マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『六義園と和歌浦』

2010年02月16日 | 身辺雑記

       (六義園正門)
 昨日(2月14日)、『六義園と和歌浦』と題し、「柳沢吉保が六義園に和歌浦をなぜ写したか」とのサブタイトルのもと、「和歌山市立博物館長 寺西貞弘」さんの講演が、六義園内「心泉亭」で開催されました。寺西さんは、わざわざ和歌山市からのお越し。



   

    

                                                          (右は泉亭への案内板)  

 この講演がある事は「街角掲示板」で知りました。参加可能者は20名、場所は六義園内の茶室「心泉亭」で費用は無料。是非参加したいと、看板を見て即、妻ともども六義園に出掛け申し込みをすると、既に15名ほどの参加希望者の一覧表があり、滑り込みセーフで参加許可書を頂きました。ラッキーでした。
            
     




        (心泉亭を外から望む)
 この「心泉亭」、かつてミニクラス会で利用した事があります。この5月22日(土)には妻が、会食した後『源氏物語』のお話をする予定で借りてもいます。この和室内から六義園の池が見渡せ、実に日本的情緒を堪能できるお部屋で、6ヵ月前から、どなたでも予約可能です。ただし禁酒です。15時少し前に入室すると既に10名ほどの方の姿が。

                                                           


                                                                           
 

 講演は3時丁度に度始まりました。既に資料は用意されていますが、パソコンソフト「Power Point」をプロジェクターに繋いで、視覚的にも分かりやすく工夫された”お授業”です。実に洒脱な先生で、脱線話も多く、やや難しい話も聞いていて飽きません。
(右は茶室からも望める池)
 



 突然に、このブログをお読みの方へ質問ですが「もしこの1年間に、日本のどこかへ旅行して良いと言われたら、あなたは何処を選びますか」。漠然とした質問なのでいろいろな答え考えられます。箱根へ行きたい・九州の黒川温泉が良い・中島みゆきの
公演を聴きに行きたい・沖縄に行ってみたい等々色々な答えが予想されます。
 一方、平安時代の貴族達にとって、行きたい場所で一番人気であったのが「和歌浦」だったそうです。温暖な浦で、和歌に詠まれている事も影響があった事でしょうし、何よりも奈良・平安の時代、天皇の行幸が3回もあった権威ある場所が「和歌浦」。その人気の和歌浦、貴族たちにとって、天皇行幸のお伴をする以外見学の機会がやってきません。行けなければ行けないほど「行きたい」と思うのが人の常で、口実を作っては行ったそうです。
 
 話は飛んで秀吉の時代、紀州に攻め入った秀吉は和歌浦に滞在する事 により和歌浦を良く知っている公家達を安心させます。(彼らは秀吉と緊張関係にある家康と結んで、不穏な行動をしかねなかったそうです)
 
 更に話は更に飛んで江戸時代、将軍綱吉の頃、綱吉から絶対の信頼を勝ち得た吉保は、元禄15年、ここ六義園を完成させます。とまで話が進んだところで、既に16時30分、予定の時刻が到来してしまいました。なぜ吉保が
六義園内に「和歌浦」を作ったかは、講演の最初、吉保が六義園造成の知恵袋とした北村季吟の進言と説明していました。和歌浦にある和歌の神様「玉津嶋神社」の、大阪での神主でもあった学者です。おそらく権力を握った吉保が、文化的権威をもつけるため、「和歌浦」を作った、これが私の推測です。

 司会に登場した方の名札を見て「アッ!」と思いました。クラスメイトBさんから話を聞いていた「中山さん」でした。Bさんの友人の娘さんで、六義園勤務の所長さん。ご挨拶をしますと、即座に私の名をあげ「六義園をブログに登場させて頂きありがとうございます」と。司会の様子からも窺えましたが、大変感じの良いお方、5月に妻がここを借りる事までご存知でした。

 帰宅を急がず、咲き出した梅の香りを楽しんで六義園を後にしました。

         (冬枯れの六義)

   
       (梅は3分ほど)









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