4月17日(金)、新潟地方は午前中は雨との予報だった。そこで、この日に観て回る予定の「福島潟」と豪農の館「市島邸」の順序を逆にして、まずは「市島邸」を訪れた。
車から眺める風景は北海道のそれを彷彿させた。一直線に伸びる長い道路、一面の水田と畑、低い山並みは遠景に退いていた。走ること50分で到着。雨が降り出して来た。日本で二番目の大地主だった市島家。まだ400ヘクタール以上の広さがあった頃の福島潟の東南湖畔に当たる天王地区にその屋敷はあった。
親切な受付嬢の説明と、渡された案内図に従い、私達4人は、広大な建物内と敷地をのんびりと見学した。敷地8000坪、建坪600坪。100メートルに及ぶ渡り廊下がつなぐ母屋と本座敷のほか、茶室や米蔵、書斎などの、県の文化財に指定されている建築物群。この時刻に訪れていた人は私達4人の他は数人のみ。ややうす暗い空間を歩んでいると、別世界に紛れ込んでしまったような感じだった。 市島家の初代治兵衛は、1598(慶長3)年、新発田藩初代藩主の入封に伴い、加賀の大聖寺からやってきたと知って、何故か懐かしい思いに駆られた。僅か3週間前に花見をした場所が東大構内の「大聖寺藩上屋敷」だったからだ。治兵衛に始まり歴代当主は商いの才覚豊かにして、幕末までの280年間に2000町歩を持つ大地主にまで成長。1898(明治31)年の全国多額納税者のトップであったとの記録も資料館には展示されていた。
(写真:表門)
(邸宅内から眺める枝垂れ)
(資料館に展示されていた当家のお雛様) 現在地に残る邸宅は1876(明治9)年に完成。戊辰戦争で全焼した自邸をこの地に立て直したものだそうな。建物の周りの庭園・竹林・梅林・茶寮などを巡って受付に戻ってくると1時間半が経過していた。受付嬢が「市島家は福島潟の干拓や治水にも尽力してきました」と、誇らしげに語っていたのが、印象的だった。正午直前、市島邸を後に福島潟を目指した。
(写真:南山亭の大広間)
(水月庵からの眺め)
(三重塔らしかった) (長い廊下)