出やすい。

 

日経平均最高値更新の報道で、なぜNHKが山一證券の破綻場面を何度も映すのか分からないです。諸悪の根源は資産バブルに踊った銀行であり、証券会社は振り回されただけと思います。それにしても34年前のように世の中にお金が回っている印象はありませんね。(マーケットエッセンシャル主筆・前田昌孝

 


新潟市 水の駅「ビュー福島潟」 江南区郷土資料館(亀田郷)

2024年02月22日 15時43分08秒 | 新潟県

水の駅「ビュー福島潟」。新潟市北区前新田乙。

2023年9月30日(土)。

胎内市の国史跡・城の山古墳を見学後、新発田市のカトリック新発田教会を見学したのち、新潟市北区のビュー福島潟へ向かった。13時過ぎに駐車場に着いたが、満車に近かった。新潟県は潟湖が多かったが干拓により多くが埋められたため、福島潟は新潟の原風景が眺められる貴重な風景となって残っているということで訪れた。有料の展望階は障害者無料。

 

水の駅「ビュー福島潟」の建物は地上7階、地下1階で外観は螺旋状となっている。高さ29mの屋上展望台は晴れた日のみ開放されている。4階から上は有料。福島潟の自然や歴史に関する展示がある。喫茶店や展望台も設けられている。

福島潟は越後平野の北部、阿賀野川右岸に位置する262haの新潟市内最大の潟湖(せきこ)で、浅い水域にはヨシ帯が島状に広がり、日本の原風景「豊葦原の国」を思わせる。

福島潟へは五頭連峰を主な水源とする13本の河川が流入し、水面の標高はマイナス0.7m、平均水深は0.5mという越後平野の低湿地環境を象徴する存在で、多様な生きものが生育生息する自然豊かな湿地である。

福島潟はこれまで220種以上の野鳥が確認され、国の天然記念物オオヒシクイの日本有数の越冬地となっている。水辺ではヨシ、水域ではヒシが優占する中、アサザやガガブタ、オニバスなどの絶滅危惧種が生育する環境である。

福島潟は、その昔形成された新潟砂丘により、阿賀野川などの河川の流れが遮られ、さらに砂丘列の内陸側に徐々に土砂が堆積し、約2000 年~1000 年前に形づくられた。1680(延宝8)年頃、面積は約5800 haあったと伝えられている。

福島潟の干拓の歴史は江戸時代中期にまでさかのぼる。新発田藩は新田開発のための福島潟の干拓を進めたが、安政2(1855)年、当時の潟水面540haを豪農15人に譲渡した。明治44年(1911年)に、潟は天王の市島家の所有となった。

昭和に入り、国が市島家から潟を買収した後、1968年に国営福島潟干拓建設事業が始まって、69haが干拓され農地となり、1975年、福島潟の面積は193 haとなった。

東に五頭連峰や飯豊の山々を背景とする福島潟の特徴的な風景。潟の浅い水域にヨシ帯が島状に広がり、越後平野の原風景を思わせ、春には整備された菜の花畑と雪をかぶった山々が潟の景色を彩る。

西方向に遠く角田山と弥彦山が眺められる。

 

江南区郷土資料館。新潟市江南区茅野山。新潟市江南区文化会館内。

「水と人々のあゆみ」を中心テーマとし、「地図にない湖」と表現された亀田郷内での水との闘いに明け暮れた生活を物語る農具や民具を収蔵・展示している。

亀田郷土資料館から名称を変更し、江南区全般をカバーしている。

広大な駐車場に駐車。図書館の中にある。亀田郷といえば亀田製菓を思い浮かべるが、司馬遼太郎の「街道をゆく」を読んで、水と戦う農民の姿を想像し、実際に1953年制作の映画「芦沼」を見て凄絶さに驚いた。

亀田郷は、越後平野を流れる信濃川、阿賀野川およびその支流である小阿賀野川に囲まれた新潟市中央区・東区の一部と江南区のほぼ全域にあたる鳥屋野潟を中心とした約11km四方、約10,000haにも及ぶ広大なエリアで、かつては「地図にない湖」「葦沼」ともよばれた大湿地帯であったが、干拓されて美田となった。

この地域は多くの横列砂丘が発達し、河道に沿った自然堤防の背後を低背湿帯が占め、耕作地の標高が低いといった越後平野の地形的特徴を全て備えたような地域であった。

この地域の開発が始まったのは溝口秀勝が新発田城に入った1598年(慶長3年)であり、以後の新発田藩主・溝口氏による新田開発などの土地改良事業がその後の開発の礎となった。

