マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

一葉ゆかりの地を歩く(その2)

2020年07月05日 | 東京散歩

 2月28日(金曜日)から臨時休館していた「一葉記念館」が6月26日(金)、約4ヶ月振りに再開した。開館時間は9時で、この時間帯ならば都バス利用がベストと考え<草63>浅草寿町行に乗車し、竜泉で下車。そこから徒歩7分ほどに記念館はあった。浅草方面へ行くときに頻繁に利用するこのバスの途中駅が記念館に近いとは知らなかった。

 三島神社から𠮷原方面へと続く長い道は「茶屋町通り」と呼ばれ、一葉の住いはこの道沿いにあった。今では右写真のように碑が建てられているのみだ。その碑の場所は一葉宅隣の酒屋で、そこから東へ6mの場所に一葉宅はあったと碑には書かれていた。 
 そこを通過し左折すると直ぐに一葉記念館はあった。アルコール消毒・検温・名簿記入の上で入館。
 館内には一葉の父母から一葉終焉に至るまでの年代記と一葉の胸像や更には一家が住んでいた当時の住居の絵も展示されていた。
 
 本郷菊坂町から、母と妹のくにと3人で下谷竜泉寺町368番地へ移って来たのは明治26年7月20日のことだった。菊坂町での生活はますます逼塞し金銭的に苦しくなり、借金をして、この地で荒物駄菓子屋を始めたのだった。写真は明治百年を記念した制作された絵の「雪晴れの朝」で、“あらもの だがし”と書かれた店が一葉家で左隣りが伊勢屋酒店、右隣りが人力車の車宿だった。



 台東区立一葉記念館の由来にはこう書かれている。
 《・・・龍泉寺町での生活はわずか10ヶ月足らずで終わりを告げるが、この短い期間の商いを通じてさまざまな人と接することで、社会の現実を直視し、作家として必要な鋭い洞察力を身に付け、『たけくらべ』という名作の構想を得るきっかけとなったと伝えられている。》と。  
 ここでの商いも上手くいかず、明治27年5月1日、一葉一家は本郷福山丸山町4番地に転居した。守喜と呼ばれる鰻屋の離れで、今は白山道路に面した一角に居を構え、ここで『たけくらべ』・『にごりえ』・『十三夜』・『ゆく雲』など珠玉の名作を書き上げた。「奇跡の14ヶ月」と呼ばれる時期だ。ただ結核を病んでいた一葉は明治29年11月23日、流星の如く24歳の若さで世を去った。

 
 記念館を後に𠮷原に向った。交番で「お歯黒溝」の場所を聞いたがお巡りさんは「ど忘れした」との返事。当てもなく彷徨って後、𠮷原公園への階段がその名残かと写真を撮った。帰宅して朝日新聞記事を見ると偶然にも同じ写真だった。




 

 7月3日(金)早朝、一葉終焉の地を訪れた。文京区西方1-17-8には右写真の「一葉 樋口夏子碑」が建てられいた。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。