千年鮭「きっかわ」。新潟県村上市大町。
2023年9月29日(金)。
続日本100名城・国史跡・村上城跡を見学後、市街地に入り千年鮭「きっかわ」へ向かい、古い町屋が残る通り沿いにある店の駐車場に着いた。
「きっかわ」は、村上を代表する鮭の加工製造品販売店で、明治時代の典型的な町屋(登録有形文化財)に天井から吊り下がる鮭の姿を見学できることで有名で、1990年前後にJAFの月刊誌で知った。
「きっかわ」は、村上の伝統的な鮭料理を初めて商品化した老舗。昔ながらの手づくりで、保存料や添加物は一切使用しない。店舗と住まいはひと続きになっており、築130年の町屋の中で、千匹の鮭が熟成されて塩引鮭になる様子が1年通して見学できる。
2009年(平成21年)11月、JR東日本の「大人の休日倶楽部」で女優・吉永小百合がモデルできっかわの店舗で撮影され、大型ポスターとなり東日本各地で貼り出された。
店の前の大きな「鮭」の文字が目印の「千年鮭 きっかわ」は、1626(寛永3)年。米問屋として創業し、幕末から酒造業 吉川酒造元を開設し、明治時代以降、全国品評会にて数々の賞を受けた。
戦後インスタント、化学調味料ブームの中、村上の伝統の鮭料理が急速に作られなくなってきたこと危惧し、江戸時代から受け継がれてきた吉川家の鮭料理を基に、先々代の吉川豊蔵(13代目)とイサヲが各地で講習会を開き鮭料理の伝承に尽力したことが、鮭製造業への礎となった。
1960年(昭和35年)頃から、吉川寛治(14代目)が「村上の鮭食文化は日本一だ」と訴え、化学調味料や添加物を使用しない本物の味づくりを追究し、鮭の酒びたし、鮭の飯寿司をはじめ、塩引き鮭などの鮭の加工販売を始め、鮭の焼き漬けやはらこ(いくら)のしょうゆ漬け・みそ漬けなど、鮭を余すところなく使ったさまざまな商品を販売していった。
1981年、商号を「味匠 喜っ川」に改称。テレビ、雑誌などの全国版のメディアからの取材を多数受けるようになる。1999年外観が近代的な店舗であった本店を、保存古材の再利用で城下町村上の昔ながらの店舗に大改修した。
鮭を吊るすのは、塩に漬けこんだあとの鮭を熟成させるため。村上に吹く北西のほどよい風は、鮭の乾燥や発酵を促すのだとか。そうして旨味をいっそう蓄えた鮭が、塩引き鮭になっていく。
吊るした鮭の奥は工場になっていて、秋に収穫した鮭を一匹一匹さばいて真水で洗い、塩をすり込むという下ごしらえなどの加工を職人が行っている。
「鮭のまち」とも呼ばれる村上は、古くから鮭と関わりがあり、文献として残るもっとも古い歴史は平安時代で、「延喜式」には、京の都の朝廷に租税として鮭の加工品が5品目も納められていたことが記載されている。その後、江戸時代後期には、世界で初めて鮭を人工増殖させることに成功。村上に住む人たちは今でも、先人の努力によって鮭の恵みを受けることとなった感謝を忘れず、鮭の切腹を避けるため腹の一部を切り開かずに残すのが風習である。さばいた鮭は、どの部位も余らせることなく大切にいただくので、現在でも100種以上の料理法が受け継がれているという。
安くて保存の効く商品を買い込んで店を出た。
本日は、粟島へ日帰り見学することがメインで岩船港10時30分発に乗船する予定だが、その前に岩船港近くの石船(いわふね)神社へ立ち寄った。
石船神社。村上市岩船三日市。
石船神社は、大同2(807)年、北陸道観察使・秋篠朝臣安人が下向の際に社殿を建立。648年(大化4年)設置の磐舟柵(いわふねのさく)以前に既に存在していたという。磐舟柵の位置は今も不明であるが、当社付近にあるという説もある。延喜式の式内社である。
磐舟郡総鎮守。
「神様が天(あま)の石船(いわふね)に乗りお出でになられた」との伝説をもつ磐舟郡総鎮守。圏域『岩船』という地名の由来となっています。創祀は大化4(648)年、磐舟柵設置以前と伝わり、御祭神は饒速日命(にぎはやひのみこと)。
大同2(807)年、北陸道観察使・秋篠朝臣安人が下向の際に社殿を建立。越後国の北の守護神として京都・貴船神社の御祭神三柱を合祀以来千二百年、「明神様」と称されて広く信仰を集めました。延喜式神名帳には越後磐船郡の筆頭に記載され、色部氏・本庄氏・歴代村上藩主等に鎮守の御社として篤い保護を受けます。明治期には越後一宮 彌彦神社に次ぐ県内最初の縣社に列しました。」
磐舟柵(いわふねのき/いわふねさく)は、村上市地内にあった古代城柵(じょうさく)である。前年設置の渟足柵(ぬたりのき、新潟市付近)と呼応し、北越地方の開拓経営基地として、648年(大化4)に設置された。村上市岩船地区の旧岩船潟近くにあったと考えられる。三面(みおもて)川を境界として、その北部山地の蝦夷(えみし)、夷狄(いてき)に対する防衛基地としての役割も担っていたと認められ、北部が平穏化するまでこの柵の任務は重要で、698年(文武天皇2)と700年にも、「石船柵」の表記で修理の加えられた記録がある。近くに鎮座していたものと考えられる式内社の石船(いわふね)神社もある。1957年に該当遺跡と目される遺構が発掘調査されたが、正確な場所は明らかでない。
邇芸速日命(にぎはやひのみこと、饒速日命)は、物部氏の祖神とされている天孫族系の神である。
『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族である那賀須泥毘古が奉じる神として登場する。那賀須泥毘古の妹の登美夜毘売を妻とし、宇摩志麻遅命をもうけた。宇摩志麻遅命は、物部連、穂積臣、采女臣の祖としている。神倭伊波礼毘古(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗した那賀須泥毘古が敗れた後、神倭伊波礼毘古が天照大神の子孫であることを知り、神倭伊波礼毘古のもとに下った。
『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って河内国(大阪府交野市)の河上哮ケ峯(いかるがみね)の地(現在の磐船神社周辺の一帯と考えられている)に降臨し、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。これらは、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。
また、有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。
このあと、岩船港へ向かった。