もう一度倉賀野宿を訪れたかった。五貫堀を歩き、烏川河岸跡を見たかった。
一人、籠原駅から高崎線を北上し倉賀野駅で下車。スーツケースを預けようと駅員に一時預りの場所を聞くと、「駅構内にも周りにもありません」とのこと。確かに、下車した南口側の駅周辺に店舗は全く見当たらなかった。止む無く、私は中山道沿にあった「倉賀野おもてなし館」まで歩くことにした。(写真:倉賀野の中心街) 1ヶ月ほど前に、3人でここを訪れた際に時刻前に開館して頂いたことを話すと、「思い出してきましたわ」と応えてくれた女性は館長さんだった。五貫堀を歩きたい旨を告げ、荷を預かって頂くことをお願いした。(写真:倉賀野おもてなし館)
五貫堀は長野堰幹線用水路を倉賀野で分水し、この地域の水田を潤した用水路。館の直ぐ脇で中山道と立体交差していた。暗渠化される以前は、水車が設けられ、魚獲りも出来たそうな。「英泉画」に水車が描かれていることから、その水路が五貫堀かと推察した。今は暗渠化されているが、右写真に見るごとく凹形を為していて、かつての川底のその下が暗渠。川底に降り、まずは下流の烏川岸へと向かった。
烏川はこの辺りでは川幅も細く、倉賀野河岸の面影は残されていなかった。江戸時代初期に、幕府から公認され、江戸湊から50里の船路は、上りには塩・茶・干鰯などが、下りには廻米・煙草・板材などが輸送されたそうな。明治17年の鉄道開通で急速に衰えた。碑は建てられていたが、それは「烏川護岸工事完成記念碑」だった。 やや荒涼たる風景を眺めてから踵を返し、堀の上流へと向かった。ところにより石造り両岸を眺めるだけの散策だが、私は充分に満足した。物好きと人は思うかも知れないが・・・。時間の余裕がなく、途中で引き返し、「丁子堂 房右衛門」で“あさドラ”と名付けられたどら焼きと最中を買った。館に戻り、「観光ガイド」について尋ねた。ボランティアガイドさんがいるとのこと。今回は回れなかったが九品寺や倉賀野城跡なども含め、倉賀野散策の案内をお願いしたいと思った。(写真:養報寺)
撮影した写真
(丁子堂 房右衛門)
(五貫堀川の碑)
(中山道に架かる太鼓橋)
(長野堀幹線用水路の図)
(掲示板より。倉賀野河岸跡の碑)