いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

アメーバブログ「いちご畑よ永遠に(旧ヤフーブログ)」は2023年7月に全件削除されましたが一部復活

新潟県 三条市歴史民俗産業資料館②保内三王山古墳群

2024年02月05日 11時24分43秒 | 新潟県

三条市歴史民俗産業資料館。新潟県三条市本町。

2023年9月27日(水)。

保内三王山(ほないさんのうやま)古墳群は、古墳時代前期4世紀に造られた前方後円墳(1号墳)前方後方墳(4号墳)造出付円墳(11号墳)と、古墳時代後期6世紀に造られた円墳9基(2・5〜9・13・15・17号墳)、方墳5基(3・10・12・14・16号墳)の計17基の古墳からなる。

蒲原平野の信濃川右岸地域を支配した三条の豪族は、大和王権によって認められ、 代々上保内の丘陵の尾根筋に、前方後方墳、造出付円墳の順に古墳を大型化しながら、 形をより大和王権との結びつきが強いものへと昇格させ、最終的に古墳群中最大の全長38mの前方後円墳を築く。

この古墳時代前期の古墳は、東北南部・会津を到達点に、北方支配を推進した大和王権の中継拠点として三条の地が特に重視され、この地を治めた豪族が勢力を拡大したことを物語っている。また、蒲原平野に所在する後期古墳は唯一のものであり、古墳時代の新潟県の歴史を考える上で重要な古墳群である。

1号墳は、本古墳群中唯一の前方後円墳で、丘陵尾根地形を最大限に利用しながら、地形整形と盛土によって構築されている。全長は37.5mで、平野に面する墳丘西側には平坦面や焼土壙などが設けられ、墳丘東側に比較して複雑な様相を示している。主体部は発掘せず、保存されている。墳頂部から墓壙を中心に、直口壺や甕などの土師器が出土している。

4号墳は、後方部に比べ前方部が極端に小さい小形の前方後方墳である。全長は16.1mで、後方部墳頂平坦面に隅丸方形の中心主体の墓壙の跡と思われる掘り込みが認められるが、内部は未調査である。遺物は出土していないが、東日本の古墳出現期に特徴的な前方後方墳であり、1号墳より高所に位置することから、古墳前期の築造で1号墳に先行すると考えられる。

11号墳は、北東墳裾に方形突出部が付設された主軸長23.0m造出付円墳である。古墳群中最高所の標高101mにある。埋葬施設は、木棺直葬で、円丘部中央に位置している。東西4.8m、南北3.8mの墓壙の中に、長さ2.93m〜3.32m、幅0.75m組合式木棺が納められていた。

副葬品はすべて棺内副葬品で、青銅製の四獣鏡(しじゅうきょう)1、鉄剣1、短冊形鉄斧1、細形管玉62、太形管玉2、ガラス製丸玉34が出土した。また墳頂部からは、土師器の二重口縁の壺や小形壺や小形器台が出土している。

11号墳から出土した四獣鏡、鉄剣、鉄斧、管玉、ガラス玉などは、質が高く被葬者の権力の高さを示すもので、大和王権からこの土地を治める被葬者に信任の証として贈られたものと考えられる。

四獣鏡 。中国のものを真似てつくられた鋳あがりの良い鏡で、鏡の裏面には四頭の獣があしらわれている。

 5号墳は、11号墳の立地する丘陵頂部から西側に下る尾根がふたまたに分かれる分岐点に位置する円墳である。直径約14mで、内部主体は未調査だが、陥没壙を中心に多数の供献土器として、須恵器甕(底部穿孔)・直口壺、土師器杯・甕が出土した。出土状況からこれらのうち少なくとも一部は意図的な破砕が行われたと考えられる。

12号墳は、隅丸方形の方墳である。墓壙は不整方形で中心主体に箱形木棺を埋設したものと推定される。棺内副葬品はなかったが、木棺の痕跡の上縁部に沿って造り出された2段の棚状平坦面に、棺外副葬品として鉄鏃2、長脚一段三方透しの無蓋高杯1点で検出された。墳頂平坦面からは供献土器は検出されなかったが、鉄鏃1、耳環1が出土した。副葬された須恵器の高杯から6世紀前半の築造で、5号墳よりは後出と考えられる。

