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新潟県胎内市 荘園領主の館・江上館跡 奥山荘歴史館

2024年02月20日 15時51分27秒 | 新潟県

国史跡・奥山荘(おくやまのしょう)城館遺跡・江上館跡。奥山荘歴史館。新潟県胎内市あかね町。

2023年9月30日(土)。

胎内市乙(きのと)の乙宝寺(おっぽうじ)を見学後、冬季を除く土日祝日のみ開館する奥山荘歴史館へ向かった。隣接する国史跡・江上館跡は「奥山荘歴史の広場」として公開されている。

奥山荘城館遺跡は、中世東国を代表する荘園の奥山荘の荘域に形成された城館遺跡等で13か所が史跡指定されている。

 

板額御前(はんがくごぜん、生没年不詳)。城資国の娘で資盛の叔母という説もある。日本史における数少ない女武将の一人で、古くから巴御前とともに女傑の代名詞として「巴板額」(ともえ はんがく)として知られてきた。城氏は越後国の有力な平家方の豪族で、治承・寿永の乱を経て没落したが、建仁元年(1201年)に、越後において城資盛が挙兵し、要害の鳥坂城に拠って佐々木盛綱らの討伐軍を散々てこずらせた。板額は反乱軍一族の将として奮戦したが、敗軍の捕虜として鎌倉に送られ、2代将軍・源頼家の面前に引き据えられた。全く臆したところがない態度に感銘を受けた甲斐源氏の浅利義遠は、頼家に申請して彼女を妻として貰い受け、一男一女をもうけたという。義遠が本拠とした山梨県中央市浅利に近い笛吹市境川町に板額御前の墓所と伝わる板額塚がある。

奥山荘と三浦和田氏の中条氏・黒川氏。

奥山荘は、越後国蒲原郡(新潟県胎内市,新発田市の北端部,岩船郡関川村の一部)の荘園で、摂関家領である。成立の時期は不明であるが,越後城(じよう)氏のなかに〈奥山〉を称する者があり,城氏を開発領主として12世紀には成立したとみられる。

源平争乱で城氏が没落したあと,その地頭職は木曾義仲を追討した恩賞として和田義盛の弟義茂に与えられた。和田氏,三浦氏が和田合戦,宝治合戦で没落した後は,奥山荘だけが義茂の子孫三浦和田氏の〈一所懸命〉の地となった。地頭支配の強化は荘園領主支配と対立するようになり,1240年(仁治1)には領家と地頭時茂との間に和与が成立し,年貢米100石,御服綿10両(代銭納の場合は60貫文余)を地頭が納めることで地頭請所となった。

1277年(建治3)地頭時茂は孫3人に奥山荘を北条(きたじよう),中条(なかじよう),南条に3分して与え,それぞれが惣領を立てることになった。以後奥山荘の三浦和田一族は典型的な惣領制を展開しながら荘内の支配にあたったが,しばしば一族間に係争を生じ,訴訟をくりかえした。

南北朝末期には惣領の単独相続制に移り,庶子の被官化を進めた。北条は黒川氏,中条は中条氏が惣領として独立しており,南条は関沢氏が中心となったとみられるが,このほかにも高野氏,羽黒氏などの諸家が生まれた。

南北朝時代に、中条房資の曾祖父・茂資(もろすけ)が観応の擾乱の頃に鳥坂(とっさか)城を築き、1453年(享徳2)に中条房資は鳥坂城を再興して中条氏の居城とした。

室町~戦国期にはとくに中条,黒川両氏は有力国人領主として成長し,しばしば守護上杉氏と対抗する勢力となった。中条氏は、同族の黒川氏と領土問題などをめぐり争いが絶えず、越後における内乱の際にはしばしば敵味方に分かれ対立した。

戦国時代中条藤資は長尾為景に仕え、為景の没後は長尾晴景と対立するが、晴景の弟である景虎(上杉謙信)が国主となるとそれに仕え家臣筆頭として活躍した。藤資の後まもなく男子が絶えたが、娘婿で吉江氏の景泰が中条氏を継いだ。子孫は引き続き上杉氏に仕え、1598年(慶長3)豊臣秀吉によって上杉氏の国替が命ぜられると,奥山荘の領主たちもこの地を去って,名実ともに奥山荘の歴史をとじた。中条氏は、上杉氏が米沢藩に転封されるとこれに従った。

黒川氏は、謙信死後の御館の乱では、上杉景虎に加担し上杉景勝方の中条氏を攻めて鳥坂城を占領したが、翌年には景勝によって黒川城は落城。乱は景勝が勝利し、当主の黒川清実は伊達輝宗の仲介で景勝に降伏。以降は景勝に従った。子孫は引き続き上杉氏に仕え、上杉氏が会津に転封されるとこれに従い、子孫は米沢藩士となった。

