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新潟県新発田市 日本100名城・新発田城跡

2024年02月10日 12時56分01秒 | 新潟県

日本100名城・新発田城跡。新潟県新発田市大手町。

2023年9月28日(木)。

新発田市街地外にある大名庭園の清水園を見学後、市街地へ向かい、カトリック新発田教会を探したが見つからず、新発田城跡へ向かうと激しい雨に遭遇した。再建辰巳櫓東外側の駐車場に駐車して、重文の新発田城本丸表門と旧二の丸隅櫓を外から眺め、表門から内部に入った。内部は狭い空地があるだけで、物品販売をしているボランティアガイドと話をした。その後、再建三階櫓を見学するために西北にある新発田城址公園駐車場へ移動して、三階櫓を眺めた。

慶長2年(1597年)、初代新発田藩主溝口秀勝が上杉氏の会津転封に伴い、6万石の所領を得て入封。新発田藩領内を治めるための拠点として新発田重家の旧城の地を選び、新発田城の築城を行った。城が完全な形となったのは承応3年(1654年)、3代宣直の時代といわれる。その後寛文8年(1668年)、享保4年(1719年)に火災によって城内建築に大きな被害を受けるが、その度に再建されている。

溝口秀勝が築いた新城は新発田重家の居城跡を城の一部として取り入れつつ、古城の数倍の大規模なものに建設された。

新発田城は、城の北部を流れる加地川を外堀に利用し、本丸を北の古丸を含んだ二の丸が取り囲み、三の丸が南方に突き出した変形の輪郭・梯郭式平城であった。これは、南以外の三方面が湿地であったことと、会津領方面への守りを重視したとされる。新発田城は、本丸が舟のような形をしているため「舟形城」、周囲の湿地にアヤメが咲いていたことから「菖蒲城」とよばれていた。

現在は本丸の一部を除く全域と古丸全域、二の丸の一部が自衛隊駐屯地として利用され、本丸南側の石垣と堀、櫓門の本丸表門と二重櫓の二の丸隅櫓が現存する。現存建築がある城跡としては新潟県内では唯一である。三階櫓や二重櫓の辰巳櫓は2004年に復元された。

石垣は本丸の表門側のみに前面乱積みの石垣がもちいられ、他は腰巻石垣や土居であったと考えられている。しかし寛文9(1669)年の大地震により、石垣が崩落しその復旧工事で、切込接布積に改められたとされる。

天守閣の代わりを果たしていたのが三階櫓で、3匹の鯱を配するという全国にも例がない大変珍しい独特の櫓であった。

新発田城域に最初に城が築かれた時期は不明だが、新発田氏による築城と考えられている。鎌倉時代初期に戦功のあった近江源氏佐々木盛綱の嫡流は代々越後国蒲原郡加地荘、備前国児島荘などを所領とし加地氏を名乗った。新発田氏は室町時代頃より加地氏より分かれ、代々新発田城を本拠とし新潟津(新潟市)から三条島(三条市)までに及ぶ周辺を支配した。新発田長敦の代には上杉謙信に従い、天正6年(1578年)の謙信没後に勃発した御館の乱では上杉景勝に従って活躍したが、長敦が急死。弟の新発田重家が継いだが、これが原因で恩賞から漏れ、天正9年(1581年)景勝に対して反乱を起こした。天正15年(1587年)、新発田城が落城して新発田重家は殺され新発田氏は滅亡した。新発田城の本丸北側の二の丸御蔵屋敷北側は「古丸」と称され、重家時代の新発田城の本丸であったと推測される。

本丸辰巳櫓。左は表門。

本丸の南東に建つ層塔型2重2階の二重櫓。三階櫓とともに木造で復元された。

櫓の外壁には冬季の積雪への対策の意味もあり、海鼠壁(なまこかべ)が用いられていた。その他の塀や一部の櫓門には、下見板が張られていた。『正保城絵図』では屋根は茅葺となっている。

2004年に木造復元され、同年7月から一般公開されている。

本丸表門。重文。

本瓦葺入母屋造2階建脇戸付櫓門。創建時期は不明。1668年失火による焼失後1732年に再建され現存する。2階に格子窓を設け、門の真上の床を外して石落としとする構造となっている。

石垣がすき間なくかみ合うようにきちんと積まれる「切込はぎ」と呼ばれる美観を重視した技法でつくられ、白と黒が美しい海鼠(なまこ)壁で仕上げられている。

旧二の丸隅櫓。重文。

層塔型2重2階の現存する二重櫓。1668年の大火後1712年までに再建。現在は、本丸鉄砲櫓の跡に移築されている。

三階櫓。2004年再建。

新発田城に天守はなく、本丸の北西隅に三重櫓を上げて「三階櫓」と呼んでいた。幕府に遠慮し天守を公称しなかったが、三階櫓は新発田城における実質的な天守であった。承応3年(1654年)に創建されたものは、寛文8年(1668年)の火災により焼失し、現在復元されている姿のものは延宝7年(1679年)に再建されたものである。『正保城絵図』では二重櫓だが、他の櫓よりも大きく描かれている。

明治初期に撮影された写真によれば、続櫓(付櫓)を伴った複合式層塔型3重3階で、1重目の西面と南面に切妻破風を持った石落としを兼ねる出窓があり、3重目屋根の棟は丁字型に造られ、棟上には3匹の鯱が載せられている。三階櫓の屋根が、なぜ特殊な屋根の形なのか明確ではない。1874年(明治7年)に破却された。

自衛隊敷地内にあり、外観を望むだけである。

明治元年(1868年)戊辰戦争の戦火は、越後へと波及した。同5月、東北25藩によって奥羽列藩同盟が成立した。そして、新発田藩は、戊辰戦争では、新政府側寄りの立場をとろうとするも、周辺諸藩の奥羽越列藩同盟の圧力に抗しきれず、やむなく加盟した。同盟側は新発田藩を参戦させようと謀り、6月、藩主・溝口直正を人質にとろうと試みたが、新発田藩の領民の強い抵抗に遭って阻止される。その後、城下が同盟側に包囲されたため、やむを得ず藩兵を同盟側に出兵させたが、7月、新政府軍が新発田藩領大夫浜、松ヶ崎浜に上陸したのを期に新政府軍に合流し、先鋒となって軍を進め、庄内、米沢、会津などの軍と戦った。