保内三王山古墳群。三条市上保内。

15時10分ごろ三条市歴史民俗産業資料館の見学を終え、保内三王山古墳群の現地に向かい、集落内の狭い道路を通って15時25分頃に見学者用駐車場に着いた。入口を見ると、陰鬱な様子だったので見学はしないことにした。

次は、新潟市秋葉区の新潟県埋蔵文化財センター、弥生の丘展示館、古津八幡山遺跡を見学し、阿賀町の道の駅へ行くことにしたので、時間が足りなくなった。五泉市の村松郷土資料館を予定していたが諦めざるを得なくなった。

新潟県 三条市歴史民俗産業資料館①信濃川流域の火焔型土器


新潟県 三条市歴史民俗産業資料館①信濃川流域の火焔型土器

2024年02月04日 11時54分33秒 | 新潟県

三条市歴史民俗産業資料館。新潟県三条市本町。

2023年9月27日(水)。

燕市産業史料館の見学を終え、三条市歴史民俗産業資料館へ向かった。JR高架線近くの狭い道路を迷いながら14時45分頃に到着した。

 

三条市歴史民俗産業資料館(旧武徳殿)。登録有形文化財。

三条市の市街地に東面して建つ。装飾を抑えた厳粛な雰囲気をもち、戦前の武徳殿の典型的な形態を伝えている。1935年建設、1949年増築。建築面積674㎡。千鳥破風付の木造平屋建入母屋造桟瓦葺で、竣工当初は、正面に武甕槌命を主神とする鹿島神宮を祭っていた。剣道場、柔道場を中心にした旧武道場を中心に西北に旧弓道場、東南に旧貴賓室を付ける。周囲に下屋庇(げやびさし)をまわし、正面に唐破風造の玄関、北面に裏玄関を付設する。

1934年の三条市市制施行を契機に、当時の陸軍大将鈴木荘六(三条出身)を顧問、今井雄七(丸井商店社長)を発起人に、「武徳殿」建設が計画された。1935年2月20日に起工、7月19日に竣工した。設計は東京の木田組、施工は高野熊次郎(棟梁、下田村出身)。

戦後、GHQに接収されたのち、1947年から公会堂、1949年から三条市公民館、1981年から三条市立青少年育成センターとして使用された。1989年に青少年育成センターが移転し、三条市歴史民俗産業資料館として使用されることになった。

三条市では、旧石器時代から石器づくりが始まり、縄文時代には土器や土偶の製作が行われた。江戸時代には市内を流れる信濃川と五十嵐川を輸送路として商売が発展し、鍛冶で生み出された金物製品が重要な産業となり、現在も「ものづくりのまち」として知られている。

三条市歴史民俗産業資料館は、縄文時代では、吉野家遺跡、上野原遺跡の出土品を展示。古墳時代では、保内三王山古墳群の出土品を展示している。

『日本遺産 火焔型土器「なんだ、コレは!」信濃川流域の火焔型土器と雪国の文化』の構成文化財展示施設である。

吉野屋遺跡(日本遺産構成文化財)。

東山丘陵西方の舌状台地の南端、標高30mにある縄文中期~後期の大集落遺跡。出土した土器の中心は火焔型土器や王冠型土器をはじめとする縄文中期の土器群である。

吉野屋遺跡では県内でも最多に近い100体以上の土偶が出土し、通常の遺跡で出土する量をはるかに超えていることから、「土偶送り」の儀式が行われたのではないかと考えられている。このような土偶送りの儀式が行われたと考えられる遺跡は、大規模な拠点集落が多く、周辺の集落から大勢の人々が集い、儀式が行なわれたことが想像される。吉野屋遺跡は、信濃川中流域から下流域にかけての「火焔土器のクニ」のようすを物語る貴重な遺跡の一つである。

新潟県 燕市産業史料館


新潟県 燕市産業史料館

2024年02月03日 11時54分47秒 | 新潟県

燕市産業史料館。新潟県燕市大曲。

2023年9月27日(水)。

与板歴史民俗資料館を見学後、13時50分ごろ燕市産業史料館へ着いた。入館時に貸切バスが着き、欧米人アジア人が50人ほど入館した。外国人観光客に人気があるようだ。

燕市は、高度で多様な金属加工技術が集まる「ものづくりのまち」として有名である。スプーンやフォークなどの金属洋食器の国内シェアが90%を超えるほか、ノーベル賞の晩餐会や、APECでの各国首脳への土産として燕市の製品が採用されるなど、そのクオリティの高さは世界的な評価を得ている。