奥山荘の権利証拠として作成された『波月条絵図(なみづきじょうえず)』。

1277(建治3)年、和田(高井)時茂(ときもち)は奥山荘を中条・南条・北条に三分割し、和田中条は茂連(もちつら)に、南条は和田義基に、北条は和田茂長(もちなが)にそれぞれ相続させた。ところが、和田時茂の死後、三浦和田氏では所領を巡る相続争いが勃発した。

訴え出たのは、和田時茂の娘・意阿(いあ)であった。1285(弘安8)年、意阿は「道円(どうえん)(時茂のこと)の譲状は偽文書」と幕府に訴えた。その結果、和田時茂の孫たちとの訴訟合戦へと発展した。敗訴して所領を奪われる身となった茂明(もちあき)(茂連の子)は、自身の正当性を訴えるための訴訟資料として『波月条絵図』を作成。結果、逆転勝訴して所領は茂明に返された。

『波月条絵図』は、こうした経緯で成立したため、奥山荘の領内の様子が克明に描かれている。絵図中央には太伊乃河(たいのかわ)(胎内川)が左右に流れ、条の境界や市場(七日市(なのかいち)や高野市(たかのいち))の場所、地頭の館、町並み、鋳物師の名前などが記載されており、訴訟のために正確性を期した結果、図らずも中世東国荘園の実態を現代に伝える内容となっている。

江上館跡は、旧中条町の南部、旧潟湖に隣接する扇状地の扇端部の標高約18mの微高地に占地し、三浦和田氏の惣領家である中条(なかじょう)氏の居館跡と伝えられている。

発掘調査によって、約1町四方の主郭とそれに附属する南郭・北郭からなる館跡の全体像がほぼ判明した。13世紀から16世紀前半の中国陶磁器・珠洲焼等が大量に出土し、4か所の橋跡、南門・北門跡、数次にわたる堀・土塁の改修補強の様相が確認された。

奥山荘歴史館2階から江上館跡。

江上館跡。南門。

江上館跡。主郭部主殿方向。

江上館跡。主郭部北から北郭方向。

江上館跡。北郭から北方向。

 

国史跡・坊城館跡(西本町)。

鎌倉時代後期(13世紀後半~14世紀前半)の館跡で、当時最も格の高い居住者である地頭=三浦和田一族の屋敷跡であると考えられ、鎌倉時代の地頭屋敷が室町時代の武家居館(江上館)の南方200mに位置していたことが判明した。

60数m四方の屋敷地を区画する溝や大規模な建物が何棟も発見され、大量の土器(かわらけ)、青砥などの高級中国製磁器などが見つかっている。

 

 

 

 


新潟県胎内市 乙宝寺(おっぽうじ) 写経猿伝説

2024年02月19日 13時32分23秒 | 新潟県

乙宝寺(おっぽうじ)。新潟県胎内市乙(きのと)。

2023年9月30日(土)。

村上市の国史跡・平林城跡の見学を終えて南進し、乙宝寺へ向かい、9時15分ごろ第1駐車場に着いた。一通り境内を眺めてから、山川の歴史散歩に記載されている奥山荘黒川条総鎮守の八所神社を見学しようと、血の池付近に駐車して少年自然の家周辺まで探し回ったが、なかなか見つからなかった。乙宝寺の大日堂方面を探すと、大日堂のすぐ南西、六角堂の右側に八所神社があった。神仏分離令により、境内地に算入しない別法人扱いのようで、案内図には建物は記載されているが番号は付いていない。20分ほど時間をロスして10時15分ごろ奥山荘歴史館に向かった。

乙宝寺真言宗智山派に属する。金堂には胎蔵界大日如来、阿弥陀如来、薬師如来の三尊が本尊として祀られている。天平8年(736年)に聖武天皇の勅願を受けて行基菩薩と婆羅門僧正(菩提僊那)によって開山された。婆羅門僧正は名を菩提僊那(ぼだいせんな)といい印度から渡来した高僧で、釈尊の両眼の舎利を請来した。右眼の舎利は日本へ渡来する前に中国へ渡り「甲寺」を建てて納めた。そして日本へ渡来し、聖武天皇の勅願を受けて建てたこの寺に左眼の舎利を納めて供養をし「乙寺」と名付けた。

その後、後白河法皇より舎利を奉安する金の宝塔を賜り、併せて「宝」の一文字を与えられ乙宝寺と名前を変えた。

乙宝寺の境内は2万5千坪あり、広い境内には多くの堂塔伽藍が残されている。

弁天堂。県指定重要文化財。

江戸初期の建築。池中の小島に建てられている。外観は、縦行3間、梁間2間、4柱造りで屋根は茅葺、堂内にある厨子は、小規模であるがいずれも極彩色で施してある。

また、堂内三方の壁板には、豊かな色彩で竹林が描かれた跡があり、桃山時代の特色を失わない江戸初期の作品と思われる。

仁王門。

延亨二年(1745年)に改修。奈良創建の金堂の古材が使用されている。仁王尊は行基菩薩の作。また、山額「如意山」は洛東智積院第七世運敞の揮毫。

重文・三重塔。

慶長19年(1614年)起工、元和6年(1620年)に竣工。村上城主・村上忠勝が願主となり、慶長9年(1614年)起工、元和6年(1620年)の村上城主堀丹後守直奇のときに完成した。棟梁は京都の小島近江守藤原吉正。塔頂の九輪に、貞享年間(1684~87年)の再興の刻銘がある。

