姥ヶ橋の下7メートルあたりを稲付川が流れていたのではないかと思わせる階段があった。稲荷台から環七を越えて北区側の稲付川暗渠に進むには環七から右写真のような狭い階段を下らなければならない。この高低差は稲付川がこの近辺では切通に造られていた証だと私は思う。(右写真)
しかし、「稲荷台」について書かれたWikipediaには「稲付川は石神井川に注いでいた」との記述もみられる。ここまで私が書いてきた稲付川の流れとは反対方向が述べられている。これは誤りではないかと思うが、この様な説もあることを紹介し、今後更に調べたい。 安政時代の地図を見て、姥ヶ橋付近が面白いことに気がついた。中山道から別れ王子稲荷へと向かう王子道が板橋・十条道と分岐するあたりに姥ヶ橋は架けられ、“朱引”(いわゆる大江戸の範囲)の直ぐ外にあった。その王子道は現在は都道455号線となり北区役所方面へと続き、板橋・十条道は姥ヶ橋以東環七となった。
少し横道に逸れたが、話を暗渠に戻そう。北区に入ると暗渠の幅は狭くなり両側が迫りくるようだ。くねくねと谷底を流れていたかがことがよくわかる。住居表示は左側が北区西が丘で右側が十条。暫く進むと左側は赤羽に変わるが右側は十条。そのまま進むと京浜東北線にぶつかり先には進めない。その先から隅田川までは後日にと考え、この日はここで終了。 実は水野さんに同行した7月13日に、稲付川暗渠を歩く前に赤羽台にある稲付城跡と香取神社を案内してもらっていた。赤羽駅西側直ぐそばにある階段を上ると稲付城跡があった。標高21mの台地に立地する中世の城館跡で、太田道灌築城の可能性もあるそうな。(写真:稲付城跡へ上る階段。下は城跡にある静勝寺山門)
ここから台地上を南に進むと香取神社。境内からの見晴らしが良い。水野さんはここから南方を眺め、窪地になっていることから川が流れていたのではと推測し、それが稲付川探索に繋がったとのこと。(写真:香取神社付近からの眺め)
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