その結果、新発田の地は戦火から守られることとなった。ただし、この時の新発田藩の行動は越後長岡藩などからは明らかな裏切り行為と見られ、周辺地域との間にしこりを残すことにもなった。

明治政府は鎮台制の施行にあたり、東京鎮台第1営所に新潟を選定して歩兵第8大隊を配備することにし、明治4年(1871年)11月から明治5年(1872年)11月まで新発田城は臨時の営所として使われた。1874年に歩兵第8大隊は高崎(群馬県)に移り、その一部の第2中隊が新発田城に入った。同年11月に歩兵第3連隊の第2大隊となったのち、1884年に歩兵第16連隊に拡充され、敗戦まで新発田の郷土部隊となった。

城郭跡の大部分は日本軍解体まで陸軍が置かれていたこともあり、1953年から陸上自衛隊の駐屯地(新発田駐屯地)となっている。

 

13時45分ごろ、新発田城址公園駐車場を出て、関川村の重文・渡邉邸へ向かった。

新潟県新発田市 藩主御殿の大名庭園「清水園」② 新発田藩史料館・堀部安兵衛伝承館 旧新発田藩足軽長屋


新潟県新発田市 藩主御殿の大名庭園「清水園」② 新発田藩史料館・堀部安兵衛伝承館 旧新発田藩足軽長屋

2024年02月09日 14時28分33秒 | 新潟県

国名勝・清水園(しみずえん)。新潟県新発田市大栄町。

2023年9月28日(木)。

清水園は、池泉廻遊式大名庭園で、京風の庭の中心に草書体の「水」の字をえがく大池泉を配し、その周囲に茶室を配している。「越後を代表する大名庭園である」と評価されて国の名勝に指定されている。

隣接して、新発田藩史料館・堀部安兵衛伝承館・清水谷蔵所資料館、重文・足軽長屋、石黒家武家屋敷がある。

受付から大門をくぐり書院に入る。女性職員が庭園や書院について説明してくれる。その後は、庭園を茶室・桐庵から反時計回りに歩いて、新発田藩史料館・堀部安兵衛伝承館・清水谷蔵所資料館、重文・足軽長屋の順に見学していった。

最奥の南部には2段落の滝石組、下部には飛石が打たれ、沢渡りの形で廻遊路が結ばれている。

近江八景をとり入れた庭園は、技術的には桂離宮、要素的には苔寺(西方寺)といわれ、巧みな遠近法を見せてくれる。南西部の岩島や南東の岩島(亀島)、北西部の中島など架かる石橋、南部には2段落の滝石組、下部には飛石が打たれ、沢渡りの形で廻遊路が結ばれている。東部中央に突き出す洲浜は、荒磯の浜の意匠で、西端には岬燈篭が置かれる。

池の周囲には田中泰阿弥が設計した五つの茶室(桐庵、夕佳亭、翠濤庵、同仁斎、松月亭)が点在する。

州浜と夕佳亭。

最奥部方面。

書院横の庭園出口から新発田藩史料館・堀部安兵衛伝承館・清水谷蔵所資料館へ。

五階菱(溝口菱)。

新発田藩初代溝口秀勝は関ケ原の合戦に徳川勢に属し大功を樹てた。その合戦の前夜、秀勝は溝口家の家紋ミヅナの紋に美しい後光がたなびく夢をみた。秀勝はこれを瑞兆として、その形に則って家紋を定めた。それが溝口菱であるといわれる。

昭和9年町制当時、溝口家に請うて溝口菱を町章として、今日の新発田市章に至っている。

慶長3年(1598年)、上杉景勝が会津に移されると、そのあとの新発田には、加賀大聖寺から溝口秀勝が六万石で入部し、5万石 、万延元年(1860年)に 10万石と推移したが、幕末まで十二代、溝口氏の治世が続いた

溝口 直正(なおまさ、1855年~1919年)は、12代(最後)の藩主、のち伯爵。

明治22年(1889年)に長女の溝口久美子が、新発田出身で大倉財閥総帥の大倉喜八郎の長男喜七郎(後の2代目総帥)と結婚した。この頃より家運が傾き始め、明治24年(1891年)に、旧新発田藩士の中村谷五郎より貸付金および立替金7万円余を請求されて訴えられた。明治31年(1898年)前後には家宝として伝来していた茶道具類などを、財界人で茶人でもあった原三渓や高橋箒庵に売却した。明治37年(1904年)には、古道具商のもとで売立を行ない、再び家宝を売却した。

 

有栖川宮熾仁親王妃 董子(たるひとしんのうひ ただこ、1855年~ 1923年)は、有栖川宮熾仁親王の2番目の親王妃である。

第10代藩主溝口直諒の六男・直與の次女として生まれ、その後、伯父・直溥の養女となる。幼名は、栄姫

溝口直與は、安政3年(1856年)8月、伊勢神戸藩6代藩主・本多忠寛の世嗣ぎ養子となり、本多忠穆(ほんだ ただひこ)と改名した。しかし、同年9月家督相続前に27才で早世した。

董子は、1873年、貞子妃を病気で亡くした熾仁親王と結婚する。董子は、夫と共に佐野常民らを助けて博愛社(後の日本赤十字社)の創設に尽くし、東京慈恵医院幹事長を10年間務め、67歳で薨去した。

日本初のチャリティ-バザー(鹿鳴館での婦人慈善会)総長は、董子妃であった。この時の収益が「看護婦教育所発祥の地」として紹介されている有志共立東京病院の看護婦教育所の建設にも使われ、のちに東京慈恵医院、現在の慈恵医大へとつながっている。

篤志看護婦人会は、1887(明治20)年5月19日、有栖川宮熾仁親王妃董子の意を受けて、有志の女性たちと橋本綱常(初代日赤病院長)、石黒忠悳(軍医総監)が日赤本社事務所に参集し、設立が決まった。この集会に出席した親王妃4人と三条治子、大山捨松など25人の計29人が篤志看護婦人会の発起人となり、董子妃は、明治20年~29年まで幹事長を務めた。その後、全国各地に女性たちの赤十字ボランティアの輪が広がり、会員数は多い時には10万人におよんだ。

