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新潟県村上市 千年鮭「きっかわ」 石船神社

2024年02月15日 17時33分48秒 | 新潟県

千年鮭「きっかわ」。新潟県村上市大町。

2023年9月29日(金)。

続日本100名城・国史跡・村上城跡を見学後、市街地に入り千年鮭「きっかわ」へ向かい、古い町屋が残る通り沿いにある店の駐車場に着いた。

「きっかわ」は、村上を代表する鮭の加工製造品販売店で、明治時代の典型的な町屋(登録有形文化財)に天井から吊り下がる鮭の姿を見学できることで有名で、1990年前後にJAFの月刊誌で知った。

「きっかわ」は、村上の伝統的な鮭料理を初めて商品化した老舗。昔ながらの手づくりで、保存料や添加物は一切使用しない。店舗と住まいはひと続きになっており、築130年の町屋の中で、千匹の鮭が熟成されて塩引鮭になる様子が1年通して見学できる。

2009年(平成21年)11月、JR東日本の「大人の休日倶楽部」で女優・吉永小百合がモデルできっかわの店舗で撮影され、大型ポスターとなり東日本各地で貼り出された。

店の前の大きな「鮭」の文字が目印の「千年鮭 きっかわ」は、1626(寛永3)年。米問屋として創業し、幕末から酒造業 吉川酒造元を開設し、明治時代以降、全国品評会にて数々の賞を受けた。

戦後インスタント、化学調味料ブームの中、村上の伝統の鮭料理が急速に作られなくなってきたこと危惧し、江戸時代から受け継がれてきた吉川家の鮭料理を基に、先々代の吉川豊蔵(13代目)とイサヲが各地で講習会を開き鮭料理の伝承に尽力したことが、鮭製造業への礎となった。

1960年(昭和35年)頃から、吉川寛治(14代目)が「村上の鮭食文化は日本一だ」と訴え、化学調味料や添加物を使用しない本物の味づくりを追究し、鮭の酒びたし、鮭の飯寿司をはじめ、塩引き鮭などの鮭の加工販売を始め、鮭の焼き漬けやはらこ(いくら)のしょうゆ漬け・みそ漬けなど、鮭を余すところなく使ったさまざまな商品を販売していった。

1981年、商号を「味匠 喜っ川」に改称。テレビ、雑誌などの全国版のメディアからの取材を多数受けるようになる。1999年外観が近代的な店舗であった本店を、保存古材の再利用で城下町村上の昔ながらの店舗に大改修した。

鮭を吊るすのは、塩に漬けこんだあとの鮭を熟成させるため。村上に吹く北西のほどよい風は、鮭の乾燥や発酵を促すのだとか。そうして旨味をいっそう蓄えた鮭が、塩引き鮭になっていく。

吊るした鮭の奥は工場になっていて、秋に収穫した鮭を一匹一匹さばいて真水で洗い、塩をすり込むという下ごしらえなどの加工を職人が行っている。

「鮭のまち」とも呼ばれる村上は、古くから鮭と関わりがあり、文献として残るもっとも古い歴史は平安時代で、「延喜式」には、京の都の朝廷に租税として鮭の加工品が5品目も納められていたことが記載されている。その後、江戸時代後期には、世界で初めて鮭を人工増殖させることに成功。村上に住む人たちは今でも、先人の努力によって鮭の恵みを受けることとなった感謝を忘れず、鮭の切腹を避けるため腹の一部を切り開かずに残すのが風習である。さばいた鮭は、どの部位も余らせることなく大切にいただくので、現在でも100種以上の料理法が受け継がれているという。

安くて保存の効く商品を買い込んで店を出た。

本日は、粟島へ日帰り見学することがメインで岩船港10時30分発に乗船する予定だが、その前に岩船港近くの石船(いわふね)神社へ立ち寄った。

石船神社。村上市岩船三日市。

石船神社は、大同2(807)年、北陸道観察使・秋篠朝臣安人が下向の際に社殿を建立。648年(大化4年)設置の磐舟柵(いわふねのさく)以前に既に存在していたという。磐舟柵の位置は今も不明であるが、当社付近にあるという説もある。延喜式の式内社である。