柿葺の塔の建築様式は純和様の三層塔姿で、内外とも絵様・繰形など装飾をはぶき簡素であるが、全体の形が荘重で、均衝が美しい。

塔内安置仏は普賢菩薩で、辰年と巳年生まれの守り本尊である。

大日堂(金堂)。

乙宝寺の中心堂宇。延亨二年(1745年)に再建された旧大日堂は昭和十二年に焼失。現在の御堂はその再建で、昭和五十八年に竣工した。大きさは旧大日堂に倣い十五間四面となっている。本尊に大日、弥陀、薬師の三尊を祀り、所願成就の御祈祷がお勤めされる。

六角堂。

延亨年間に再建された御堂で、本尊は釈迦如来。地下には当山に伝わる仏舎利を祀った五重塔の心礎が安置され、奈良朝創建を裏付ける。この御堂は結びの堂とも呼ばれ、良縁成就の御利益がある。

 

「写経猿伝説。猿供養」伝説。

乙宝寺は古刹として名高いが、最も有名な伝説として「写経猿伝説。猿供養」の話が残されている。これは『大日本国法華経験記』第126話を初出として、『今昔物語集巻14』『古今著聞集』『元亨釈書』に記載されている。

乙寺に専ら法華経を誦経する僧がいた。ある時から2匹の猿が来て、木の上で1日中経を聞くようになった。数ヶ月して、僧は不思議に思って猿に誦経するかと尋ねると、猿は首を横に振った。さらに写経するかと尋ねると、今度は猿が笑みを浮かべて手を合わせたので、写経をしてやろうと言うと涙を流して木を下りて行った。数日後、多くの猿が木の皮を持ってきた。僧はこれで紙をすいて写経をして欲しいと悟り、早速紙をすいて写経を始めた。2匹の猿は毎日欠かさず現れ、山で採れる木の実などを置いて帰った。しかし法華経の第五巻まで写経した時、ふっつりと猿はこなくなった。気になった僧は山へ行き、そこで猿が2匹とも死んでいるのを見つけた。そして猿の遺骸を葬り、書きかけの法華経を仏像の前の柱の中に納めたのであった。

それから40年もの歳月が流れた。突然、新しく越後の国司となった紀躬高(『今昔物語集』だけは藤原子高とし、承平4年(934年)のこととしている)が夫婦で来訪し、「この寺にまだ書き終えていない法華経はないか」と尋ねた。かつて猿に法華経を写経してやった僧がまだ生きており、そのことを告げると、国司は「私たちは、その時の猿の生まれ変わりです。あなたの誦経によって発心し、その勧めで写経を志したのです。どうかその法華経を最後まで写経していただきたい。私たちはその願いを叶えるために生まれ変わり、この国の国司に任ぜられたのです」と言う。それを聞いて僧は感激し、経を取り出して写経を完成させ、国司もまた法華経を写経して寺に納めたという。

このことから乙宝寺は猿供養寺とも言われ、乙宝寺の境内にはこの2匹の猿を供養した墓である猿塚がある。

芭蕉の句碑。「うらやまし浮世の北の山桜」。

松尾芭蕉奥の細道の途次、元禄2年(1689年)7月1日に当寺を参拝している。寺は当時より桜の名所となっていたようである。この句碑のあるところを浮世塚と呼んでいる。

随伴者である曾良によると、「7月1日。時々小雨。朝門人ら尋ねてきて、皆で榊原帯刀の菩提寺泰叟院参詣。午前11時頃、村上を立つ。午後1時頃、中条町(胎内市)に到着。次作を尋ねる。大変もてなされる。次市良宅へ泊る。時々雨強く降る。夜強雨」。

芭蕉一行は実際には16日かかって越後路を通過したが、柏崎や直江津で芭蕉の宿泊や待遇について手落ちがあって気分を害したために奥の細道の越後での記述は極端に省略されたらしい。

曾良の日記の中で越後路(新潟県)の神社仏閣は記載されているものは少なく、村上の光榮寺、泰叟院(現在の浄念寺)、胎内の乙宝寺、弥彦の弥彦神社(当時の弥彦明神)、長岡(寺泊)の西生寺(文中では最生寺)、直江津(上越市)の五智国分寺、居多神社に限られている。

八所神社宮殿(きゅうでん)。県重文。

大同2年(807)創立、市川八所大明神と称し、奥山荘黒川条内乙郷44カ村の総鎮守として崇敬されてきたと伝えられる。現在の宮殿は、元和6年(1620)乙宝寺大日堂の南側の小高い丘に建立された。

