2015.4.10 長崎・浦上天主堂(1925年建立、原爆投下によりほぼ全壊、1959年に再建) 自転車旅にて
広島、長崎にアメリカから原爆が投下されて78年が経った。
爆弾の種類が違って、あれは人体実験だったと今も思う。
今日9日は長崎の「原爆の日」。
台風6号の接近で式典は屋内で大幅に縮小されて行われることになり、被爆者は参列出来ないという。
2015年の九州自転車旅で、長崎長崎平和公園から1Kmほどの爆心地を訪ねたことがあった。
生まれる4年前の1945年(昭和20年)8月9日11:02に米軍のB29から投下された原爆が松山町171番地の上空約500mで炸裂し、その直下に「原子爆弾落下中心地碑」が建てられている。
その時、空気の温度は3,000~4,000度に達し、猛烈な風が吹いたという。
「原子爆弾落下中心地碑」は、戦後1948年頃に〝原子野〟と呼ばれた焼け野原に木製で建てられ、1956年に御影石に張り替えられたとの説明版があった。
辺りは会社とその寮が多かったようで、道路沿いには会社と犠牲者の名前が刻まれた慰霊碑が幾つも建ち並んでいる。
勤務していて一瞬に命を失っただろう。
爆心地碑の近くに母子像があった。
女性、子供、老人といった弱者が多く犠牲になったことの鎮魂である。
平和公園の有名な平和祈念像とはまた違った二度とこのような愚かな過ちを繰り返してはならないという切実な訴えが伝わってきた。
同時に、小学生の頃に学校で広島、長崎の原爆資料館に陳列されている写真を絵はがきにしたものが配布され、その時に原子爆弾という恐ろしいものが目に飛び込んできたことを思い出していた。
人の影が閃光によってそのまま石段に刻み込まれた写真は原爆の恐ろしさを子供の心に刻み込んだように思う。
その後、大学の時に埼玉県東松山市にある丸木夫妻の美術館で「原爆の図」を観たことがあった。
今朝の新聞には過去最大の防衛費予算の要求見通しと麻生副総理が訪台して〝台湾事変〟が起きたら一緒に闘うとのアメリカの代弁を行っていることが載っている。
台風の影響で岸田首相も祈念式典に出席しない。
戦争も核兵器も許してはならないという気持ちを新たにする。