磐舟郡総鎮守。

「神様が天(あま)の石船(いわふね)に乗りお出でになられた」との伝説をもつ磐舟郡総鎮守。圏域『岩船』という地名の由来となっています。創祀は大化4(648)年、磐舟柵設置以前と伝わり、御祭神は饒速日命(にぎはやひのみこと)

大同2(807)年、北陸道観察使・秋篠朝臣安人が下向の際に社殿を建立。越後国の北の守護神として京都・貴船神社の御祭神三柱を合祀以来千二百年、「明神様」と称されて広く信仰を集めました。延喜式神名帳には越後磐船郡の筆頭に記載され、色部氏・本庄氏・歴代村上藩主等に鎮守の御社として篤い保護を受けます。明治期には越後一宮 彌彦神社に次ぐ県内最初の縣社に列しました。」

 

磐舟柵(いわふねのき/いわふねさく)は、村上市地内にあった古代城柵(じょうさく)である。前年設置の渟足柵(ぬたりのき、新潟市付近)と呼応し、北越地方の開拓経営基地として、648年(大化4)に設置された。村上市岩船地区の旧岩船潟近くにあったと考えられる。三面(みおもて)川を境界として、その北部山地の蝦夷(えみし)、夷狄(いてき)に対する防衛基地としての役割も担っていたと認められ、北部が平穏化するまでこの柵の任務は重要で、698年(文武天皇2)と700年にも、「石船柵」の表記で修理の加えられた記録がある。近くに鎮座していたものと考えられる式内社の石船(いわふね)神社もある。1957年に該当遺跡と目される遺構が発掘調査されたが、正確な場所は明らかでない。

邇芸速日命(にぎはやひのみこと、饒速日命)は、物部氏の祖神とされている天孫族系の神である。

古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族である那賀須泥毘古が奉じる神として登場する。那賀須泥毘古の妹の登美夜毘売を妻とし、宇摩志麻遅命をもうけた。宇摩志麻遅命は、物部連、穂積臣、采女臣の祖としている。神倭伊波礼毘古(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗した那賀須泥毘古が敗れた後、神倭伊波礼毘古が天照大神の子孫であることを知り、神倭伊波礼毘古のもとに下った。

日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って河内国(大阪府交野市)の河上哮ケ峯(いかるがみね)の地(現在の磐船神社周辺の一帯と考えられている)に降臨し、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。これらは、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。

また、有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。

 

このあと、岩船港へ向かった。

新潟県村上市 続日本100名城 史跡・村上城跡


新潟県村上市 続日本100名城 史跡・村上城跡

2024年02月14日 18時17分23秒 | 新潟県

続日本100名城。国史跡・村上城跡。新潟県村上市二之町。
2023年9月29日(金)。


本日は、粟島へ日帰り見学することがメインで岩船港10時30分発・14時35分着を除く時間帯を村上市の見学に当てた。村上市神林の道の駅から村上城跡へ向かい、法務局前から狭い道に入り西麓にある登城口の駐車場へ8時前に着いた。本丸まで20分が標準だが30分ほどを要した。早朝のウォーキングには最適らしく5人ほどの市民をみかけた。

北西のイヨボヤ会館から眺める村上城。

村上城は、標高135mの臥牛山(がぎゅうさん)に築かれた城で、別名舞鶴城。中近世を通じて阿賀野川以北の揚北(あがきた)地方の中心であった城であり、今日に残る遺構もそれにふさわしい壮大なるものである。ことに、中世の遺構と近世の遺構が渾然一体として残る姿は貴重なものである。