身舎桁5尺、梁間4.5尺、向拝の出4尺の一間社流造りで、全体に一見して手筋の良さが感じられる。

新潟県村上市 国史跡・平林城跡 上杉家重臣・色部氏の故城


新潟県村上市 国史跡・平林城跡 上杉家重臣・色部氏の故城

2024年02月18日 13時06分39秒 | 新潟県

国史跡・平林城跡。新潟県村上市葛篭山。

2023年9月30日(土)。

村上市神林の道の駅から平林城跡へ向かい、8時前に田園地帯の山裾にある駐車場に着いたが、車が1台もいないことに驚いた。村上城跡に早朝登る市民が多かったので、当然この手頃な山城も多いはずだと思っていたからだ。その理由は、駐車場に設置されたガイダンス施設のドアに貼られた掲示により登山道崩壊と分かった。麓の館城跡は見学可能だが、県内ではクマに遭遇する事件が頻発していたので、熊鈴を鳴らしながら歩いていくことにした。

平林城は、中世、北越後の小泉庄加納を領した国人領主色部氏累代の居館及び山城である。これらの遺構は、極めて良好に保存されており、鎌倉時代の地頭の居館を起源とする城館遺跡として中世史を理解する上に好個の資料を提供する。

小泉庄は、越後国北端の岩船郡中央部を占める広大な庄園で、平安時代中頃に藤原氏中御門家を領家として立券され、平安時代末頃には、庄域は本庄及び加納から成っていた。鎌倉幕府成立後は、二分され秩父氏の一族が臥牛山城(村上城)を居城として本庄氏を名乗る一方、その庶家である色部氏は、加納の地頭として色部条、牛屋条及び日本海上の粟島を領した。

色部氏の所領支配は、鎌倉から室町時代を通じて続いた。13世紀後半ごろ、色部為長の子、公長が越後に移ってきたという。色部氏の当初の本拠地は不明だが、その苗字から「小色部」(村上市牧目、まきのめ)付近が比定されている。色部氏が平林城跡に本拠(館)を移した時期は不明だが、南北朝時代に南朝方に付いた平林城主の平林氏を北朝方であった色部氏が攻め滅ぼして本拠地としたという。

戦国時代には国人領主として、北越後に重きをなした。上杉氏による越後一国の領国化が進む過程で服属関係を結ぶが、守護代長尾氏による「下剋上」に当たっては、色部昌長は越後守護上杉房能に従い、守護代長尾為景と対立。永正5年(1508年)5月に為景方の鳥坂城主の中条氏や築地氏らに攻められ落城、降伏して長尾氏に帰属した。

長尾氏が主家上杉氏の名跡を襲った後は、色部氏は上杉家重臣として遇されてきたが、慶長3年(1598)、上杉景勝が会津に転封されるに及んで色部氏も米沢に1万石を与えられ、本領を離れて出羽国金山城(山形県南陽市)に入り、平林城は廃城となった。

平林城の遺構は、標高281mの要害山(古名は加護山)とその西北麓にみられる。

詰城の置かれた要害山は、館跡から山頂まで1.7㎞あり、途中に水場や「物見山」、「のろし山」等の要所がある。山頂は2段に削平され、東側の尾根には2か所の堀切が認められる。

(1)城戸(2)馬洗い場(3)首切り清水(4)のろし山(5)物見山(6) 要害主体部(加護山)(7)館城

廃城前の平林城の姿は、文禄4年(1595年)の上杉景勝の領内検地に基づく、慶長2年(1597年)の「越後国瀬波郡絵図」に描かれている。居館には塀を巡らせ、中央に櫓門や数棟の建物がみられるが、背後の山城は「加護山古城」と記されていることから、すでに山城は廃されていたようである。

館跡は平野に面する西側を大手とし、大別して3郭に分かれる。西南の最も大きな郭は「岩館」と通称され、東西に長い長方形で、北西隅に虎口を開く。その東には「中曲輪」があり、さらに東に「殿堀」と呼ばれる空堀がある。ここに架設されていた木橋を渡った東は館跡の最奥部に当たり、「殿屋敷」とよばれる館の最も主要な郭が存在する。

岩館(1)北虎口(2)城内道(3)井戸跡。中曲輪 弁天虎口。殿屋敷(1) 表虎口(2)表虎口石組排水溝(3)主殿(4)北郭建物跡(5)方形竪穴状遺構(6)東土塁。

岩館北虎口付近の土塁。

岩館の北虎口は北西側に位置する土塁に囲まれた内枡形の出入り口。城外と接する大手の門は見つかっていない。

岩館北虎口付近。

岩館は、居館部最大の曲輪で、その規模は東西約200m、南北約90m。北西、北東、南西にそれぞれ虎口があり、西側および北側と南側の一部に土塁が残る。東側は鉤形の大型土塁と空堀で中曲輪と接している。曲輪の中は雛壇状に大きく3つに区画されている。