燕市産業史料館は、燕市の金属加工技術400年の歴史を伝える史料館で、江戸時代初期の和釘作りをはじめ、ヤスリ、キセル、鎚起銅器の製作工程と作業場の復元展示や現在も活躍する金工作家の作品を展示するとともに、体験工房館では鎚目入れ体験やスプーン酸化発色体験など豊富なモノづくり体験メニューをとおして職人技を体感できる。

鎚起銅器(ついきどうき)。

江戸時代から続く燕市の伝統工芸で、銅板を金鎚で叩きながら打ち延ばし、打ち縮めて形をつくり、継ぎ目のない立体的な製品をつくる鍛金技術を用いてつくられた器である。

鍔薬缶(つばやかん)。鎚起銅器 江戸時代 玉川覚兵衛(1799-1871)作 <寄託:玉川堂>

明和年間(1764-72)に仙台から会津を経て燕に渡ってきた藤七という人物が伝えたとされ、その技術を受け継いだ一人が、現在まで続く老舗・玉川堂の祖である玉川覚平衛である。玉川堂は200年間で300人以上の鎚起職人を輩出し、鎚起銅器の礎を築いた。

新潟県より「新潟県無形文化財」、文化庁より「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」、経済産業大臣より「伝統的工芸品」に指定される。また、木目金という、金属の色の違いを利用して複雑な木目模様を作り出す技術の世界第一人者として、2010年、玉川宣夫氏が重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されている。

人間国宝 玉川宣夫。

鍛金技法の中で、難易度の高い「木目金」。銀・赤銅・銅などの異種金属を10~30枚を積み重ね、板状に延ばし、表面を削り、模様を作り、その模様が木目状に見えることから「木目金」と呼ばれている。木目金技術の第1人者として国内外で活躍している。

木目金花瓶。

特に玉川堂独自の秀でた技術として、「口打ち出し」がある。普通の湯沸は本体と注ぎ口を別々に作り、後で接合するが、「口打ち出し」は本体と注ぎ口を一枚の銅板から継ぎ目なく打ち出すという高度な職人技

また、玉川堂の鎚起銅器の特色として、その色合いの美しさが挙げられる。素銅色、紫金色、銀色といったバリエーション豊かな色彩は、銅に錫を塗り硫化カリウムなどの薬液につけて酸化させる独特の方法によって生まれるもの。これは世界においても唯一無二の着色方法だ。

職人の手によって生まれる鎚起銅器は、日々使い続けることでその色合いを深め、艶を増していく。代々使い続けていきたい逸品である。

鎚起銅器の作業場復元。

鎚起銅器は一枚の銅板をひたすら叩いていき、硬くなったら火炉に銅器を入れ柔らかくし、また叩いていく。この製作過程において設計図はない。長年に渡って培われた職人の経験と勘のみによって成形されるのである。湯沸を一人で作れるようになるまでは、約10年はかかるという。

緋色の鎚起銅器。間瀬銅山でとれた銅は緋色が美しく品質も優れていた。

体験工房館。

純銅タンブラー鎚目入れ、洋白・錫ショットグラス鎚目入れ、錫ぐい吞み製作、チタン製スプーン酸化発色体験など様々なモノづくり体験ができる。予約不要で1名から体験可能。

戦前のナイフとフォーク。

ノーベル賞受賞者晩餐会に用いられるスプーンなど。

 

2時20分過ぎに見学を終え、三条市歴史民俗産業資料館へ向かった。

新潟県 長岡市立科学博物館 越乃雪本舗大和屋 河井継之助記念館 与板歴史民俗資料館 


新潟県 長岡市立科学博物館 越乃雪本舗大和屋 河井継之助記念館 与板歴史民俗資料館 

2024年02月02日 13時59分13秒 | 新潟県

長岡市立科学博物館。新潟県長岡市幸町。

2023年9月27日(水)。

郊外の悠久山公園にある長岡市郷土史料館を見学後、市街地に向かい、10時頃「さいわいプラザ」という複合施設の駐車場に着いた。「さいわいプラザ」1階ロビーの一室に長岡市立科学博物館の展示スペースがある。