村上城の築城年代は不明だが、16世紀前期には城が存在していたものと考えられる。戦国時代には本庄氏の本拠地として、永禄11年(1568年)の上杉謙信との篭城戦など戦いが繰り広げられ、江戸時代になると村上藩の藩庁となって享保5年(1720年)以後は内藤氏が代々城主を務め、明治維新を迎えた。
中世における揚北は、城氏滅亡の後に入った各鎌倉御家人が勢力を伸ばしていた。奥山荘の中条氏、黒川氏、加地荘の加地氏などがそれで、揚北地方最北の岩船郡(小泉荘)には秩父平氏の本庄氏が入った。彼らは南北朝期以降にも、守護上杉氏の影響をあまり受けず、独自の政治圏である「揚北」を形成し、「揚北衆」と呼ばれた。
小泉荘に入った本庄氏は南北朝内乱期には同族の色部氏と合戦し、敗れて「(本庄)持長城」が落城していることが色部文書等により分かる。ただし、当時の本庄氏の城については未詳で、この城が村上城を指す可能性もあるが、伝承をもとに、猿沢城(朝日村所在)であるとする説もある。
室町時代以降、本庄氏は他の揚北衆に同じく反守護(上杉氏)の立場を鮮明にし、延徳元年(1489)、明応2年(1493)、永正4年(1507)と守護及び守護方の武将と数次にわたって合戦したが、永正4年9月、本庄城は火を放たれ落城した。この本庄城は臥牛山にある村上城を指すものである。
天文8年(1539)、本庄房長は伊達・中条連合軍の攻撃を受け本庄城は落城、天文20年(1551)になって房長の子繁長が本庄城を取り戻す。繁長は一時、上杉氏に従うが、永禄11年(1568)3月、武田信玄の誘いに応じ、反旗を翻して、上杉輝虎(謙信)の軍に包囲された。繁長は、「南方は深田洋々として湖水の如し、西は大海原、特に大河は郭をめぐり、地利無双の城地たり」(上杉年譜)とある堅固な地利を頼んでよく凌いだが結局孤立し、翌永禄12年(1569)2月、米沢の伊達氏、会津の芦名氏の仲介で輝虎に降り、嫡子を人質として春日山に送った。本庄氏の治世は天正18年(1590)末、豊臣秀吉が繁長を改易するまで続いた。
慶長2年(1597)の「瀬波郡絵図」には「村上ようがい」と城下の街が画かれており、山上に多くの建物のあったことが分かる。


慶長3年(1598)、上杉氏の会津移封に伴い堀秀治の家臣・村上頼勝が9万石で転封された。しかし、豊臣恩顧の村上家は間もなく取り潰され、元和4年(1618)堀直竒が10万石で村上城に入封となった。堀氏は村上城の縄張り、作事を進め、ここに近世城郭としての村上城が完成した。
寛永19年(1642)、堀家は嗣子がなく絶家となり、正保元年(1644)本多忠義が入城した。

正保2年(1645)の城郭絵図に画かれた村上城はこの時のもので、本丸には3層の天守閣の外、渡櫓、多門、二の丸には5か所の櫓などが画かれ、この絵図によって往時の姿を偲ぶことができる。
この後慶安元年(1648)、松平直矩(結城松平)が15万石で入城、以降榊原政倫、本多忠孝、松平輝貞、間部詮房の各家が続き、享保5年(1720)内藤弌信が5万石で入って、以降明治維新まで8代、150年近く続いた。

遺構は、山上に本丸天守台、二の丸に乾櫓、巽櫓、埋門、出櫓、平櫓等の跡、三の丸に月見櫓、靱櫓、千貫丸等の跡が残り、石垣は高さ8m近く、山頂の各部にくまなく巡らされている。山下には居屋敷、一文字門、下渡(げと)門等の跡が、藤基神社境内には外郭土塁も残っており、石垣も使われている。また臥牛山東面には本庄氏時代の戦国遺構である腰曲輪や竪堀、土塁、井戸跡等も良好に残っている。

大手道。

出櫓台と本丸石垣。

臥牛山山頂と天守跡

村上城跡の本丸には、かつて三層の天守櫓が存在していた。慶安2年(1649)に播磨姫路から移り、村上藩主となった松平直矩(なおのり)によって寛文元年~5年(1661~1665)頃に大きく改変された。特に本丸は地形を三尺(約90cm)ほど下げ、天守櫓を始め山上山下合わせて21の櫓が造り替えられたという。
しかし、天守櫓は、寛文7年(1667)に落雷火災により焼失し、その後は再建されることはなかった。現在は礎石と石垣のみ残っており、一部に焼失した時の痕跡(被熱痕)を見ることができる。


天守台。

天守跡から見た村上市中心部。

本庄氏。
平安後期院政期に、現在の村上市を含む岩船郡に越後城氏の勢力がのび,藤原北家勧修寺流中御門家を本所とする小泉荘が立荘された。後に新しい領域が加わり、古い地域を本庄、新しい地域は加納と呼ばれるようになる。
鎌倉時代初頭、小泉荘には坂東平氏秩父氏が地頭に任命された。本庄には秩父行長が入って本庄行長と改名し、その弟為長は加納の色部条(村上市)に入って色部為長を名乗り、両氏は土着した国人領主となった。