大倉喜八郎(1837―1928)。政商的実業家。大倉財閥の創設者。新発田の名主の家に生まれる。18歳で江戸に出て、かつお節店の店員となる。1865年(慶応1)銃砲店を開業し、幕末、維新の動乱に乗じて販売を拡大した。明治元年(1868年)に有栖川宮熾仁親王御用達となり、奥州征討軍の輜重にあたる

維新後は欧米視察のうえ、1873年(明治6)大倉組商会を設立して貿易および用達事業に乗り出し、台湾出兵、西南戦争、日清戦争、日露戦争の軍需物資調達で巨利を得た。この間、大倉組商会は合名会社大倉組に改組され、大正期には大倉商事、大倉鉱業、大倉土木の3社を事業の中核とする大倉財閥の体制を確立していった。とくに中国大陸への事業進出に積極的で、中国軍閥との関係も深かった。

また渋沢栄一と協力して東京商法会議所設立に尽力するなど財界活動にも力を入れ、渋沢栄一らと共に、鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場、東京電燈はじめ多数の会社の設立に関与した。大倉高等商業学校(現東京経済大学)や大倉集古館も設立している。

大倉家は喜八郎の高祖父の代より新発田の聖籠山麓の別業村で農業を営むが、曽祖父・宇一郎(初代定七)の時、兄に田地を返し、商いで生計を立てる。祖父・卯一郎(2代目定七)の時に、薬種・砂糖・錦・塩などで大きな利益を得、質店を営み始める。この頃より藩侯への拝謁を許されるようになる。父・千之助(4代目定七)は、天保の大飢饉で米倉を開き窮民に施すなどの経緯から、藩主から検断役を命じられるほどの家柄であったという。

大倉直介(なおすけ、1884年~1953年)は建築技術者で大倉火災海上保険社長などを務めた。

旧新発田藩主・溝口直正の次男として生まれた。1910年東京帝国大学工科大学建築学科を卒業し、陸軍技師となり、1914年に退官。

1914年、同郷の実業家・大倉喜八郎の妹みち(道)の養子となり大倉に改姓。1915年、大倉組に入り会計部で勤務。大倉組ロンドン支店、大倉商事保険部長、1926年、同監査役、1928年、大倉火災海上保険常務取締役を経て、1935年、同社長となり1943年頃まで在任。

高田馬場の仇討ち、赤穂浪士など講談のヒーローとして後世に名を残すことになる堀部安兵衛武庸寛文10年(1670年)に中山弥次右衛門の子として城下に生まれる

重文・旧新発田藩足軽長屋。

「清水園」の東側を流れる新発田川をへだてて隣接した場所にある。旧新発田藩の下級武士の住んでいた長屋で、八軒を一棟に連ねた棟割長屋である。

新発田藩は軍事的理由から、城下の幹線道路の出入り口付近に人数溜まりをつくり、その外側に「足軽長屋」を置いた。長屋は旧会津街道口、古くは足軽町とよばれた上鉄炮町の裏につくられ、幕末まで4棟あった清水谷長屋のうち現存するのは1棟のみである。当時の城下絵図には、「北長屋三軒割八住居」としるされている。

建造年代は不明だが、昭和44年(1969年)に解体修理が行われたさい発見された棟札に「天保十三年」(1842年)の文字が残されており、同年の建造と考えられている。

昭和44年の春頃まで住居として使用されていた。現在の建物は、昭和46年に解体修理に着手、翌47年6月に完成させたものである。

「足軽長屋」は、桁行24間、梁間3.5間、寄棟造りの茅葦屋根をもつ八戸の棟割長屋で、一戸の主屋は間口、奥行3間の9坪、裏には2坪の炊事場と1坪の土間が下屋造りでついている。

主屋の間取りは、半坪の玄関土間、炉付の2坪半の板の間、それに8畳と4畳の2室、または6畳2室。床や書院はなく、軒高で内法高は低く、小屋組みも叉手構造のつつましい造りである。

当時の住人は、記録によると姓のあるのは1人だけで、ほか7人は名のみ。役職は御門番組・御旗指組などの小者と御綱方と、足軽以外のきわめて身分の低い家臣であった。幕末の下級武士の生活ぶりを伝える住居は、全国的にも例をみない貴重な遺構である。

 

このあと、新発田市街地へ向かい、カトリック新発田教会を探したが見つからず、新発田城跡へ向かうと激しい雨に遭遇した。

新潟県新発田市 国名勝・清水園① 阿賀野川・白崎橋 五頭温泉郷・村杉温泉薬師湯 月岡温泉 ・ 美人の泉 


新潟県新発田市 藩主御殿の大名庭園・清水園① 阿賀野川・白崎橋 五頭温泉郷・村杉温泉薬師湯 月岡温泉 ・ 美人の泉 

2024年02月08日 14時39分33秒 | 新潟県

阿賀野川。白崎橋。新潟県阿賀町白崎・吉津。

2023年9月28日(木)。

9月27日17時ごろ史跡古津八幡山「弥生の丘展示館」の見学を終え、阿賀町の道の駅「阿賀の里」へ向かうと、途中から激しい雨が降ってきて、28日の朝まで降り続いた。8時ごろ阿賀野川下りの雰囲気を体感できると目を付けていた白崎橋へ向かった。三川地区まで行って折り返し白崎橋西詰の駐車場に駐車して、橋の中ほどから磐越西線の鉄道橋方面を眺めた。

五頭(ごず)温泉郷。村杉温泉薬師湯。新潟県阿賀野市村杉。

9時過ぎに着いた。入浴料300円。単純放射能温泉(ラジウム泉) (弱アルカリ性 低張性 低温泉)。

五頭温泉郷は、五頭山麓にある村杉温泉、今板温泉、出湯温泉の総称で、環境省の国民保養温泉地に指定されている。2018年から2019年にかけての県の「第8回新潟県観光地満足度調査」では総合満足度が県内温泉地の中でトップとなった。