岩舘東虎口付近。東下にある弁天虎口方向。

弁天虎口は、中曲輪の北西に位置するS字形に屈曲する桝形の出入り口で、平林城の大手口とされている。

岩舘の東土塁。

中曲輪。

居館部の殿屋敷と岩館に挟まれている東西約80m、南北約100mの方形の曲輪で、北側は殿屋敷と南堀で、岩館とは鉤形土塁と空堀で接している。また、南側は旧崖、東側は山城との間を区切る土塁と空堀で囲まれている。曲輪の中はいくつかの方形の区画割が認められるが、曲輪の性格はわかっていない。また、中曲輪の最高位地点が色部氏の主殿があったと考えられる殿屋敷よりも高所であることなど、なぞの多い曲輪である。

殿屋敷の表虎口と堀。殿屋敷方向。

殿屋敷の表虎口と堀。中曲輪方向。

殿屋敷は居館跡の3つの曲輪の中で一番奥に位置している。小字名にその名を残すことから、城主の屋敷跡と推測されている。曲輪の規模は南北約100m、東西約150mで三角形のような形をしている。北東側と北西側は川と接しており、南と東側は堀と土塁で囲まれている。

色部氏主殿跡と東土塁。

殿屋敷の中心部(主郭)から大型の掘立柱建物跡が見つかっている。規模は東西25.3m、南北26mで推定される床面積は658㎡。出入口は南側の隅に作られ、西側からは建物に囲まれる形で井戸が見つかっている。主郭の中では最も大型の建物であることから、色部氏の主殿と考えられる。

東側の土塁の高さは2m程度である。土塁の東側に作られた東堀は、断面形が薬研堀で、表虎口に面する南堀はのちに作り替えた箱堀である。

主殿跡北の北郭に掘立柱建物跡が2棟見つかっている。1棟は規模が推定13.7×9.8mで床面積は134㎡。一部建物が重複するため、この2棟は同時に建てられたのではなく時間差があることが分かっている。

殿屋敷最北端の城戸虎口付近。

50分ほど見学したのち、胎内市の乙宝寺へ向かった。

新潟県村上市 雅子皇后祖母家の武家屋敷 イヨボヤ会館 鮭と村上藩士


新潟県村上市 雅子皇后祖母家の武家屋敷 イヨボヤ会館 鮭と村上藩士

2024年02月17日 11時39分40秒 | 新潟県

武家屋敷・旧嵩岡家住宅。新潟県村上市庄内町。まいづる公園。

2023年9月29日(金)。

粟島を1時間弱見学後、14時35分ごろ岩船港に帰着した。村上市街地へ戻り、雅子皇后陛下のご祖母静様の父方の実家である武家屋敷の旧嵩岡(たかおか)家住宅を見学するため、市街地東にある「まいづる公園」へ向かった。駐車場は狭いが、道路南側や北側に2か所ある。旧嵩岡家住宅は道路北側の表門と築山を越えた位置にある。

まいづる公園付近から望む村上城跡(臥牛山、舞鶴城)。

まいづる公園は、皇太子殿下・雅子妃殿下の御成婚を記念した公園で、南東方向に村上城跡をのぞみ、公園内には雅子妃殿下ゆかりの旧嵩岡家住宅のほか、旧岩間家住宅、旧藤井家住宅を移築復原している。

 

旧嵩岡家住宅」は、直屋・寄棟造・萱葺、面積は103㎡で、1996年に現在地に移築復元された。

この建物は玄関を入るとすぐに茶の間があり、隣に主人の接客と居室を兼ねた座敷を備え、接客と居住空間の明確な区別がない。また、上屋の梁間が二間半ということから、隣の旧岩間家住宅と比較すると茅葺き屋根が大きく見える。

嵩岡家は、代々100石を給された中級武士で天明期は江戸藩邸詰であった。

旧嵩岡家住宅の屋敷は現在の村上市新町にあったが、1987年に宅地造成のために解体されることになった。解体に際して、村上市に現存する数少ない武家屋敷の一つであること、比較的保存状態が良かったことなどから、解体されることを前提としながらも、村上市教育委員会はこの旧嵩岡家住宅を市の有形文化財としての指定を行った。

これによって建築部材の格納保存を目的とした解体調査工事と復原調査が行われ、主要な小屋組部材、軸部材及び天井部材などの内部造作材の保存格納が行われた。

平成5(1993)年、皇太子殿下と小和田雅子様の御成婚を記念しての記念公園整備事業が1994年より計画着手されたが、嵩岡家が小和田家と縁戚関係にあることから、この記念公園整備事業の目玉として旧嵩岡家住宅の復原が行われることとなった。そして、この御成婚を記念した公園内には、この旧嵩岡家住宅のほか、旧岩間家住宅、さらには旧藤井家住宅の3棟の武家屋敷が復原された。

旧嵩岡家住宅があった村上市新町地内は、江戸時代には主に中下級武士が集住していた地区である。

嵩岡家については、天明7(1787)年の分限帳によると江戸藩邸詰めの武士の中に「平侍百石嵩岡泰蔵」とある。また、明治初年の村上士族名寄帳によると「給人百石嵩岡小太郎」とある。そして、明治初年に書き改められた城下絵図には、ちょうどこの場所に「嵩岡五郎左衛門」と記載されている。これらのことから嵩岡家は代々百石を給されていたと考えられ、村上藩では中級に位置する武士であった。