長岡の自然史部門のほかに、歴史部門では、長岡市内で発掘された土器・石器・陶磁器類・木製品などを展示、重文・受贈資料展示コーナーもある。

大萱場古墳。長岡市西陵町。

7世紀初頭の円墳。横穴式木芯礫室。金環、ガラス製小玉、水晶製切子玉ほか出土。

新潟市歴史博物館学芸課長 小林隆幸氏 新潟郷土史研究会 平成27年8月

新潟県の古墳を概観すると、まず4世紀に蒲原に古墳が造られる。その後5世紀後半までは古墳は全く見られない。5世紀は雄略天皇の時代で、蒲原との関係は希薄になる。5世紀後半になると魚沼で古墳が造られる。6世紀から7世紀になると頸城に古墳が造られる。宮口・水科は7世紀のもので100基ある。越後の古墳は集中域が移動するという特徴をもつ。畿内の古墳と比較して大きさはとうてい及ばないが、それぞれ個性をもつ古墳である。

蒲原平野の古墳の多くは前期4世紀代の古墳であり、特に角田・弥彦山の東麓にまとまっている。稲葉塚古墳は蒲原で最初の古墳。山谷古墳は全長37メートルで県内最大の前方後方墳。菖蒲塚古墳からはダ龍鏡が出土、県内最大の鏡である。観音山古墳は丘陵上に作られた円墳で、葺石を持つ。同じく葺石を持つ緒立八幡宮古墳(旧黒埼町)は信濃川の河口近くの砂丘上につくられた。

阿賀野川を越えた胎内市の城の山古墳からは靫(ゆき)をはじめ多くの副葬品が出土した(県内最大の前方後円墳とされていたが、最近の調査で円墳と判明)。新津丘陵の古津八幡山古墳は県内最大級の円墳。

後期になると浦田山古墳(村上)保内三王山古墳群(三条)大萱場古墳(長岡)が造られる。浦田山古墳は竪穴系横口式石室を持つ。かつて磐船柵の一部と考えられていた。保内三王山古墳群は4世紀に造られた後、空白期時期があり6世紀に再び造られる。ここでは古墳のすべての基本形がみられる。大萱場古墳は朝鮮半島から伝えられた火葬の風習をとり入れた横穴式木芯礫室を持つ。

越乃雪本舗大和屋。長岡市柳原町。

1778年創業。長岡藩御用菓子司山川(松江)、長生殿(金沢)とともに日本三大銘菓である「越乃雪」は、越後産のもち米から作ったみじん粉に和三盆を合わせ、型に押し固めて四角く整形して作られる。和三盆は少し褐色がかった色を持つが、粉砕した粉砂糖をまぶすことで、見る角度によって雪原のようなきらめきが見える。

安永7年(1778年)、長岡藩9代藩主、牧野忠精公が病に伏された時、近臣が憂い、大和屋庄左衛門(大和屋庄七の祖)に相談した。庄左衛門はこれを受け、寒晒粉に甘みを加えて調理した菓子を作り、献上したところ、忠精公の食欲が進み、ほどなく病が治った。忠精公はたいそう喜ばれ、庄左衛門を召され、『実に天下に比類なき銘菓なり。吾一人の賞味は勿体なし。之を当国の名産として売り拡むべし。』と、この菓子に『越乃雪』の名を賜った。その後この菓子の製造を続け、文化6年(1809年)には藩の贈物用菓子の御用達を命じられた。

その頃はまだ千手町村に店を構えていたが、天保元年(1830年)に長岡藩の鉄物御用を命じられ、現在も店を構える柳原町に移転し、御用菓子屋、御用金物屋を続けた。同年に悠久山御社(蒼紫神社)御用を命じられ、毎月お供え菓子を献上した。この頃には『越乃雪』は藩主や藩士の参勤交代の贈答品として盛んに求められた。

明治11年(1878)9月10日明治天皇北陸巡幸の折には、御在所のお茶菓子として、またお供の岩倉具視、大隈重信たちから土産として買い上げを賜った。随行の官員・警官・人足等を合わせると総勢3000人に上り、菓子が売り切れて3日ほど休業するほど忙しかったという。

