松戸駅はJR常磐線快速では日暮里から4つ目の駅だ。駅着く直前に、行く手右側の車窓から小高い森の深緑が眺められ、戸定邸と書かれた道しるべも見えた。この杜が「戸定が丘」で、戸定邸はこの丘の上にあることが推測出来た。 1883(明治16)年、29歳にして水戸徳川家の家督を甥・篤敬に譲り隠居した昭武は、松戸の字・戸定の高台に普請していた屋敷の完成に伴い1884(明治17)年6月に生母・秋庭(万里小路睦子)を伴い戸定邸に移住した。以降本邸「小梅邸」とここを行き来しながら晩年までを趣味多き人生を過ごすことになる。(庭園側から戸定屋敷を見る)
松戸は水戸街道2番目の宿場。何度かここを通過するうちに、富士山や江戸川が望める、戸定が丘の高台に邸宅を建てることが、いつしか昭武の胸中に刻まれたのだろうか。隠居の身となり、広大な土地に屋敷が建てられ庭が整備された。1890(明治23)年に庭園の整備終えた当時の敷地は7万3千㎡(六義園より僅かに狭い)を超えていたそうな。(坂道の途中に門)
1951(昭和26)年、昭武の次男武定は戸定邸建物とその周囲の土地1万㎡を松戸市に寄贈し、2000(平成18)年に屋敷は明治の姿をそのまま伝える点が高く評価され国指定重要文化財となった。それに先立つ1991(平成3)年、「戸定が丘歴史公園」(2万3千㎡)と「戸定歴史館」が一般公開され今日に至っている。 玄関から入るとまずは屋敷平面図(写真右)が目に入る。来客用・家庭用・職員用と23個もの部屋があることに驚かされる。この日、戸の多くは開け放たれていて、風通しも良く開放感もあった。南側からは緑豊かな庭が眺められた。縁側に腰掛け西側を展望したが残念ながら雲厚く富士は見えず、江戸川も見渡せなかった。
以下は、戸定邸の様子の写真展。甲冑は徳川慶喜用のものを模して製作されたもの。