19世紀末までに農民たちは村単位で協力して水田地帯の周囲に小堤と排水路を巡らせて小さな輪中を構成するようになるが、村ごとに対策は異なっており対立や紛争が繰り返された。

1906年(明治39年)以降、地域内に排水機が順次設置されていくが、農民は舟を使って腰まで水に浸かりながらの農作業を強いられ、生産性が低く且つ命懸けの作業環境にさらされていた。

1948年、戦前から進められていた農地整備事業の一環として、鳥屋野潟東端部から栗ノ木川を通じて機械による強制排水を行う「栗ノ木排水機場」が稼働を開始した。合わせて域内には土地改良区が組織され、農地を統一規格に整備することとなり、用排水路など疏水の整備も進められた。

こうした策によって亀田郷の排水は急速に進捗し、1955年頃には水田の区画化がほぼ完了。牛や馬、機械による農作業が可能となって舟農業からの脱却を果たした

 

14時45分ごろに見学を終え、新潟港近くの新潟市歴史博物館へ向かった。

新潟県胎内市 国史跡・城の山古墳 日本海側最北端の古墳 会津への道


新潟県胎内市 国史跡・城の山古墳 日本海側最北端の古墳 会津への道

2024年02月21日 13時41分17秒 | 新潟県

国史跡・城の山古墳。新潟県胎内市城塚。

2023年9月30日(土)。

奥山荘(おくやまのしょう)歴史館は、国史跡・奥山荘城館遺跡のガイダンス施設であるが、城の山(じょうのやま)古墳をトピック展示していたので、江上館跡・坊城館跡を見学後、現地に向かった。

城の山古墳は、新潟県北部の沖積地に位置する古墳時代前期(4世紀前半)に築造された東西41m、南北35m、高さ5mの楕円形の円墳である。新潟県では古津八幡山古墳(約60m)、菖蒲塚古墳(約35m)についで3番目の大きさである。なお、2014年前方後円墳とする見解が示されていたが、現在では前方後円墳の可能性は否定されている。

古墳時代前期は,前方後円墳や前方後方墳に加え,大型の円墳が各地に拡散する時期に相当するが,城の山古墳は現在までのところ日本海側における最北端,従来の北限であった阿賀野川よりも北に立地している。また,豊富な副葬品はこの古墳の被葬者とヤマト政権との密接な関わりを想定させるもので,ヤマト政権の北国政策の一端を示すものとして重要であるだけでなく,古墳時代前期の社会や地域の動向を考える上で,極めて重要な古墳である。

城の山古墳の南には清水潟(後の塩津潟、紫雲寺潟)があり、内水面を通じて阿賀野川につながり、日本海と内陸部とを結ぶ水上交通の要衝に立地していた。当時、物流は内陸部の湖沼や河川伝いに行われており、ここを拠点にすでに物流が展開されていたとみられる。福島県会津大塚山古墳からも似たような副葬品が出ており、阿賀野川水系を通じて古墳文化が会津へもたらされたとみられる。

周辺には,同時期の集落や生産遺跡が認められている。

また,この地域は,続縄文土器が散発的に見出され,7世紀には,渟(ぬ)足(たりの)柵(き)や磐(いわ)舟(ふね)柵(のき)が本地域周辺に築かれたと推定されるなど,ヤマト政権と北方世界が交わる境界の地に当たる。

発掘調査によって,未盗掘の状態で検出された全長約8m,幅1.5mの舟形木棺からは靫(ゆぎ)3点や盤(ばん)龍(りゅう)鏡(きょう)1面をはじめとする豊富な副葬品が出土した。棺周辺部には赤色の顔料が大量に用いられていた。

靫(ゆぎ)。

銅鏡(盤龍鏡)。

龍を浮き彫りにした盤龍鏡。このデザインは、1世紀から3世紀頃の中国(後漢、魏、晋代)にみられるものであり、日本では珍しい。古墳の築造年代とずれているため、中国から直接持ち込まれたものではなく(国産であったとしても)、大和朝廷を介して地域にもたらされたものと考えられている。

残っていた人骨の一部。

両頭金具。

弓に取り付ける鉄製の金具。以前に長野市の大星山古墳(3号墳)から出土したものを上回る年代であり、2012年現在、日本最古の出土品。

12時に近づき、9月28日に場所が分からなかった新発田市のカトリック新発田教会へ向かい、見学したのち、新潟市北区の福島潟へ向かった。