1335年の開湯伝説がある「薬師の湯」のラジウムの含有量は日本一ともいわれ、特に婦人病に効果があることから、「子宝の湯」として知られる。

月岡温泉 共同浴場 美人の泉。新潟県新発田市月岡。

激しい雨のなか、10時頃に着いた。入浴料600円。含硫黄-ナトリウム-塩化物温泉

新潟県を代表する温泉地で、にっぽんの温泉100選に例年ランクインする。硫黄成分濃度の高さで知られ、その含有量は万座温泉に次ぐ日本で2番目の含有量である。硫黄泉としては珍しい弱アルカリ性であり、肌に優しい硫黄泉として多くの女性から親しまれてきた。

硫黄泉への入浴は、皮膚に効果的に働きかけ、肌がつるつるになる事から「美人になれる温泉」と称されるようになる。入浴剤と間違われるほど美しいエメラルドグリーン色を呈している。

国名勝・清水園(しみずえん)。新発田市大栄町。

新発田市街地から離れた閑静な場所にある。北方文化博物館の分館である。1980年代に新潟市の北方文化博物館を見学したが、そういえば書いてあったなとうすうす思い出してきた。11時ごろ、松の木が点在する駐車場から下りた時には雨はほぼ止んでいた。

清水園は、池泉廻遊式大名庭園で、京風の庭の中心に草書体の「水」の字をえがく大池泉を配し、その周囲に茶室を配している。「旧新発田藩下屋敷(清水谷御殿)庭園および五十公野御茶屋庭園」の名称で、「(江戸幕府)公儀茶道方が度々下向して指導作庭されたことがわかる庭園として貴重であり、越後を代表する大名庭園である」と評価されて国の名勝に指定されている。

隣接して、新発田藩史料館・堀部安兵衛伝承館・清水谷蔵所資料館、重文・足軽長屋、石黒家武家屋敷がある。

慶長3年(1598)、溝口秀勝が加賀大聖寺から入封し、新潟県阿賀野川以北の地(揚北)に新発田城を築き、蒲原平野の経営に努めた。新発田は江戸時代を通じて溝口氏10万石の城下町で、小藩ながら比較的豊かであった。

新発田藩3代藩主溝口宣直は万治元年(1658)に曹洞宗高徳寺を五十公野の上新保に移し、その跡地を藩の御用地として下屋敷清水谷御殿を建立した。その後4代重雄の時に幕府茶道方縣宗知(あがた そうち)を新発田に度々招き、作庭の指導を受け、元禄年間(1688-1704)に清水谷・五十公野・法華寺などの庭園が完成している。

1891年、大地主の伊藤文吉に買収されたのち、1946年から北方文化博物館の分館となり、「清水園」と名づけられた。廃藩置県以降次第に荒廃が進んでいたため、1937年復興計画が立てられ、戦争を経て1955年復興事業が完了した。指導者は田中泰阿彌(たいあみ)で、回遊路に添った露地や建物などはこの時の意匠である。

清水谷の庭園は、北寄り御殿上段から眺める大池泉を中心とした奥行きのある景を主としつつ、露地をわたりながら回遊する庭園として造られた。

庭園を囲むようにそびえる薩摩杉、庭内の青森ツガは、この地では珍しい樹木であり、当時の流通の様子を伝え、希少な樹によって格式をあげようとしたことがうかがえる。

南最奥部に築山を築き、水面は左右に湾入して水面に広がりを思わせる。中景部は水面を絞って左手は州浜に、右手は岩を組んだ険しい岬の景とし、州浜越しには小島を、岬越しに橋を設ける。御殿寄りには水面が大きく広がり、左に水面にせり出す亭右手にやや大振りの中島を設けている。

江戸時代から、「水」の字型に池を掘ったと言われているように、中絞りの池型前後の水面を大きく見せる効果を発揮し、公儀茶道方指南による往時の庭園地割を良好に保存している。

近江八景をとり入れた庭園は、巧みな遠近法を見せてくれる。南西部の岩島や南東の岩島(亀島)、北西部の中島など架かる石橋。南部には2段落の滝石組、下部には飛石が打たれ、沢渡りの形で廻遊路が結ばれている。東部中央に突き出す洲浜は、荒磯の浜の意匠。西端に岬燈篭。

庭石を多くは使わない江戸初期の特徴をもつ庭園ながら、茶席松月亭前の舟着場の石組、腰掛待合前の舟着場の立石などの構図の妙は見事で、技術的には桂離宮、要素的には苔寺(西方寺)といわれる。

池の周囲には田中泰阿弥が設計した五つの茶室(桐庵、夕佳亭、翠濤庵、同仁斎、松月亭)が点在する。

受付から大門をくぐり書院に入る。女性職員が庭園や書院について説明してくれる。その後は、庭園を茶室・桐庵から反時計回りに歩いて、新発田藩史料館・堀部安兵衛伝承館・清水谷蔵所資料館、重文・足軽長屋の順に見学していった。

書院(御殿)。上段の間(左)、床の間(右)。

寛文6(1666)年築。寄棟造杮葺平屋建80余坪。

京間座敷(幅2間・奥行4間半)を中心に、奥には2畳敷の上段の間と1間の床、庭に面した南側は縁側で開放され、庭とあいまって心憎いばかりの景観の調和を見せる。この座敷から鍵の手に北へ続く次の間(15畳)に、2間床を設けてあるのは江戸初期の慣例といわれる。床には春慶塗がほどこされ、床下に甕(かめ)を伏せたらしき跡があることから、この部屋は能舞台に用いられたと考えられている。

田中泰阿弥(たいあみ、1898年 - 1978年)は、新潟県柏崎市に生まれた作庭家、庭師である。全国各地の寺院や名園を手掛け、孤高の「庭匠」とよばれた。本名・田中泰治。笠原家に生まれ、農業の傍ら、造園技術を見習う。東京・京都で渡り植木職人として転々とし、小川治兵衛の「植治」に在籍した。1929年、京都慈照寺(銀閣寺)「洗月泉」滝の石組を発見、1938年から、鹿苑寺(金閣寺)出入りの庭師となる。1945年~1949年、東京植木株式会社に在籍。1951年、泰阿弥を名乗る。

清水園は、江戸時代に幕府茶道方の縣宗知の指南の下で築造された庭園であるが、昭和20年代に、荒廃した同園を田中泰阿弥が修復して現在の形になった。現在高い評価を得ている清水園の作庭は、その殆どが田中泰阿弥の復元・再生作業の結果であると言える。また、現在ある5つの茶室はすべて泰阿弥が修復時に建立したものである。