小泉荘内各地に一族が分派したが,鎌倉時代に加納方を領した色部氏がもっとも早く自立した。室町時代には鮎川氏,小河氏などが独立し,一時本庄宗家は小河氏に家督を奪われた。本庄氏は猿沢(現在の朝日村)を居所として極めて堅固な構えを築くが、狭い居住地域で不便だったため、明応年間(1492年から1501年)頃に村上に居所を移し、本庄房長は独立峰の臥牛山一帯に堅城である村上城を築城した。房長は一族内紛の末に憤死し、跡を継いだ嫡子本庄繁長は内紛を制して越後北部に強大な勢力を築いた。
繁長は上杉謙信に仕えて鬼神とまで称された勇将であった。一時期は武田信玄に通じて謙信を裏切り大いに苦しめたこともある。だが降伏して許され、謙信没後は跡を継いだ養子景勝に仕えて優遇された。村上は上杉家の本拠春日山城に次ぐ軍事都市に発展し、天正16年(1588年)には本庄繁長は最上義光と戦って十五里ヶ原の戦いで最上軍を撃破し、庄内地方をも制圧した。繁長が天正18年(1590年)に村上を去ると、上杉家家老直江兼続の弟大国実頼の代官春日元忠が入った。
上杉氏が陸奥会津に転封されると本庄繁長はこれに従い、慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦でも功績を挙げた。上杉氏の120万石から30万石への減封後も、本庄氏は重臣として福島城(福島県福島市)城代を務め、寛文4年(1664年)に減封で上杉氏が15万石となり福島を失った後は、鮎貝(山形県白鷹町)に置かれた鮎貝城の城代に代々任ぜられた。

内藤家の時代。
内藤家は、戦国期に三河国松平氏家臣だった内藤清長の養子で、徳川家康の異母弟という説もある内藤信成を家祖とし、江戸時代には棚倉藩主家、ついで村上藩主家となった。第6代藩主・内藤信敦は寺社奉行・京都所司代、その子の第7代藩主・内藤信思は大坂城代・京都所司代・老中などを歴任している。幕末に、信思の養嗣子で第8代藩主となった内藤信民は佐幕派で、藩内における方針対立に苦しみ、慶応4年(1868年)7月城内にて自殺した。享年19。
村上藩は藩主不在となり、家老で佐幕派の鳥居三十郎が主導権を掌握する。親幕府派の藩士が山麓居館に火を放って庄内方面へ脱出して庄内藩兵と合流し、新政府軍と羽越国境で交戦したが、8月11日、村上城は新政府軍によって落城、9月27日に降伏した。
皇后雅子妃の小和田家は村上藩士の家系であり、同じく村上藩士家であった祖母の実家である嵩岡家の住宅が公開されている。

新潟県関川村 豪商豪農の館 重文・渡邉邸②名勝庭園


新潟県関川村 豪商豪農の館 重文・渡邉邸②名勝庭園

2024年02月13日 16時03分14秒 | 新潟県

豪商豪農の館 重文・渡邉邸。新潟県岩船郡関川村下関。

2023年9月28日(木)。

大座敷と名勝庭園。

通り土間に面した茶の間から名勝庭園を眺める大座敷へ入った。

大座敷。床の間。

河合継之助を描いた映画「峠」の一シーンに使用された。

名勝庭園。

庭園に面した大座敷(書院造)では米沢藩などの重臣や文人墨客・明治の貴顕がこの庭を愛で、風流を感じたことだろう。

大座敷から臨む遠州流の池泉回遊式庭園は、江戸時代中期に京都より遠州流庭師を招き作庭されたものである。

庭園の広さは1275㎡で心字池を中心に穿ち築山を配し、小規模ではあるが池泉回遊式になっている。

剛毅・繊細両面をうまく組み合わせた配置で、築山に枯滝、州浜に石灯籠、北側に井戸囲い、座敷側には手水鉢を設けるなど巧みに見せ場を作り出している。石材の多くは渡邉家が廻船業を営んでいた影響もあり、小豆島・紀州・京都鞍馬石など関西方面のものが使用されている。

