マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

「文京鍬の会」創立30周年

2016年10月20日 | 身辺雑記

 山形県赤湯温泉から帰宅した。ブログの流れとしては中央構造線や大鹿歌舞伎などの順だったが、昨日の今日。時間的により近い「鍬の会」について書き連ねる。
 
昨日、赤湯温泉「御殿守」(ごてんもり)で「文京鍬の会創立30周年記念行事」が開催された。集いし人は「鍬の会」が6人、「こだま舎」が3人、髙畠の生産者が4人の合計13名。

 
   (直江兼続の使用した鎧兜が展示されていた)

 「文京鍬の会」は30年前の19862月に、文京区に縁のある、創立メンバー数名によって結成された。“無農薬のお米を食べましょう”が主な目的。私たちは、その創立メンバーのおひとりの、向丘高校同僚の田中さんに誘われて1988年あたりに入会した。その田中さんの友人の桝潟俊子さんも設立メンバーで、『有機農業運動とのネットワーク』などの著作があり、その実践の一環でもあった。

 昨日の朝106分発の「つばさ133号」は12時21分に赤湯駅到着のところ、50分遅れでの運行。そこでその前の「つばさ129号」に乗車し、12時15分頃目的地に到着。JR赤湯駅から徒歩25分ほどで宿到着。

 記念行事は1330分から、”事務局長”大山さんの司会で開始された。まずは会長関さんの挨拶。二人とも創立以来メンバーだ。続いて自己紹介。その後この30年の、懐かしい写真が大きな画面に映し出された。私の記憶に強く残っている“収穫感謝祭”の写真もあった。品川の「国民生活センター」で行われた感謝祭には100名以上の方々が参加し、髙畠からの御馳走やワインを頂いた。生産者グループの中心的リーダーだった片平潤一さんもその妻のいち子さんも、弟の舟山さんも今はいない。(挨拶する生産者鈴木さん)

 
   (片山潤一さんのお父さんは93歳)

 無農薬米や有機農業の野菜を食そうというのが会設立の目的だが、生産者側の農作業は大変さが増すことになる。そこで会は設立当初から援農に出かていた。目的地は山形県髙畠。その頃の生産者側の中心が片平さんご夫妻。農薬を使用しない農法は手間が掛かる。無農薬農法は農民にとって有難くない方法で、農薬を空中散布するほうが楽なのである。だから、農薬空中散布に反対し、有機農業を提唱する片平さんは多くの敵を作ることなったが、信念を曲げず有機農法を貫き通した。その片平さんは妻いち子さんに先立たれ、彼もその後を追うように亡くなった。その後を継いだ弟さんの舟山さんも亡くなり、現在は鈴木久二郎さんが後を継いでいる。昨日はその鈴木さんご夫妻とリンゴを栽培していた渡辺さんが記念行事に参加。「こだま舎」も同じ目的の会で、共同して援農することが何度もあった。その縁での”友情出演”となっていた。(映写写真より:援農時に収穫された米)

  
      (映写写真より:援農風景)             (映写写真より:収穫感謝祭で)

 私も高畠へは4・5回は訪れ、田圃に入り田植えをしたこともあったが、勤務が忙しい時期と重なり、熱心な援農は出来なかった。ただ髙畠から送ってもらう大豆と麹での味噌作りは25年以上続いていて、その味噌を食した友人・知人も味噌作りを始めることとなり、大豆や麹を髙畠から購入し始めた。「鍬の会」に加入を呼びかけると例外なく会員に加わってくれた。私達は会員を増やす点では些か貢献が出来たかも知れない。

 夕食前に温泉に浸かった。露天が4つもある素晴らしい温泉だった。
 18時から懇親会が始まった。片平潤一さんのお父さんも姿を見せ宴会にも参加。大正12年生まれの93歳のおじいちゃんは頗る元気で、詩吟を謡った。潤一さんの息子で「smoku house fine」の社長も姿を見せた。思えば13年前、潤一さんと息子は二人して”美味しいのはどっちのスモークだ”の様なテレビ番組に登場したことがあった。今やその息子さんの会社は「国際食肉コンテスト」金・銀・銅を毎年受賞するまでに成長。その場に潤一さん夫妻は居ないが、元気なおじいちゃんと成功を収めた息子はいるという運命の皮肉。この「御殿守」での2日間、私には走馬灯のように、28年という歳月が駆け巡っていった。(写真:御殿守HPより)

 


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