マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

徳川昭武が暮らした戸定邸へ(その1)

2021年07月23日 | 歴史

 今回は徳川慶喜の弟昭武が建設し、晩年を過ごした戸定邸(国指定重要文化財)と戸定歴史館を訪れることになった切っ掛けから話を始めよう。
 文高連・教養部の今年度の企画は、“いくつになっても学びたい”を標語にした教養講座。幅広く、歴史や健康法・文化などを学ぼうというもので、そのなかのひとつに、文京区に縁のある歴史講座が用意されていて、内容は以下の通り。(右表参照)
 ①「徳川慶喜、生誕と終焉の地 ぶんきょう」
 ④「小石川から関口台地の南斜面 江戸、明治の輝ける記憶」
 ⑤未定


 この歴史講座の特徴は講義を終えた数日後の散策にあった。講義に登場した場所何ヵ所を繋いで散策しようとするもので、そのコース選定と道先案内に協力してもらえないかと、活動室から私に声が掛かり快諾をしたのだった。
 ①で、徳川慶喜の生誕の地は、現在は小石川後楽園となっている水戸藩上屋敷で、終焉の地には現在、国際仏教大学大学院(以下 仏教大学)が建てられている。その2ヵ所に加え、徳川家の菩提寺だった伝通院を集合・スタート地点とし、コースを伝通院→仏教大学→小石川後楽園と決め、そのコースに沿っての実踏が6月10日で、本番が講義2日後の6月24日だった。(伝通院本堂)
 散策参加者は全部で9名。伝通院には9時半に集合。ここでは、教養部の古橋さんから、家康の母於大の方と秀頼の妻だった千姫について解説。私は清河八郎の墓前で、彼の概略について説明した。実は伝通院の塔頭の一つ処静院(しょじょういん)で清河八郎を中心に浪士組結成の会合がもたれ、最終的には150名ほどが参加し京都へ。その中に後に新選組を結成する近藤勇・土方歳三などもいた・・・などと語った。
 この日の圧巻は次の仏教大学だった。普通学内には入れないが、活動室のスタッフが事前に許可をもらっておいたので入構することできた。
 古橋さんから慶喜も見たであろう大きな銀杏の木のもと、仏教大学は慶喜が晩年を過ごした地で、建物は既に取り壊され、往事を偲ぶ写真が残されているのみとの説明があった。私は慶喜の弟の徳川昭武について説明した。(写真:慶喜公屋敷大銀杏)







 慶喜は水戸斉昭の第七男で、昭武は第十八男。慶喜から16歳も年下の異母弟だが、テレビには初登場との東京新聞の切り抜き記事をA3に拡大したものをお見せしながらの説明。(右写真)
 偶然にも、6月21日の東京新聞では徳川昭武が紹介されていた。6月13日に放映された『青天を衝け』18話「一橋の懐」に、天狗党討伐に向かう慶喜の一武将として騎馬姿で登場していた(その当時13歳で幼名は昭徳 配役は板垣李光人)。彼は1867年に開催されたパリ万博に慶喜の名代として派遣され、渋沢篤太夫(後の栄一)はその昭武に随行した。当然その後ドラマに何回か昭武は登場することになるが、以前の大河ドラマ『徳川慶喜』には登場しなかった。昭武は松戸市に「戸定邸」を建設し、晩年はそこで過ごしたので、昭武の初登場に松戸市は沸き立っているとうい内容の記事だった。皆さんに紹介しながら私が一番そこへ行きたかったのかも知れかった。
 松戸にある戸定邸は明治期に造られ、現存する唯一の徳川屋敷、とも知り、7月21日(水)松戸へと足を運んだのであった。 
 
 


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