1951年に庭匠田中泰阿弥が修復を手掛け、石組の見事さはこの道の極みに達すると言われている。

2階の納戸。

2階座敷。

2階座敷から庭園。

帰路、通用口付近にある前座敷へ。

前座敷。通用口に近い場所に街道に面した2階建ての前座敷がある。

前座敷2階から関川村役場。

土蔵。

邸内の土蔵は現在6棟あり、いずれも国指定重要文化財である。米蔵、味噌蔵、金蔵、宝蔵、新土蔵、裏土蔵で、慶応3(1867)年の屋敷図を見ると12棟の蔵が有った事が分かる。

この地方の豪農と言われる家の土蔵は一列に整然と並べられているのが一般的である。渡邉家の土蔵は一見雑然としているが、実は5つの土蔵が一望できる地点があり深い配慮が伺われる。

また、何をどの土蔵に入れるかも決まっていたようで、特に金蔵は内側の壁一面に鉄の格子で覆われていた。

 

15時30分前に見学を終え、村上市神林の道の駅へ向かった。

新潟県関川村 豪商豪農の館 重文・渡邉邸①


新潟県関川村 豪商豪農の館 重文・渡邉邸①

2024年02月12日 13時27分36秒 | 新潟県

豪商豪農の館 重文・渡邉邸。新潟県岩船郡関川村下関。

旧米沢街道に面した豪商・豪農の館である渡邉邸の母屋(主屋)は、江戸時代後期の佇まいを残して関川村役場の道路向い側に堂々と建っている。

2023年9月28日(木)。

渡邉邸は16時に閉館する。13時45分ごろ、新発田城址公園駐車場を出て、関川村の重文・渡邉邸へ向かった。14時30分頃、渡邉邸向い側の関川村役場の駐車場に到着。15時30分前に見学を終え、村上市平林の道の駅へ向かった。

渡邉邸主屋西側の前座敷と重文・味噌蔵。

廻船業、酒造業や新田開発で財を築き、米沢藩上杉家の財政を支えた渡邉家の屋敷の敷地は3000坪にも及び、その周囲に黒塀と外堀をめぐらせている。500坪の母屋、米蔵・味噌蔵・金蔵・宝蔵・裏土蔵・新土蔵の6棟の土蔵国指定名勝の庭園が今も残っている。

母屋は、桁行35.1m、梁間17.8m、切妻造、妻入、一部二階、南面及び北面庇付の奥行きの長い造で、二度にわたる火災のあと文化14年(1817)に現在の姿に再建された。

建物は街道に面し平行に建つ棟(前棟)と直角に建つ棟(後棟)の二つの棟からなり、建物の形式として、屋根がT字型となる「撞木(しゅもく)造り」の様式を採っている、この形式は関川村に多い形式である。

屋根は、杉の薄板の上に玉石を置いて押える「石置木羽葺屋根(いしおきこばぶきやね)」という日本海側特有の工法で造られ、約22万枚の板と15,000個の石を使用しており、日本最大規模を誇る。板は36.5㎝(一尺二寸)の材料を用い、主要部分は三重葺になっている。

1954年に母屋、金蔵、米蔵、味噌蔵の3蔵が、1978年に宝蔵、新土蔵、裏土蔵、塀3棟と慶応3年(1867)に描かれた屋敷図、宅地、米蔵の附としての棟札3枚が、重文に指定された。

また、江戸時代中期、元禄末期から享保初期にかけて京都から遠州流庭師を招いて構築した回遊式庭園は、1963年に国の名勝に指定されている。

建物は1964年の新潟地震や1967年の羽越大水害、白アリ被害などで老朽化が目立ってきたため、6年の歳月をかけて2014年、平成の大修理を完了した。

旧米沢街道沿いには、渡邉邸に続いて、撞木造りの津野邸、重文・佐藤邸が連なっている。

母屋の通用口から入ると、採光のため吹き抜けになっている土間が広がる

豪壮な梁組と吹き抜けの通り土間が壮大な空間を造り出し、訪れる人を圧倒する

 