リニューアル工事中の仮店舗が臨時休業だったので、サテライト営業しているアピタ長岡店へ与板へ行く途中に立ち寄り、税込1296円の『越乃雪』詰め合わせを購入した。

柳原の舟運集積地・「広渡(こうど)」跡。

2023年9月2日放送のブラタモリ越乃雪本舗大和屋と「広渡(こうど)」跡が紹介された。

長岡は多くの支流を持つ信濃川により北前船の舟運(しゅううん)の集積地として江戸時代から明治時代初期にかけて発展した。川には、船の発着場で荷揚げ場でもある「広渡(こうど)」があり、川沿いの和菓子屋「越乃雪本舗 大和屋」には、原料の和三盆が徳島から「北前船」で新潟まで、新潟から信濃川を経て柿川・「栄川」沿いの店の「広渡」に直接届いていたという。

江戸時代には、川舟は安価かつ大量輸送が可能な効率的な手段であり、信濃川の水を利用し、藩内の共同出資者「株仲間」によって長岡船道(ふなどう)が組織されていた。明治に入ると、川蒸気船(汽船)が登場し、長岡と新潟の間で活躍した。

河井継之助邸跡。長岡市長町。

河井継之助記念館の駐車場横に石碑がある。この石碑の建つ長町は、藩士の家中屋敷があった場所である。庭には河井継之助の号である「蒼竜窟」の由来となったと言われる2本の松があった。河井信堅を初代とする河井家は120石取りで、郡奉行などを代々務めていた。

河井継之助記念館。長岡市長町。

河井継之助邸跡に建てられた。館内は一部を除き写真撮影禁止である。

河井継之助の父・代右衛門が使用した茶釜。

このあと、山本五十六記念館を見学したが、館内写真撮影禁止であった。

与板歴史民俗資料館(兼続お船ミュージアム)。直江兼続像。長岡市与板町与板。

館の前に、右手に巻物、左手に刀を携えた上杉家の知将・直江兼続の銅像が建つ。

資料館は館内写真撮影禁止である。展示は、与板城主であった直江兼続の生涯、妻のお船(せん)と与板衆に関する資料、ビール王・中川清兵衛の生涯など。

直江兼続(かねつぐ、1560~1620年)は、越後の戦国大名および米沢藩主・上杉景勝の家老で。兜の立物は「愛字に端雲の立物」である。旧名は樋口兼続

天正9年(1581年)に、景勝の側近である直江信綱が、毛利秀広に殺害される事件が起きる。兼続は景勝の命により、直江景綱の娘で信綱の妻であった船の婿養子(船にとっては再婚)となり、跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となった

慶長3年(1598年)、秀吉の命令で景勝が越後から会津120万石に加増移封された際、兼続には出羽米沢に6万石(寄騎を含めると30万石)の所領が与えられている。

与板藩は、1634年(寛永11年)、越後長岡藩初代藩主・牧野忠成の次男康成が1万石を分与され、長岡藩の支藩として立藩した。上杉家の家老・直江兼続の居城として知られ、廃城となった与板城址の麓に与板陣屋を置いて、与板近辺を支配した。1702年(元禄15年)、牧野家は信濃小諸藩1万5千石に転封された。

その後幕領を経て1705年(宝永2年)井伊直矩が遠江国掛川藩より2万石で封じられた。1804年(文化元年)、6代直朗は若年寄としての功績により城主格となり、それを機に与板城の建設が行われ、1823年(文政6年)、7代井伊直暉の時に完成した。

慶応4年(1868年)戊辰戦争の時、井伊家宗家の彦根藩が新政府側に藩論を転向させたことから与板藩もそれに従った。近隣の諸藩は会津藩の影響もあり、佐幕色を強めて新政府軍と戦ったが、与板藩は新政府軍側に就く構図となり、孤立した存在となった。