清水園修復には、1940年から関わるが戦争のため工事は延期、1953年に再開し、1956年に茶室工事、全体完成は1957年。新潟市江南区の伊藤邸(現・北方文化博物館本館)庭園は1954年~1958年に手掛けた。

夕佳亭(ゆうかてい)。この場所には、かつて、杉皮屋根の四阿(ちん)「浮御堂」が、池にのり出して建てられていた。同じ場所に2面を腰掛けとする1帖台目向切で、洞庫をそなえた茶席を設けた。壁を半円窓に開け放すなど、裏千家家元に現存する「今日庵」の写しである。

金閣寺の茶室は、夕佳亭(せっかてい)とよぶが、清水園では夕佳亭(ゆうかてい)とよんでいる。

州浜。

水鳥。

州浜、書院。

州浜の灯籠。

滝の源流部。最奥部。

新潟市 「弥生の丘展示館」史跡・古津八幡山遺跡 古津八幡山古墳


新潟市 「弥生の丘展示館」史跡・古津八幡山遺跡 古津八幡山古墳

2024年02月07日 14時45分49秒 | 新潟県

史跡古津八幡山「弥生の丘展示館」。新潟市秋葉区蒲ケ沢 花と遺跡のふるさと公園内。

2023年9月27日(水)。

弥生の丘展示館新潟県埋蔵文化財センターから300mほど西の道路脇の広い「花と遺跡のふるさと公園駐車場」内にあるが、フラワーランドの方が目立っていたので間違って入り込んでしまい、探し回った。弥生の丘展示館は新津美術館寄りの奥まった場所にあり目立たなかったが、展示内容はガイダンス施設にしては意外と立派すぎる建物だった。16時30分頃に入館し、16時45分頃に出た。

古津八幡山(ふるつはちまんやま)遺跡古津八幡山古墳は裏山の山頂にあるが、5分で到達できそうもなく暗くなってきたので諦めて、阿賀町の道の駅へ向かった。

弥生の丘展示館は新潟市埋蔵文化財センターの管轄下のようで、新潟県埋蔵文化財センターと併せて8冊ほどのガイドブック的図録的な冊子を入手できたのが成果といえば言える。内容はネットでも読めるが、詳細で史跡の概要や意義がよく分かる。

古津八幡山遺跡は、新潟市秋葉区金津と古津にまたがり、信濃川と阿賀野川に挟まれた新津丘陵上に立地する。

弥生時代の高地性環濠集落から4世紀末から5世紀初頭にかけて造営された古津八幡山古墳造営に至る古墳時代への変遷を一つの遺跡で見ることができる史跡公園として2015年に全面公開された。

直径60mの円墳を、県内で初めて復元整備し、信濃川、阿賀野川の下流域に広がる蒲原平野の王墓にふさわしく、頂上部から平野を一望のもとに眺めることができる。

古津八幡山遺跡は新潟県中央部に位置し、信濃川と阿賀野川によって形成された新潟平野に突き出た新津丘陵北西端の標高約15~55m前後の丘陵上に立地する。

日本海沿岸としては最北に位置する弥生時代後期の大規模な高地性環濠集落新潟県内最大規模の古津八幡山古墳をはじめとして弥生時代から古代にかけての複合遺跡である。

集落は南北に延びる尾根頂上部と北東向き緩斜面を中心に展開しており、北半部は二重の環濠、南半部は尾根を断ち切る濠・溝によって画されている。それにより囲まれる範囲は南北400m、東西150mに及ぶが、一部の住居は環濠や濠の外に分布する。

内環濠、外環濠とも完全に連結するものではなく、断続的に北西辺から東辺にかけて配置されている。底面は狭いV字形で、幅約3m、深さ2m程である。

遺構が多いのは北地区で、150m四方程度の範囲から環濠、竪穴住居、方形周溝墓、土器棺墓、前方後方形周溝墓が検出された。

竪穴住居は32基確認されており、大部分が外環濠内部や条溝で区画され独立した丘陵頂部に位置する。一辺4から6mで、平面形は隅丸方形であり、地床炉、4本柱、壁溝、貯蔵穴があるものがほとんどである。山側に弧状の周溝を持つものが多く、北陸地方中西部からの影響を受けたものとみられる。

一方、方形周溝墓は外環濠の外側に位置し、埋葬施設は組合せ式木棺と見られ、主体部から鹿角装鉄剣やアメリカ式石鏃が出土し、出土遺物から集落とほぼ同時期のものである。

前方後方形周溝墓は内環濠に囲まれた丘陵頂部に位置し、全長13mを測る。

古津八幡山古墳は古墳時代前期(4世紀末から5世紀初頭)のもので、墳丘長約60mの二段築成の円墳で北側に造り出しをもち、周濠が巡る。

弥生集落からの出土土器では北陸系、東北系(天王山式系)・在地折衷系(八幡山式)の3系統が共存し、この地域が北陸系と東北系の分布圏縁辺にあたること、日本海や阿賀野川を介した北陸地方中西部、東北会津地方とのつながりをもっていたことを示唆する。土器から見ると集落の盛期は北陸地方中西部の高地性集落と同様に後期後半である。

この時期、高地性集落が日本海側にも点々と認められるようになり、本遺跡は現在のところ最北に位置し、西日本を中心とした社会の変化の影響が、この地域にも及んでいたことを示している。このことは、集落の廃絶後、同じ場所に前方後方形周溝墓を経て大型古墳が造営されたこと、この地域が日本海沿岸における古墳分布の北限であることと関連して興味深い。このように本遺跡は、弥生時代終末期から古墳時代初頭にかけての北陸地方の社会情勢やその変遷を考える上でも極めて重要である。

古津八幡山古墳出現前夜。

古津八幡山遺跡では、弥生時代後期(1世紀から3世紀)に、標高約50mの丘陵上の周囲に濠をめぐらした大規模なムラ(高地性環濠集落)が出現したが、弥生時代の終わり頃に廃絶した。標高55mの最も高い場所に築かれた前方後方形周溝墓は遺跡の廃絶前後のものと推測されている。戦いに備える必要がなくなり集落は低地に降りたと考えられる。それを裏づけるように、古津八幡山遺跡の廃絶と前後する時期に北西約700mの麓では古津八幡山古墳をつくった豪族の屋敷と推定される舟戸遺跡が新たに出現するなど、この時期に大きな社会の変化があったことが分かっている。