母屋を南北に貫通する通り土間に面して茶の間・中茶の間・台所と続き、大黒柱はじめ各柱、天井の梁材はけやきの巨木良材を木取って組まれている。

街道に面した大座敷、ニ之間、納戸座敷などは繊細な数奇屋風の作りとなっており壮大さと繊細さを合わせ持つ建築である。

大座敷はもちろん、中座敷にも一本一本吟味して選ばれた無節の柱・丸桁・敷板など惜しみなく用いられ、庇ははね木で支えるという特別工法が施されている。

母屋の部屋は約40室あり、風呂4か所・便所7か所を備え、最盛期には75人の使用人が住んで「現場」と「帳場」に分かれて働き、1000ヘクタールの山林を経営、700ヘクタールの耕地から9000俵の米を収納したという。

渡邉家代々の当主は、米沢街道宿場町の利を生かした事業を展開して財を成し、それを大名貸や神社仏閣の再建、私財を投じた公共事業の推進など、地域の政治、社会、文化の発展に多大な貢献をなしてきた。

初代儀右衛門善高(よしたか)は、村上藩主松平直矩(なおのり)の家臣で郡(こおり)奉行をしていたが、藩主が姫路へ国替えのとき、家督を嗣子に譲り、桂村に隠居。寛文7年(1667)現在地に転居した。

2代目三左衛門善延(よしのぶ)は廻船業を営み、酒造業を開業して財を成し、3代喜久(よしひさ)は、享保11年(1726)財政難に苦しんでいた米沢藩に融資を行い、幕末まで10万両以上用立て米沢藩を支えた。その功により5代目以降は米沢藩勘定奉行格の待遇を受けた。

7代善映(よしあき)は寛政10年(1798)450石の知行を与えられ、米沢9代藩主上杉鷹山の藩政改革に貢献した。

10代善郷(よしさと)は、大正7年(1918)米坂線の誘致に尽力し、昭和11年(1936)の全通に至った。

11代萬壽太郎(ますたろう)は、関川村長となり、六三三制実験校誘致、診療所の開設、財団法人渡邉家保存会の設立など多くの社会貢献をした。

茶の間。

映画やテレビドラマの撮影でも度々使用されており、映画「峠 最後のサムライ」ロケ地(2018年)にもなった。

茶の間から土間を隔てて、西の土蔵群方向。

屋根を内側から煙で燻すために、今でも囲炉裏で火を焚いている。

中茶の間から入口方向。

台所。

1995年にNHKで放送されたドラマ「蔵」(原作:宮尾登美子)のロケ地となった。

このあと、名勝庭園のある大座敷、2階、前座敷を見学した。

新潟県新発田市 アントニン・レーモンドの名建築 カトリック新発田教会聖堂


新潟県新発田市 アントニン・レーモンドの名建築 カトリック新発田教会聖堂

2024年02月11日 14時39分01秒 | 新潟県

カトリック新発田教会・聖堂。新発田市中央町。

2023年9月30日(土)。

9月28日(木)昼過ぎに新発田市役所付近カトリック新発田教会を探したが見つけられなかったが、村上市まで来てネットで検索して場所を特定できた。30日(土)村上市から胎内市を経て教会付近まで来て、幼稚園への道標を発見。狭い道路を進むと、教会裏側・西側・司祭館側の駐車場があり駐車し、12時30分頃到着。東側の広い車道へものちほど回ったが、柵があるので立入はできない。内部見学は事前予約というネットでの案内があり、告知板を見ると「原則、土日で事前予約」とあった。予約はしていないので躊躇したが、思い切って連絡先に電話して了解してもらった。鉄の扉の下にある「ストッパー」を自分で外して、内部に入り、あとは自由見学。見学料は志納箱に納めた。

東側の広い車道側からの教会堂。

建築家アントニン・レーモンドは帝国ホテルなどの設計者として知られるフランク・ロイド・ライトの弟子で日本で活躍したことは1980年代初めから知っているので、ぜひとも建築作品を味わいたいと思っていた。前川國男、吉村順三、ジョージ・ナカシマなどの建築家がレーモンド事務所で学んだ。

レーモンドは、1888(明治21)年ボヘミヤ(現チェコ)に生まれた。1910年プラーク工科大学を卒業後、アメリカに渡る。1914年イタリアを旅行した帰路ノエミ・ペルネッサン(1889年フランスのカンヌ生まれ)に出会い、結婚。以来2人で建築設計の仕事を続ける。