小和田家の近い祖先は越後村上藩内藤家5万石の藩士で、下級武士であった歴代の当主は代々下横目(目付)、奥方付きお庭番などの役職につく傍ら、制剛(せいごう)流という柔術の達人として村上藩以外の他藩でも有名な家柄であった。

小和田家の古文書における初出は江戸時代中期の1740年(元文5年)であり、 越後国村上藩藩士の小和田貞左衛門(貞右衛門)の子二人が早世し、城下の本悟寺で「釈入信」、「釈敬信」という法名を与えられた。

小和田家を含め村上藩史は戊辰戦争以来の3度にわたる火災で重要資料が焼失しているため調査が困難であったが、山本茂の調査によれば、「同心・新六匡安(しんろくただやす)の子で郡方懸りの道助匡春(1858年(安政5年)11月11日 64歳没)という人物がおり、その兄弟・兵五郎が分家し、兵五郎の嫡男・道蔵匡利(1874年(明治7年)7月28日没)の三男が金吉である」と推測している。

金吉の長男である小和田毅夫の代までは、旧・村上藩士が権利を持っていたサケの漁業権収入を相続していた。

小和田金吉税務官吏となって新潟県高田市(現在の新潟県上越市)などに住み、熊倉竹野と結婚して長男の毅夫をもうけた。その後金吉は明治33年に病没した。金吉の妻である竹野は毅夫を伴い実家に戻り、助産婦の資格を取得して、働きながら息子を育てた。

小和田毅夫は旧制新潟県立高田中学校(現在の新潟県立高田高等学校)から広島高等師範学校(現在の広島大学)を卒業して全国各地の旧制中学校の教師を務めて、1934年(昭和9年)以降は新潟県下の複数の旧制高等女学校や旧制中学校の校長(特に母校の旧制高田中学校の校長)を長期間務めた。

毅夫は5人の男子と3人の女子に恵まれて、男子は全員が毅の推薦枠で入学した東京大学卒業である。長男の小和田顯は専修大学教授の漢文学者で、二男の小和田恆が外交官で、弟たちは運輸官僚が2人と弁護士である。姉妹の1人は夭折しているが、その他の姉妹の2人は戦前の教師育成の高等機関の東京女子高等師範学校と奈良女子高等師範学校卒業である。

小和田恆は東京大学教養学部卒業後の昭和32年に外務省に入省して、ケンブリッジ大学に留学している。条約など法制分野のスペシャリストであった。

毅夫の妻で雅子の父方の祖母にあたる静は新潟県塩沢町の旧家の田村家の出身で、静の父の田村(嵩岡)又四郎も旧制中学校の教師を長く務めていた。又四郎の実家である嵩岡家も村上藩士の子孫で、彼の養父田村寛一郎は「私草大日本帝国憲法案」という私擬憲法を起草した碩学であった。

イヨボヤ会館。村上市塩町。

鮭をテーマとした市営博物館である。地元では、サケを「イヨボヤ」とよんでいる(「イヨ」も「ボヤ」も魚を指し、イヨボヤは「魚の中の魚」を意味する)。

三面(みおもて)川畔にある「鮭公園(サーモンパーク)」の中心施設となっており、サケの水槽や生態に関する展示といった水族館的な要素だけでなく、伝統漁法や食文化、それにまつわる地域の歴史・民俗資料を収集・保存・展示する総合博物館である。

館内には淡水生物や魚類の生体が複数展示されており、地下には三面川分流「種川」の水中に面した窓から直接サケなどを観察できる「三面川鮭観察自然館」が設けられている。

青砥武平治(あおと ぶへいじ、1713(正徳3年)~1788(天明8年))。

村上藩士。藩の郷村(さとむら)役として漁業を含む民生を担当し、サケの回帰性を利用した増殖方法である「種川の制」を創設したことで知られる。

村上藩士・金沢儀左衛門の二男として生まれる。幼少時に青砥冶兵衛の養子となった。「三両二人扶持(さんりょうににんぶち)」の小身だったが、明和3年(1766年)、54歳の時に当時5万余石の村上藩としては異例と思える70石の「石取り侍(こくとりさむらい)」に昇格した。

種川の制。

サケは当時の村上藩にとって、藩政を支える重要な資源であったが、乱獲により枯渇寸前で、1720年頃には漁獲量がゼロに近づいていた。武平治は、サケが産まれた川に帰って産卵する母川回帰の習性を知り、遡上する三面川を3つに分流させ、うち1つでサケを保護して増やすことを着想した。川の産卵に適した場所に蔦や柴で「止め簀」という柵を造り、ここで産卵のため三面川に遡上するサケの遡上を阻止して分流の種川(サケの産卵のための人工の川)に導き、そこに閉じ込め、 産卵し終えるまで分流を禁漁にした。