奈良時代、古津八幡山遺跡のある丘陵北西麓の金津地区では製鉄(製錬)が盛んに行われ、平安時代の終わり頃まで操業されていたと考えられる。当時、古津八幡山遺跡周辺は蒲原郡における手工業生産の一大基地で、「金津」という地名はこの鉄づくりに由来すると考えられる。

新潟市 新潟県埋蔵文化財センター 縄文の漆糸 国宝・金銅威奈大村骨蔵器


新潟市 新潟県埋蔵文化財センター 縄文の漆糸 国宝・金銅威奈大村骨蔵器

2024年02月06日 12時58分14秒 | 新潟県

新潟県埋蔵文化財センター。新潟市秋葉区金津。

2023年9月27日(水)。

保内三王山古墳群見学者用駐車場を15時30分頃に出て、新潟市秋葉区の新津丘陵北端にある新潟県埋蔵文化財センターへ向かったが、ナビに北東へ遠回りさせられて駐車場に16時過ぎに着いた。さらにセンター入口まで長い距離を歩かせられてしまった。「埋文にいがた」の埋文コラムがプリント頒布されていて参考になる。

縄文土器。脚付土器。縄文時代中期。南魚沼市五丁歩(ごちょうぶ)遺跡。

関東地方の勝坂式土器の文様を持ち、底部から伸びる4本の足が器を支えており他に例がない。縄文時代中期前半の環状集落。土器(独自色強い。焼町土器。新巻類型類似土器。阿玉台式。勝坂式など)。

アスファルトパレット。縄文時代晩期。新発田市青田遺跡。阿賀野市山口野中遺跡。

埋文コラム「縄文時代のアスファルト」埋文にいがたNo.101 2017年12月28日

 アスファルトというと、道路の舗装を連想される方も多いと思います。ところが縄文時代の人々も、天然のアスファルトをさまざまな使い方で利用していました。アスファルトは、原油に含まれるタール分が固まったもので、黒くて粘りのある物質です。いったん溶けても冷えると固まる性質から、接着剤などとして大いに利用されました。

 アスファルトが利用されたのは、北海道の南半分、東北、新潟県とその周辺で、現在までに1,200近くの遺跡で利用が確認されています。北海道と青森、岩手では縄文時代早期、新潟でも前期に利用がはじまり、利用エリア全域で後期中ごろから晩期に最盛期をむかえました。

アスファルトは原油からできるものなので、北海道、秋田、山形、新潟などの油田地帯が主な産地です。そこから各地に流通して、太平洋側でも盛んに利用されました。阿賀町大坂上道(おおさかうえみち)遺跡出土の土器入りアスファルト(写真①)や胎内市江添(えぞえ)遺跡出土の塊はアスファルトが流通する姿を示しています。特に、江添遺跡の塊の表面には編み物の痕がみられ、編み物で包んで運ばれたと考えられます(写真②)。

 アスファルトは接着力が強く、水にぬれても接着力が落ちないため、石鏃(写真①)や石匙、やすなど骨角製の漁労具や石製の網の錘(おもり)などの接着に利用されました。太平洋側の貝塚でアスファルトが付着した骨角器がたくさん出土していることから、水に強いことが太平洋側まで流通した理由だとする説があります。ほかにも割れた土器の補修、色が黒いことから着色にも利用されました。

 これまで、縄文人は油田で天然のアスファルトの塊を採取して利用したと考えられてきましたが、近年、アスファルトを製造・精製していた可能性が言われています。北海道や秋田、新潟の油田の近くの遺跡で、原油を煮た土器や不純物を多く含んだアスファルトの滓(かす)のようなものが出土したからです。新津(にいつ)油田に近い新潟市秋葉区大沢谷内(おおさわやち)遺跡でもそれらの資料が数多く出土しました(写真③)。出土品を見る限り、製造といっても原油を煮つめる、不純物を取り除くなどの作業だったようです。今後は、製造・精製の具体的な方法や、アスファルトの流通ルートなどの研究が進むことが期待されます。(沢田 敦)

赤漆塗り糸玉。縄文時代晩期。新発田市青田遺跡。

埋文コラム「縄文時代の赤漆塗り糸玉」 埋文にいがたNo.99  2017年6月30日

新発田市青田遺跡から出土した赤漆塗り糸玉は、縄文時代の文化を知るうえで大きく二つの意味を見出すことができます。一つは、縄文時代から盛んに行われていた植物繊維と漆の利用です。

この糸玉は植物繊維の束2 本を右撚(よ)りした直径約 1 mmの糸を素材としています(図 2 )。こうした糸は編布(あんぎん)にも利用され、様々な用途に使われていました。この糸にベンガラ漆を塗って漆糸を作り、15〜20本を束ねて結び目を付けたのが糸玉です。

漆糸は繊維上に直接ベンガラ漆 1 層を塗ったものや、漆を塗った後にベンガラ漆 3 層を塗り重ねたものがあります。いずれも結び目上からベンガラ漆が塗られた痕跡がないため、漆を塗った後に漆糸の変形作業が行われていました。こうした可塑性を持つ漆製品は縄文時代特有の漆工技術として注目されます。

 もう一つは、糸玉の用途についてです。糸玉の出土地点は腕輪状 漆製品や土偶と重なるものも多く、装身具や祭祀具の可能性があります。一方、小林達雄氏(國學院大學名誉教授)は結び目の数や配置などによって記録や伝達の手段とする「結縄(けつじょう)」の可能性を指摘しています。

結縄はアメリカ大陸などの文字を持たない時代の社会に見られ、日本では沖縄の「藁算(わらざん)」が有名です。

青田遺跡の糸玉の長さは最大18.2cm、幅は最大2.1cm、最小0.8cmです。結び目はすべて一重結びですが、結び目の間隔を置かずに連続させるもの(図 1 )が13点、間隔を空けるもの(図 3 )が 4 点あります。連続するものの結び目数は 2 連〜 6 連を確認でき、間隔を空けるものには 5 〜 8 mm間隔で結び目を 1 つずつ付けるものや、2 個 1 対の結び目を約 5 cmの間隔で付けるものがあます。そして、同時期の阿賀野市山口野中遺跡で 4 点(図 4 )、福島県三島町荒屋敷遺跡で15点、さらに奈良県御所市京奈和自動車道関連遺跡D北区でも確認され、国内の広範囲に普及していたと考えられます。このように、豊富な数と規格性・広域性が認められる赤漆塗り糸玉は縄文時代の意思伝達具の可能性があるのです。(荒川 隆史)

