1986年(昭和61年)12月28日、強風のため、余部鉄橋から山陰線客車7両が転落し、12名もの死傷者を出すという未曽有の事故が起こった。もう27年前のことだが、しっかりと記憶に刻まれた痛ましい出来事だった。
一方、この兵庫県の日本海沿いの余部の谷に架かる余部鉄橋は、地上から41、5メートルの高さにあり、全長が309メートル、その雄姿に魅了される鉄道ファン憧れの的でもあった。
昨年、高校時代からの友人瀧川さんから、京都府の、日本海に面した「伊根の舟屋」を観に行かないかと誘われ、すぐその気になった私は、伊根に行くなら、そこから近そうな、撤去されたとはいえ旧橋の一部が残る余部の鉄橋を見て、新橋を列車で渡りたいとも思った。そんなことを何人かに語ったのだろう、「源氏物語を楽しむ会」のTさんから。この本と『二条の后』(著:杉本苑子)の2冊が送られてきた。有難いことである。早速『余部鉄橋物語』の方から読み始めた。
旧橋が造られたのは明治45年。2010年(平成22年)7月16日24時、下り特急「はまかぜ」が最後にこの陸橋を通過し、トレッスル橋は98年7ヶ月のいのちの大往生を遂げたのであった。本書はその誕生から終焉までの一生を辿る。
明治40年代に京都⇔香住間と、浜坂⇔出雲今市間には鉄道が開業していたが、香住・浜坂間には鉄道は引かれていない。幾重にも山が連なり、断崖絶壁の海岸線が迫り、谷が深いのだ。その谷間に余部はある。余部鉄橋完成で山陰線320キロは漸く全線が繋がった。
建設模様の記述に迫力がある。2万本の丸太で、45メートルの高さの足場を組む。その上で、アメリカで製作された鋼材の橋脚をリベット打ちで一度に組み上げる。完成時村びとたちは「おらたちの力で鉄橋ができた」と泣いて喜んだそうな。
著者は、事故の第一発見者で、国鉄で長年保線マンとして働き続けてきた山西岸夫(大正11年生まれ)にインタビューを試み、彼を物語のキーパーソンとして、本書の随所に陸橋の「むかし話」を散りばめた。現場で働いてきた人の目線で物語が語られるとき、物語は私により親しいものとなった。駅なきころから現在までの余部村民の暮らしをも描いて、この物語に奥行を与え、懐かしい日本のふるさとを浮かび上がらせた。
新橋は旧橋とは7m離れた位置に完成。2010年(平成22年)8月12日の始発列車から運行開始。
残念ながら旧橋を見ることはなかった。伊根への旅行計画は瀧川さんと練っている最中で、伊根の宿の予約だけを済ませた段階だが、多分余部へ行く事になるだろう。残された3本の橋脚を仰ぎ見たい。
(付記:橋名は余部鉄橋で、駅名は余部駅が既に他にあるため餘部駅)
以下は本文の添えられていた写真から。
(”天空を駆ける”とある) (”朱色の橋脚に雪が吹き付ける”とある)
(”未明の光跡”とある)
(厳冬の余部陸橋)