それは現代では「自然ふ化増殖」という。当時世界でも類を見ない増殖法であった。安全な状態で産卵させ、ふ化する稚魚を増やせば、再び三面川に回帰するサケも増えると考えた。

村上藩はこの提案を「種川(たねがわ)の制」 として導入し、種川造成(1763年-1794年)を始めた。三面川での「種川の制」は、世界で初めて「サケの自然ふ化増殖」に成功した画期的なサケ保護・ 増殖システムといえよう。

種川は宝暦13年(1763年)から武平治没後の寛政6年(1794年)までのおよそ30年にわたって拡張され、制の導入前には多くても200両から300両だった漁獲高が、導入後は1000両を超えるまでに至った。

種川の制は後に文化3年(1806年)には出羽国庄内藩が月光川水系の滝淵川と牛渡川で行い、明治になってからは北海道の石狩川などでも取り入れられた。現代の用語では「自然孵化増殖」であり、サケを捕獲して人工授精させる「人工孵化増殖」が明治に普及するまでの約100年間、日本のサケ増殖の主流であった。

その後村上では、1878年には、アメリカのふ化技術を取り入れた日本初のサケの人工孵化と放流を行い、1884年には年間73万7千匹ものサケを捕獲したという記録がある。

鮭の不漁と「種川」考案者「青砥武平治」。

現在でも市内を流れる三面川〔みおもてがわ〕には毎年多くの鮭が遡上し、鮭のまちとして全国に知られるようになった村上ですが、鮭とのかかわりの歴史は古く平安時代には鮭を朝廷へ献上した記録が残っています。

そして江戸時代には、鮭漁による収益(運上金)は村上藩の貴重な財源でありました。

しかし、江戸後期になると乱獲により鮭の漁獲高が年々激減し、藩の財政は悪化の一途を辿ります。ついには、1738年(元文3年)に不漁のため鮭漁の停止が命じられるほどでした。

当時、鮭の生態はよくわかっておらず、これまで当たり前に獲れていた鮭が年々減少することに、人々は為すすべがありませんでした。

そんな時、村上藩の武士であった青砥武平治は、鮭には生まれた川に再び戻ってくる習性「母川回帰性」があることを世界で初めて発見します。そこで、鮭を獲らずに保護し、川でしっかりと卵を産ませることでいずれ鮭が戻ってくるだろうと考え始めました。

藩の江堰役(治水関係の役職)であり測量の免許皆伝者であった武平治は、一本であった川を本流と支流に分断し、本流の鮭はこれまでどおり漁を行い、支流に遡上した鮭は獲らずに産卵を行わせること藩に献策します。これは、漁師の生活と鮭の保護を両立させる武平治の画期的なアイデアでありました。

時の村上藩主・内藤信凭〔ないとうのぶより〕公は、下級藩士にすぎない武平治の建議を受け入れ、河川を改修し鮭の保護に乗り出します。

しかし、当時は自然保護や養殖という概念のない時代です。ただでさえ漁獲量が少なく収入に困っている状況で、鮭を獲るなという武平治の先進的な考えは民衆には広まらず、藩の目を盗んで漁をするものが現われたり、ついには漁を望む近隣の村々と争いが起こるほどでした。

この争いに際して武平治は幕府へ鮭の保護の重要性を訴え、ついには幕府からその正当性を認められたのでした。

のちに「種川の制〔たねがわのせい〕」と称されるこの制度は、世界で初めて鮭の自然ふ化増殖を行うものであり、北海道の石狩川でも取り入れられるなど、鮭を人工授精させる「人工ふ化増殖」が普及するまでの100年間、日本の鮭増殖の主流となりました。

第6代村上藩主・内藤信敦公は、聡明な城主で幼少の頃から学を好み、何事も公平廉潔に判断をされていたので、幕府の要職である寺社奉行在職時には、信敦公の月番になるのを待ち、訴訟を提起する者が多かったと云われています。また、さまざまな産業を保護奨励し藩の財政を豊かにしたお殿様でもありました。

1794年(寛政6年)には、父・信凭の時代から行っている鮭の保護を発展させ、産卵期には竹柵を設けて川を遮断し、支流(種川)に集めた鮭の漁を固く禁じる「種川の制」を制定しました。また、信敦公は1796年(寛政8年)に大規模な河川改修工事を行い、8年後にはついに三面川を3本の河川とする「種川」を完成させました。

「種川の制」により、減少していた鮭は次第に増え、藩へ納める運上金は1000両を超す年もあったほどでした。また、これにより財政の潤った村上藩では、藩校・克従館を中心に藩士子弟の教育にも大いに力を入れました

鮭の収益で優秀な人材「鮭の子」を育成。

明治維新後もその意志は引き継がれ、1882年(明治15年)には旧藩士たちで「村上鮭産育養所〔むらかみけいさんいくようじょ〕」を立ち上げます。

そこでは新たに鮭の人工ふ化増殖にも取組み、その収益で教育や慈善事業などにも力を入れます。その中でも、藩校・克従館の精神を受け継いだ育養所は子供たちの教育へ特に力を注ぎました。

