マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

「江戸上水基礎講座(その3 玉川上水 1)」を受講

2019年08月21日 | 学び舎

 8月17日(土)、「江戸上水基礎講座その3 玉川上水」を受講してきた。会場の「東京都水道歴史館」へは開講1時間前の13時に到着。前回、開講直前に到着した為、席が最後列という失敗から学んだ積りで、今回は最前列で見易く聴きやすかった。今回の参加者は150名近かったと思う。1つの机に3名が並ぶ席が出るほどの盛況。このテーマへの関心の高さが分かる。
 「玉川上水」についてはある程度のことは知っている積りで、このブログにも書いたと思うが、今回受講した事柄を改めてまとめておきたい。

 〇玉川上水とは
 玉川上水は、江戸時代前期の承応3年(1654)に完成し、明治34年(1901)まで機能した、江戸二大上水のひとつ。創設にあたっては、町人玉川庄右衛門・清右衛門がその実務に当たった。その経路は、多摩川羽村堰から取水して開渠で武蔵野台地上を走り、四谷大木戸に達する。そこからは暗渠となった。
 
 〇玉川上水の誕生
 成立年代のはっきりしない神田上水に対して、玉川上水はその造られた年代については、『公儀日記』に記されているように、完成は承応3年(1654)の6月。この時点で江戸城東側と丸の内方面への取り入れ口である虎ノ門まで水路が完成したものと考えられる。開渠の、羽村から四谷大木戸部分(43Km)については8ヶ月という短期間で完成した。
 
 〇玉川上水の給水範囲
 少なくとも寛永期(1630~40年代)に完成した神田上水が江戸の北東部に給水したのに対して、玉川上水は江戸の南西部に給水された。


 〇玉川上水誕生に関する逸話
 『公儀日記』には、玉川兄弟に対して7,500両が渡されたとあるに対して、資料「玉川庄右衛門・清右衛門書上」には6,000両と記され、齟齬が見られる。
 他の資料には取水口の変更や「水喰土」(みずくらいど)についての記述も見られる。

 「水喰土」については『玉川兄弟』(著:杉本苑子)で大変面白く読んだ記憶がある。上水道が完成したと思い、水を流したところ、ある地点まで来た水がそこで消えてしまった(=吸い取られるように地下へ潜ってしまつた)。工事のやり直しである。これらの記述は内容を吟味する必要があるとも、学芸員の金子氏は語っていた。が、水道歴史館内では、水喰土の話は実際にあったかのような映像が流れている。
 学芸員金子氏の話はテンポが良く、声も大きく、分かり易い。

 今日の一葉。富士神社付近に咲く白い蓮の花
 
 

 
 
 


長岡名物「洋風カツ丼」

2019年08月19日 | 

 実は長岡を訪れるのは今夏が初めてではなかった。1975(昭和50)年だったと思うのだが、妻と二人、2時間くらい長岡に滞在し、名前を思い出せないのだが、お洒落なレストランで食事をしたことがあった。
 その年、私は福島県の、只見線沿線の塩沢にある学生村でひと夏の半分くらいを過ごし、妻は、勤務校の夏季合宿の引率で新潟県のとある処(何処だか思い出せないらしい)に滞在していた。
そこで帰路長岡で落ち合うことにした。
 その日まで二人は学生村・合宿所と、いずれも比較的質素な食事環境にあった。そこで肉の料理を食したくなり、長岡では肉料理を求めてレストランへ入ったという次第。その肉料理が実に美味しかった。
 今回の長岡行に際し、ネットで長岡の名物料理を調べたら“洋風カツ丼”があげられ、それがB級グルメ的名物になっていることを知った。私の40数年前の、微かな記憶とオバーラップし、長岡は肉料理と一人悟り、事前に「レストランナカタ」と決めていた。












 お店は2階にあり、2階へと通じる狭い階段には長い列が出来ていた。室外の温度は30度をはるかに超えていたと思う。しかし待つほかない。40分は待っただろう。漸く入店して店内を見渡すと、東京では「洋食屋」といった風情のお店で居心地感が良い。メニューを見て、“洋風”の意味するところを知った。普通丼物はどんぶりに入れられて出て来るが、洋風カツ丼では皿にご飯が盛られ、その上にトンカツが乗せられているのだ。私は「ハーフ&ハーフ」のコース(1360円)を注文した。




 まずはスープ。続いて上の写真のように2種類のソース(デミグラスとケチャップ)が掛けられ洋風カツ丼。最後にコーヒー。ソースは濃厚で、揚げたてのカツがさくさくしていて実に美味しかった。ご飯もしっかり食べて腹ごしらえ終了。15時過ぎ、一路花火会場を目指したのだった。
 