漆製品。縄文時代晩期。青田(あおた)遺跡。新発田市金塚青田。

新潟平野の北部、胎内市との境界に近い新発田市西端の沖積地にある縄文時代晩期末(約2500年前)の河岸集落跡。標高はマイナス1mから1.6m、かつて一帯は紫雲寺潟(しうんじがた)とよばれた潟湖があり、遺跡はほぼその中央にあたる。1999年から日本海沿岸東北自動車道建設で新潟県教育委員会が発掘。当時の河川に沿って、川岸に立ち並ぶ掘立柱建物58棟のほか土坑や墓域とみられる深鉢形土器を逆さまにして埋めた埋設土器がまとまって見つかった。

低湿地に位置する青田遺跡は、地下水に守られ、丸木舟をはじめとする木製品(擢・籠類・草壁)動植物遺体(堅果類・貝類)・漆製品(漆塗り糸玉・腕環・櫛・弓・漆用具)などの有機質遺物が豊富に出土した。

 

令和5年度 企画展1「発掘された名前」。

新潟県の歴史を書き換えた、古代から中世・近世までの重要な木簡・墨書土器をはじめとする文字資料の中で、「名前」に焦点を当てました。名前には人名のほかに役所名・施設名・地名など多種・多様なものがあります。「名前」からみえる人と社会の実像に少しでも迫りたいと思います。

(会期 2023年4月21日~12月17日)

墨書土器。

佐渡国分寺跡出土瓦「三国真人」。

三国広見(みくにのひろみ、生没年不詳)。姓は真人。官位は従五位下・能登守桓武朝の天応元年(781年)4月、従六位上から従五位下に叙爵されるのが史料における初見。同年5月には主油正に任ぜられる。翌延暦元年(782年)6月、越後介。同3年(784年)3月、能登守と地方官を歴任する。同4年(785年)7月に笠雄宗と役職を交替する。ところが、同年10月、謀反を誣告したという罪で、斬刑に処せられるところを、死一等を減刑して、佐渡国に配流されたという。これは同年9月の藤原種継暗殺事件と、広見配流と同月の安殿親王(のちの平城天皇)立太子の間に起こった出来事であり、種継暗殺に関係した処置と推定されている。

佐渡国分寺跡から出土した文字瓦に官人像の絵と「三国真人」の署名のあるものがある。

国宝・金銅威奈大村(いなのおおむら)骨蔵器。(複製)。

飛鳥時代・慶雲四年(707年)十一月二十一日在銘。大阪・四天王寺蔵。

江戸時代の明和年間に発見されたもので、甕を伏せた下からこの骨蔵器が出土したと伝える。球形の容器で、蓋と身が半球形に分かれる特殊な形である。よく似たものに佐賀県出土と伝えられる無銘のものがある。威奈大村骨蔵器は蓋裏に1行10字詰め39行391字におよぶ銘が刻まれている。これには、威奈大村が宣化天皇の子孫にあたり、持統朝に任官、文武朝に少納言、大宝令制定とともに従五位すなわち貴族に列せられ、慶雲2年(705)に越後守に任ぜられるが、同4年(707)に任地で歿したこと、そして故郷の大和の葛城下郡山君里、今の香芝市穴虫の地に葬ったことが記されている。

威奈大村は、飛鳥時代の貴族で、氏は猪名とも書き、姓(カバネ)は真人。威奈鏡公(鏡王)の三男。官位は正五位下・越後守。

『続日本紀』では猪名真人大村、『威奈真人大村骨蔵器』に刻まれた墓誌には威奈真人大村と記される。以下に記す事績のうち、『続日本紀』に記されるのは御装副官と越後守の任官の二つだけである。その他は墓誌によるが、墓誌には御装副と越後守の任官が書かれていない。

墓誌によれば、威奈大村は天智天皇元年(662年)に威奈鏡公の第三子として生まれる。天武天皇の14年(685年)か翌朱鳥元年(686年)に冠位四十八階制の務広肆となる。藤原宮に移ってから、勤広肆・少納言に叙任された。さらに直広肆に進み、大宝元年(701年)大宝律令に基づく位階制のもとで従五位下に叙せられ、侍従を兼ねた。大宝3年(703年)に行われた持統天皇の葬儀に際して、御装長官の穂積親王を輔佐する3人の副官の1人に任ぜられる。なお、他の2人は従四位下・広瀬王と正五位下の石川宮麻呂であった。大宝4年(704年)正月に従五位上に昇叙され、翌慶雲2年(705年)には左少弁を兼ねた。

同年11月16日に大村は越後城司に任命された。『続日本紀』によれば翌慶雲3年(706年)閏正月に越後守に任官している。越後城・越後城司は大村の墓誌にしか現れない城柵で、越後守と同じ官職、あるいは越後守の下僚にあたる官職か、学説が分かれる。3か月しか違わない任命時期の解釈も、一方を誤りとする説と、任命日と赴任日のずれと解する説、越後城司から越後守への昇進とする説がある。これ以前にも越後守の補任は行われていると考えられるが、名前が知られる中では大村が最初の越後守・越後国司である。

当時の越後国は後のものより範囲が狭く、新潟県本州部の東半分にあたり、蝦夷の領域と境を接する国境地帯であった。墓誌では、越後城司としての大村の統治を仁政を敷いたものと称え、軍事的な功績は記さない。慶雲4年(707年)2月に正五位下に進むが、同年4月24日に任地の越後で卒去した。享年46。最終官位は越後守正五位下。遺骨は大和国に持ち帰られ、同年11月に同国葛下郡山君里狛井山崗(現在の奈良県香芝市穴虫字馬場)に帰葬された。