育養所の士族たちは、立派に成長した子供たちは、やがて村上に帰り郷土の発展に尽くしてくれるだろうと願い、藩士の子弟へ奨学金を支給することで多くの優れた人材を世に送り出しました。この奨学金を受けた子供たちは「鮭の子〔さけのこ〕」と呼ばれ、たくさんの偉人を輩出しました。

その中には、皇子傅育官長として秩父宮・高松宮両殿下の教育係を務めた「三好愛吉」や、乃木希典大将の通訳を務めた外交官「川上俊彦」、日本最初の工学博士「近藤虎五郎」、法務大臣で中央大学教授の「稲葉修」など枚挙にいとまがありません。

また、雅子皇后陛下の祖父・小和田毅夫氏も鮭の子として奨学金を受け、後に県立高等学校の校長を務められます。

小和田家は村上藩士の家系で、毅夫氏の代に村上を離れたあとも村上を本籍地としました。そのため、当時の小和田雅子様が皇太子妃として皇室にお入りになられる際に戸籍から抜く「除籍」の作業も雅子様の本籍地である村上市で行われました。(藤基神社)。

見学後、村上市神林の道の駅へ向かった。

新潟県粟島浦村 日本海に横たう離島・粟島


新潟県粟島浦村 日本海に横たう離島・粟島

2024年02月16日 14時14分40秒 | 新潟県

岩船港と粟島行きフェリー。新潟県村上市岩船港町。

2023年9月29日(金)。

村上市の日本海沿いにある石船(いわふね)神社を見学後、岩船港へ向かった。日本海に浮かぶ粟島を見学するためであるが、宿泊はしないので日帰りとなると岩船港10時30分発・粟島着12時05分、粟島発13時00分発・14時35分岩船港着となる。運賃は障害者半額割引の往復で2520円。

10時前に岩船港前の駐車場に着いたが、満車に近かった。

春に秋田・岩手を旅行したときの往路で、村上市の北部にある笹川流れの道の駅から日本海を眺めたときに粟島を見ている。

港の待合所で粟島のガイドブック小冊子を入手して船に乗り込んだ。乗客は30人ほどだった。

石船神社は、正面の丘陵の先端中腹にある。

リグの彼方に見えるのは、新潟市の南西にある弥彦山と角田山のようだ。

粟島は、新潟県村上市(本土)から北西に35 kmの海上に位置する。面積は、9.78㎡。東西4.4km、南北:6.1km。周囲23.1 km。最高地点は、小柴山 (265.6m)。粟島浦村の人口は2015年度で370人。

伝承では、大和朝廷の蝦夷征伐によって土地を追われた蝦夷が粟島に上陸し、東海岸(現在の内浦地区)で暮らし始めたという。粟島の名が文献に登場するのは大同3年(808)に作られた「大同類聚方」からで、粟島はこの中で「粟生」と記され、蝦夷の一部族の名前とする説がある。

9世紀初め、北九州の松浦党の一族が粟島東海岸へ上陸し、蝦夷を西海岸(現在の釜谷地区)へ追い払って生活するようになった。その半世紀後、今度は越前国の本保氏一族が粟島東海岸へ上陸し、松浦一族を西海岸へ追い払い、そこで住むようになった。追われた松浦一族は西海岸で生活していた蝦夷を北に追い、西海岸を開拓してそこを拠点とした。やがて北の蝦夷は絶滅し、島には東海岸の本保一族と西海岸の松浦一族のみが残ったという。

鎌倉時代、室町時代には揚北衆の一つ色部氏の所領であった。江戸時代になると、村上藩領、天領、庄内藩預所などを経て、宝暦3年(1753年)以降は米沢藩預所となった。1889年に粟島浦村が成立し、現在に至っている。

昭和39年(1964年)6月16日に、粟島沖を震源とするマグニチュード7.5の地震(新潟地震)が発生。島全体が約1m隆起した。このため水稲栽培が難しくなり、島を覆っていた水田はほとんど姿を消した。

粟島港。粟島浦村。

粟島港に近づくと、出迎えの人たちがいた。下船して分かったが、中学生7人ほどが船に乗って修学旅行から帰ってきたところだった。船の前で、生徒代表が出迎えの父兄に挨拶をして解散していった。

帰りの時間が気になったが、港の裏側にある弁天岩や粟島火力発電所を通り、30分ほど郵便局や商店もある集落の中まで歩いてみた。

弁天岩。

以前は海の中にあったが、1964年(昭和39年)6月の新潟地震により隆起して陸地に取り込まれたという。弁天岩の池のように見えるのは海水で、潮の干満によって海水が出入りするという。

島内を一周するコミュニティバスの停留所がある。

岩船漁港。

帰路の船上から眺める瀬波温泉と村上市街地方面。

14時35分ごろ岩船港着。村上市街地へ戻り、皇后雅子妃の祖母の実家である武家屋敷を見学に向かった。

新潟県村上市 千年鮭「きっかわ」 石船神社