馬高縄文館ー火焔土器ミュージアムーへ

2019年08月17日 | 考古学

 長岡花火への「びゅう」商品は往きの新幹線だけ自由に選べた。そこで、8月3日は出来るだけ早く長岡に到着し、市内を見学しようと考え、上野発7時56分の新幹線に乗車した。ネットで調べた結果、火焔土器が展示されている「馬高(うまたか)縄文館」と、郷土料理の洋風カツ丼の有名店「レストランナカタ」を訪れることに決めた。
 知らない土地を訪れたとき、まずは観光案内所に行き、地図など頂く。今回もそうだった。「馬高縄文館」方面行のバスは出たばかりで、「新潟県立博物館
」行のバスを紹介された。終点から徒歩15分で「馬高縄文館」へ着くとのこと。(写真:馬高縄文館)





 「火焔土器」は1936(昭和11)年、近藤篤三郎によって、馬高・三十稲場(さんじゅういなば)遺跡から発掘された。馬高縄文館にはその遺跡に関する資料が保存・展示されていた。
 《馬高・三十稲場遺跡は、信濃川左岸の段丘上にある縄文時代の大規模な集落跡。信濃川に注ぐ「遠藤沢」と呼ばれる小さな沢を挟んで、東側に中期(約5,500年前)の馬高遺跡、西側に後期(約4,500年前)の三十稲場遺跡が位置します。「火炎土器」発見の地として著名であり、1979(昭和54)年には両遺跡の45,000㎡は国史跡に指定されました》と記されている。5,500年前から4,500年前の約1,000年間に縄文人の住居は何故か東から西へと移動していた。そこは謎らしい。

 入館すると直ぐ目にするのが火焔土器。(右写真)燃え上がる焔を思わせるような形の深鉢形土器。この土器の発見より60年ほど後に、十日町笹山遺跡(信濃川右岸)で発見された火焔型土器が国宝に指定されているのに対し、最初に発見された火焔土器が重要文化財なのは何故か?因みに、火焔型土器を含め、笹山遺跡からの出土品は1999(平成11)年6月7日、国宝に指定された。新潟県にとって初の国宝誕生で、縄文土器では国内初の国宝だそうな。

 《火炎土器とは、1936年に発見された一個の土器に対して名付けられた愛称(ニックネイム)で、それ以外の類似した土器には「火焔型土器
」「王冠型土器」と呼んで区別している》とも書かれている。
 その火焔型土器と王冠型土器が多数展示され、じっくり見学した。私達の祖先の縄文人が5,000年ほど前に、
この様な精巧な土器を制作していたことに驚かされる。




 縄文館には目玉がもうひとつあった。重文指定の“ミス馬高”と名付けられた土偶。この館は撮影が自由なのでバッチリ撮影させてもらったが、ミス馬高は実に小さい。ミニチャーかと思い係員に聞くと「本物です」。微笑んでいるに見える、可愛らしい土偶だった。(写真:ミス馬高)
 バスで長岡駅には13時過ぎに戻って来た。


(以下は縄文館を出ての撮影)

 

 


酒田漁港・藤沢周平記念館を経て裏磐梯へ

2019年08月15日 | 山旅

 今回の山行、計画した鳥海山登山は不首尾に終わったが、特に計画はしていなかった俄か観光は楽しく終わった。
 8月9日(金)10時頃、湯の台口駐車場を後に酒田漁港に向った。8年前、JR東日本が「新青森開業記念」として4日間連続で利用出来る特別切符を発売した際、弘前など北東北を旅し、酒田も訪れていた。その折に酒田漁港での昼食が安くて、魚は新鮮で実に美味しかったことを覚えていた。
 さかた海鮮市場2Fにあるお店は「海鮮どんやとびしま」という名前だった。11時開店なのだが、11時少し過ぎた時間帯には既に長い待ち行列が出来ていた。並んで待つ間に遠目にも見えるメニューから、4人とも「舟盛膳」(1000円。下の写真)にしようと決めていた。

 




 しかし、私達が注文する前に品切れとなり、作戦変更で、1000円の「刺身定食」3名と「とびしま膳」1名に。更に岩ガキを加えるもの2名。東京ならば2000円はすると思われる定食に舌鼓をうった。新鮮な刺身10点盛り。実に実に美味しかった。ここ酒田港から飛島へのは定期船「とびしま」が運航されている。(写真:刺身定食のうちの刺身)


 酒田から鶴岡に向い、鶴岡公園内の「藤沢周平記念館」へ。私は2度目の入館だが、掲示されているものを初めてのように熟読した。周平の心に生き続けたで間にあろう鶴岡・庄内の原風景の写真がいい。藤沢作品の全てが展示されている。大泉学園での書斎も展示されていた。藤沢ファンは多い。若菜さんはここを訪れたかったと言っていた。菅原さんは周平作品の全てを単行本で持っていて、しかもそれが全部が初版本とのことだった。(写真:記念館入口)