1916年フランク・ロイド・ライトのもとタリアセンで働く。1919年帝国ホテル建築のため、ライトとともに来日。戦中に一時離日するが、戦後再来日し晩年まで日本に常住する。1923年レーモンド設計事務所を設立。1964年勳三等中綬賞を受賞する。1965(昭和40)年カトリック新発田教会設計。66年献堂式。1974年アメリカに帰国。1976年米国で死去。

戦前の作品に、東京女子大学礼拝堂・講堂・本館・、聖心女子学院修道院、軽井沢聖パウロカトリック教会。戦後は、国際基督教大学図書館、立教学院聖パウロ礼拝堂、南山大学(名古屋市)など多数がある。

カトリック新発田教会は、1876年新発田市への布教が始まったのち、明治16年7月小人町(現大手町)に布教所開設、明治36年巡回教会となり、1931年(昭和6年)現在地近くの借家に司祭定住、同10月11日初めてミサが捧げられた。

現在のカトリック新発田教会の聖堂と隣接する司祭館は、日本近代建築界の巨匠といわれたアントニン・レーモンドが1965(昭和40)年に設計した。翌1966年8月に完工し、11月3日にレーモンド夫妻も列席して、伊藤庄治郞司教によって献堂式を行った。レーモンドによる設計は、彼と親交のあった当教会の司祭ジョセフ・ノツォンの依頼で実現した。総工事費(聖堂)は、3万ドル(アメリカ篤志家シュルツ氏の寄付)。

外観は煉瓦と杉丸太、和紙の窓のユニークな教会堂で、内部は六角形の尖塔の下にある中央祭壇を信者席が半円形で囲み一体感がある。燭台、和紙のステンドグラス、椅子は、レーモンド夫人のノエミ・ぺルネッサンがデザインしたものである。

アントニン・レーモンドの晩年における彼の集大成ともいわれる教会堂は、名建築の一つに数えられ、2004年「第5回日本建築家協会25年賞大賞」を贈られた

 

構造は、基壇部分がレンガ積みの組積造りで、レンガをタテ・ヨコに組合せ、その中に補強鉄筋とコンクリートが打ち込まれている。レンガ壁は外壁であると同時に内壁であり、極めて耐震性が高い構造になっている。

基壇の上部に杉丸太の小屋組みが載せられている。丸太材(杉)は、村上市の山中で伐採したものを、使用部位別に伐採現場で選り抜いて運んだ。この丸太の皮むきだけで約2か月を要したという。

祭壇の上に組まれた太い6本の登り梁が丸太の束を支え、上部のサイドライトから柔らかい光が落ちてくる。

レーモンドは、素材そのものを大切にする考え方の強い人であったので、南山大学も恵比寿にあった神言会東京修道院等、彼の設計はコンクリート打放しが多い。そしてカーテンの取付は不可。

レーモンドは、日本の大工の技を高く評価し、特に丸太材の組合せの技量に感心していた。

レンガは、荒川町坂町の中山窯業で製作。使用されたレンガは1,300度で焼成してあるが、1,000度程度の低温で焼いたものは水を通して凍ってしまう。(新発田教会のレンガは完成後40余年を経ても、3.6万個のうち透水したものは1枚も無い。)

建具は、正面入口扉、窓などすべて木製建具透明ガラス入れ。窓には切り抜いた和紙が貼られステンドグラス風の独特の外観を持つ。

竣工時には亜鉛鉄板葺きだった屋根が銅板葺きに変えられたほかは、まったく当時の姿を残している。

十字架は、アントニン・レーモンドの作品で、「イエス=キリスト=神の=子=救い主」のギリシア語の頭文字「ΙΧΘUΣ」(イクトゥス=魚)とキリストのからだ=パンがデザインされた、他の教会にはない斬新な十字架のデザインである。

祭壇から信徒席を見たとき、対面のため司祭と信徒は一体なのだと実感する設計になっている。第二ヴァチカン公会議(1962年-1965年)の典礼刷新における、いわゆる「対面ミサ」での日本における最初の設計といわれる。

信者用椅子は、ノエミ・ペルネッサンの作品である。

聖水盤は、レーモンドが自ら焼成したもの。

洗礼盤。

新潟県新発田市 日本100名城・新発田城跡