1868年5月19日早朝、新政府軍は信濃川を渡河し、長岡城を急襲し落城させた。奥羽越列藩同盟軍は与板城を攻撃するために、会津藩・桑名藩・上山藩兵で組織された軍を地蔵堂(燕市)・大河津(長岡市)経由で与板へ進めた。与板藩家老も藩兵を率いて進軍し、新政府軍に援軍を要請した。5月27日、与板手前の金ヶ崎で両軍が衝突。一斉射撃を掛けるが、会津藩兵の応戦に遭い退却した。5月28日早朝には援軍が到着したが、同盟軍の勢いは強く、驚いた新政府軍は与板城に火を付けて退却し、大手門・切手門以外が焼失した。このため城下は混乱に陥った。その後も6月まで与板周辺で攻防戦が続いたが、同盟軍から与板城下を守り抜いた。

与板城大手門。

資料館と敷地を同じくする浄土真宗西本願寺派新潟別院に明治維新後、移築されている。

 

このあと、燕市産業史料館へ向かった。

新潟県 長岡市郷土史料館 蒼柴神社 忠犬しろ神社


新潟県 長岡市郷土史料館 蒼柴神社 忠犬しろ神社

2024年02月01日 17時28分26秒 | 新潟県

蒼柴(あおし)神社。新潟県長岡市悠久町。(悠久山公園内)。

2023年9月27日(水)。

当日は、長岡市街地、与板、燕市、三条市、新潟市新津区を見学した。午前中は激しい雨に見舞われた。道の駅「長岡」から、長岡市郷土史料館へ向かった。

長岡市郷土史料館は、市街地東郊外の悠久山(ゆうきゅうざん)公園の高台にある。道なりに進入すると駐車場は蒼柴(あおし)神社横にある。史料館へは蒼柴神社横を通り抜けて、1㎞ほど歩くことになるが、史料館近くにも駐車場があると入館後に教えられた。公園内は一般車禁止なので、どちらにしても、登り坂になる。

蒼柴神社は、越後長岡藩3代藩主牧野忠辰(ただとき)公を主祭神とし、境内には河井継之助ゆかりの招魂社や忠犬しろ神社などがある。本殿および拝殿は国の登録有形文化財。

1722年(享保7年)に既に隠居していた牧野忠辰が死去。これを通達された京都の神祇道管領の吉田家より、故人忠辰に蒼柴霊神の神号が贈られた。このため、養嗣子で当時の4代藩主牧野忠寿(ただかず)が長岡城東隅に社殿を造営して忠辰の霊璽を奉安したのが始まりである。

享保13(1728)年3月の三蔵火事により、社殿が全焼したために千手町の八幡社に奉遷し、同年11月御遷座式が行われた。

明和3年(1766年)に牧野忠精(ただきよ)が9代藩主となると、社殿の城内からの移転が計画され、天明元年(1781年)に三官山を開拓し日光東照宮を模して社殿を造営し、7月に社地を三官山から悠久山と改名し、8月に遷宮式が行われて現在地に移転した。

神仏分離令を受けて1871年(明治4年)に蒼柴大明神から蒼柴神社に改名され、「お山」の名で長岡における崇敬の対象となる。

蒼柴神社は、人気漫画「るろうに剣心」のファンが御朱印目当てに参拝に訪れることで知られる。作者の和月(わつき)伸宏は同市で育ち、長岡高校在学中に新人作家の登竜門、手塚賞で佳作を受賞し漫画家の道に進んだ。この作品には美男子キャラクターの四乃森蒼紫(しのもりあおし)が登場する。

忠犬しろ神社。

長岡藩三代藩主牧野忠辰(ただとき)がかわいがっていた白い秋田犬の「しろ」を「忠犬しろ」として祭っている。犬や猫の健康祈願を行っているほか、しろが描かれた「愛犬守」なども頒布されており、参拝する愛犬家も多い。

長岡市郷土史料館。長岡市御山町(悠久山公園内)。

模擬天守をかたどった建物の史料館である。建物は天守風に建てられているが、長岡城との関係はない。館内展示は、河井継之助・小林虎三郎・杉本鉞子・山本五十六など、近世から近代にかけて長岡の精神文化の礎を築き、日本的、世界的に活躍した郷土出身の先人の業績とその人となりを紹介している。

長岡城。

越後長岡藩の藩庁が置かれていた城。今日のJR長岡駅付近につくられた平城(ひらじろ)で、西に信濃川、北に広大な湖沼の八丁沖(八町沖)に面した梯郭式の城郭であった。

現在の長岡市域は、戦国時代には越後守護代長尾氏(のち上杉氏)の一族古志長尾家が古志郡蔵王の蔵王堂城(現長岡市西蔵王)に拠って治めていた。その古志長尾家の景信が御館の乱により戦死した後は、上杉景勝の直接支配を受けることとなる。