 特別展示は『又蔵の火』。これは、故郷・鶴岡の史実「土屋丑蔵・虎松の仇討」を作品化した仇討ものだそうで、本人は直木賞を受賞作品『暗殺の年輪』よりもこちらの作品のほうを評価していたそうな。ともあれ藤沢作品のうちでも初期のもの。(写真:文春文庫)













 この日の宿泊先は「東急ハーヴェストクラブ 裏磐梯グランデコ」。夕食は部屋食と決めていたから、鶴岡で食料等を調達しておきたかった。記念館のスタッフに聞くと、「主婦の店 イーネ」を紹介された。食料や御酒などを購入し、一路裏磐梯へ。
 リニューアルされた露天風呂(右写真)で寛いだ後は夕食。皆よく食べ、よく飲み、よく喋った。朝はバイキング。10時過ぎにスターし、14時には駒込着。この旅行での走行距離は1200Km近いと思われる。全区間を一人で運転してくれた草野さんには感謝!感謝!
 帰宅後に貰ったメールには皆楽しかったと記され、嬉しかった。終わり良ければ全て良し、か。

 


鳥海山登山、途中撤退

2019年08月13日 | 山旅

 鳥海山(標高2236)登山は八丁坂の途中で撤退となり、頂上を踏むこと無く帰って来た。今日のブログはそれに至るまでの顛末。
 8月8日、草野さん運転の車は、菅原さん・若菜さん・私の3人を乗せて、6時前巣鴨をスタートした。東北道・東北中央道・山形道などを経由して、14時前には「湯の台口コース」登山口駐車場に到着した。この間の走行距離は500Kmを超えていた。
 昼食は酒田市内観音寺にある「花の家食堂」でとった。私の記憶にはないが、昼食に相応しいお店を妻と二人でネット検索した結果だったらしい。観音寺という町の住宅街にぽっんと一軒だけある食堂で、注文したものが出てくるまで不安だったが、現れた定食を見て一安心。690円にしては上出来の定食。刺身や焼き魚が新鮮で、山仲間の評価も◎。(写真:概観は平凡な食堂)




 駐車場から25分で「滝ノ小屋」に到着。ここは山形県遊佐(ゆざ)町々立の山小屋で、管理人は常駐していないが、宿泊客のある場合のみ下から上がって来る。私達は15時前に山小屋に着いたのだが管理人はいなかった。確かこの日の宿泊をお願いしていたのだが、何かの手違いがあり管理人は小屋まで上がって来ないかも知れないと不安になり、遊佐町に連絡を取ろうとしたが、私のスマホ(Y!mobile)では通じなかった。菅原さんのガラ軽はdocomoで、これは通じた。町も管理人も私達の来ることは先刻承知で、16時過ぎに管理人到着。(写真:鳥海山はこの日はよく見渡せた)
 宿泊客は私達4名のみで、夕食は管理人も含めての宴会になった。彼は山小屋管理を任されているが、里では“だだちゃ豆”の栽培をしていて、それが食卓に上った。だだちゃ豆は庄内地方の特産品で、枝豆の一種らしく、甘味が感じら、これを肴に呑むビールは美味しかった。

 翌9日早朝、小屋から外を見ると、濃い霧が出ていたが、雨は降っていなかった。天気予報は確認しないで、管理人の「間もなく晴れますよ」を信じて、5時半には小屋を後に山頂を目指し、強風吹くなかを出発した。
 しかし、大きな雪渓を左に巻いて急坂を上り始める頃から私の調子は絶不調になってきた。原因はよく分からないが、初めての経験だった。肋骨を痛めた時のトラウマか、今までなら気にもせずに岩から岩へと足を運んだのだが、その日は怖かった。老齢から来る脚力の衰えかも知れない。途轍もなく脚が重かった。真の原因は不明。
 八丁坂3合目で待っていた山仲間に、私は「山頂までは無理かも知れない」と話した。途中で腹を強打した仲間がもう一人いて、「二人は降りるから二人だけで登って来て」とも言った。丁度その時だった。強風に加え激しい雨が降ってきた。全員撤去しようの声が上がった。誰も反対しなかった。下山途中、雷の音もしてきた。雷が近づいて来るようにも聞こえてきた。(写真:写真を撮る余裕は殆ど無かったが・・・)
 帰路、簡単に渡れた小川は増水していて激流となり、渡りが難しくなっていた。そこを渡るときに私は足を踏み外し腰から下を水に浸かってしまった。散々な結果の山行となってしまった。晴れていれば見られただろうお花畑をほんの少々垣間見ただけで鳥海山登山は終わった。