威奈大村の骨蔵器(骨壺)は、江戸時代の明和年間に葛下郡馬場村の西にあった「穴虫山」から開墾中の農民によって掘り出されたと伝わる。発掘時、骨蔵器は大甕を伏せた下から見つかり、中には火葬骨が込められた円形漆器が入っていたとされる。発掘した農民は当初、骨蔵器を純金製と考えて所持していたが、やがて銅製とわかったため地元の安遊寺へ寄進し、遺骨入りの漆器は、同人が浄土真宗を信仰していたことから大谷本廟へ納めたという。

地元の人々は骨蔵器の墓誌を判読できなかったが、布教のため同地を訪れていた僧の義端がその価値を見出して『威奈卿銅槃墓誌銘考』を著し、また彼の友人で連絡を受けた木村蒹葭堂も同品を取り寄せ直接調査して『威奈大村墓誌銅器来由私記』を執筆し、さらに秋里籬島の『大和名所図会』や松平定信の『集古十種』でも墓誌が紹介されるに至った。その後、四天王寺の僧・諦順が大村の遺骨と骨蔵器を再び一緒にしようと尽力したが果たせず、骨蔵器は同寺の所蔵となって現在に至る一方、大谷本廟へ移された遺骨入りの漆器は所在不明となった。

骨蔵器は明治42年(1909年)に「銅壺(威奈真人大村卿骨壺)」の名称で国宝(旧国宝)に指定され、昭和30年(1955年)に国宝(新国宝)に指定された。

骨蔵器の出土地は二上山麓にあり、大阪府側からは船氏王後墓誌高屋枚人墓誌および紀吉継墓誌が発見された他にも火葬墓や骨蔵器などが出土しており、同地帯は7世紀から8世紀には、官人の公葬地として使用されていたと考えられる。しかし、大村の骨蔵器が直接出土した穴虫山の正確な位置についてはすでに江戸時代当時から不明瞭となっており、義端は道場山のことではないかと推測しているが、現在地元で「御坊山」と俗称される場所がそれに該当しうるとの見解が出されている。

鋳銅製の球形骨蔵器は、総高24.2cm・径24.4cm、表面を轆轤仕上げで整形した上に鍍金し、中央やや下寄りの位置で蓋と身を合わせ、底部に高台を鋲留めする。球形骨蔵器は、他に佐賀県出土と伝わるもの(無銘)が知られる。地金の厚さは約1 - 3mmで、高台周辺に向かうほど薄くなる。蓋表には題を含め391字の漢文体の墓誌を10字39行で放射状に陰刻する。墓誌の撰者および筆者は不詳だが、内容は大村の出自より始まり、その性格、経歴や没年月日、葬地を並べた後、『論語』などからの引用と流麗な修辞でもって彼の人物と業績を称え、その死を悼む文句で締め括られる。刻字もまた優れた小楷で当時の書風を代表するものであり、直接調査を行った木村蒹葭堂も書道の手本とするべく明和7年(1770年)に墓誌を模刻している。

卿諱大村檜前五百野宮

御宇 天皇之四世後岡

本聖朝紫冠威奈鏡公之

第三子也卿?良在性恭

儉爲懷簡而廉隅柔而成

立後清原聖朝初授務廣

肆藤原聖朝小納言闕於

是高門貴冑各望備員

天皇特擢卿除小納言授

勤廣肆居無幾進位直廣

肆以大寶元年律令初定

更授從五位下仍兼侍從

卿對揚宸?參賛絲綸之

密朝夕帷幄深陳獻替之

規四年正月進爵從五位

上慶雲二年命兼太政官

左小辨越後北疆衝接蝦

虜柔懷鎭撫允屬其人同

歳十一月十六日命卿除

越後城司四年二月進爵

正五位下卿臨之以德澤

扇之以仁風化洽刑淸令

行禁止所冀享茲景祐錫

以長齡豈謂一朝遽成千

古以慶雲四年歳在丁未

四月廿四日寢疾終於越

城時年?六粤以其年冬

十一月乙未朔廿一日乙

卯歸葬於大倭國葛木下

郡山君里狛井山崗天?

疏派若木分枝標英啓哲

載德形儀惟卿降誕餘慶

在斯吐納參賛啓沃陳規

位由道進榮以禮随製錦

蕃維令望攸屬鳴絃露冤

安民靜俗憬服來蘇遥荒

?足輔仁無驗連城析玉

空對泉門長悲風燭

 

鏡王(かがみのおおきみ、生没年不詳)は、飛鳥時代の皇族。額田鏡王とも記される。臣籍降下後の氏姓は威奈公。宣化天皇の子である火焔皇子の後裔で、阿方王の子とする系図がある。

『日本書紀』には、額田王(ぬかたのおおきみ)は、鏡王の娘で大海人皇子(天武天皇)に嫁ぎ、十市皇女を生むとある。

鏡王には、『日本書紀』の記載から娘に額田姫王がいたこと、『威奈真人大村骨蔵器』に刻まれた墓誌に大村が威奈鏡公の三男である旨の記載があることから、臣籍降下して威奈公の氏姓を称していたこと、および息子に威奈大村がいたことが判明している。

同じく息子とされる韋那 磐鍬(いなの いわすき)の官職は近江守。672年の壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)のために東国から兵力を動員する使者になったが、敵方に阻まれて逃亡し、任務に失敗した。

韋那氏(氏姓は「韋那君」、「偉那公」、「偉那君」、「猪名公」とも表記される)は宣化天皇の皇子・上殖葉皇子または火焔皇子を祖とする皇別氏族で、摂津国河辺郡為奈郷に設置されていた猪名部の伴造氏族であった為奈部氏(為奈部首)を出自とする乳母の姓に由来すると想定される。

韋那 磐鍬の息子の猪名石前(いな の いわさき)は、従四位下・右京大夫。大宝3年(703年)備前守に任ぜられ、在任中の大宝4年(704年)文武天皇に神馬を献上したところ、宮中の西楼上に慶雲が立ち上ったとことから、慶雲への改元が行われると共に、神馬献上の功績により正五位上に昇された。和銅7年(714年)1月11日卒去。

 

時間の余裕がなくなったので、10分程度見学して17時に閉館する弥生の丘展示館へ急いだ。

新潟県 三条市歴史民俗産業資料館②保内三王山古墳群