慶長3年(1598年)に上杉氏が陸奥会津に移封すると、かわって越後に入封した堀秀治の弟堀親良が4万石を与えられて蔵王堂城主となるが、親良を継いだ甥の鶴千代が慶長11年(1606年)に早世したため、蔵王藩は2代で断絶した。さらに慶長15年(1610年)、宗家の堀忠俊が家老堀直次・直寄兄弟の内紛を収められなかった罪で除封され、替わって徳川家康の6男松平忠輝が越後に入封すると、蔵王堂城もその属城となった。

1616年(元和2)、越後高田藩主の松平忠輝が大坂の役での不始末を理由に改易されると、越後高田藩の属領となっていた旧蔵王藩領に堀直寄が8万石で入封され、蔵王堂城(長岡市)に入城した。

蔵王堂城はたびたび水害を受けていたことから、直寄はその南にあって信濃川からやや離れた長岡(現長岡駅周辺)に新たな城を築き城下町を移して長岡藩を立藩した。直寄は2年後の1618年(元和4)に越後村上藩に国替えとなり、代わって譜代大名の牧野忠成が6万2000石(のちに7万4000石)で入封して城の建設と城下町の整備を引き継いだ。

堀直寄は長岡城の縄張りを「苧引形兜城(おびきがたかぶとじょう)」と呼び、また長岡城は信濃川と栖吉川が周囲を囲むように自然の外郭を形成し、さらに城の東側の江筋より水を引いて幾重にも堀を巡らしていたために「八文字の浮島城」ともいった。

完成した城は土塁を主体とした城郭で、本丸と二の丸、詰の丸を三の丸が囲むようにつくられ、本丸の角櫓(すみやぐら)の一つに「御三階」とよばれる建物がそびえる城であった。これが長岡城の始まりである。天守はなく、本丸北西の三階櫓を代用としていた。以降、明治維新まで牧野氏が藩主として同城を居城とした。

山本五十六書「常在戦場」。

長岡城が歴史の舞台に登場するのは、1868年(慶応4)の北越戦争(戊辰戦争の中の一つ)である。河井継之助を家老に抜擢した越後長岡藩は奥羽越列藩同盟に加盟したことから新政府軍の攻撃を受け、一度占領された長岡城を奪い返したものの、新発田、新潟が攻略され、新政府軍の増援部隊が到着したことで形勢が変わり、再落城して長岡城はほぼ焼失した。

1874年(明治7)ごろ、長岡城は旧藩主の牧野家の所有となり、城跡は旧藩士らによって遊覧場と呼ばれた公園として整備されたが、1897年(明治30)の北越鉄道(現JR)開通にともない、本丸の東部分が長岡駅となり、さらに第二次世界大戦の空襲と戦災後の復興により、長岡城の遺構はすべて失われてしまった。

中央に長岡駅・長岡城跡。右上が悠久山。

中央に榎峠・朝日山。

長岡城は、西に信濃川があり、南北と東を東山山地に源流がある赤川(現在の柿川)が三方を囲むように流れ、信濃川と合流している。北に広大な沼であった八丁沖を天然の守りにしていた。ただし、守備側は天領であった小千谷との境にある朝日山、榎峠を確保することが必須条件で、攻守ともにこの南方高地を制圧した側が城を手にすると言われていた。

1868年(慶応4)の北越戦争では、朝日山、榎峠が激戦地となった。

松岡譲(ゆずる、1891~1969年)。小説家。現長岡市出身。父親は真宗大谷派の僧侶。旧制長岡中学では、同級生に詩人・フランス文学者となる堀口大學がいた。一高を経て東京帝国大学文学部哲学科に在学中、夏目漱石の門人となる。漱石の長女筆子と1918年4月に結婚四女の半藤末利子(1935年~)は随筆家で、夫は昭和史研究家の半藤一利(先祖は長岡藩士)。第二次大戦中は、父の故郷である長岡市に疎開し、県立長岡高校を卒業。

長岡駅方面への展望。

新潟県 長岡市馬高縄文館④三十稲場式土器 藤橋遺跡