楕円と円 By I.SATO

人生も自転車も下りが最高!
気の向くままに日常と趣味の自転車旅を綴ります。

冒険者の深い思索

2025年01月22日 | 円 -bicycle-

荻田康永 HPより

冒険家の植村直巳氏は「冒険とは何ですか」と問われて、「帰ってくることです」と答えたという。1999年の2月にアラスカのデナリ(マッキンリー6,190 m)で帰らぬ人となり、それからずっとこの言葉の意味を考えている。

趣味の自転車旅にもリスクがあるので「無事帰る」ことをまず第一に考える。
交通事故に合わないか、旅先で体調不良にならないか、知らない道を日程通り走ることが出来るか、などなど。
特に言葉の通じなさそうな台湾旅の時は準備の時から心臓がばくばくした。

準備しながら不安は尽きないからさらに準備する。
「ただいま」と家に帰る度に植村直巳氏の言葉を噛みしめて来た。


最近、北極冒険家の荻田康永氏の『君は何故北極を歩かないのか』(わたしの旅ブックス2024年11月)を読んだ。
アメリカのユダヤ系詩人、ポール・ツヴァイクの著書『冒険の文学』から次の一節が引用されている。

〜冒険者は、自らの人性の中で鳴り響く魔人的な呼びかけに応えて、城壁をめぐらした都市から逃げ出すのだが、最後には、語る物語をひっさげて帰ってくる。社会からの彼の脱出は、きわめて社会化作用の強い行為なのである。〜

これを読んだ時、仏教の事は何も知らないが親鸞の「正定の位」に通じる概念ではないかと思った。
「正定の位」は本当の成仏ではないが、阿弥陀如来によって救われることを確信する状態を指す言葉で、そこでは物事の見方が変わり、そこから現世に帰って施す慈悲が本当の慈悲だと説いている。


20年間に18回の北極行をし、日本人で初めて徒歩単独無補給で南極点にも到達している荻田氏は、ツバイクの言葉を受けて、

〜城壁の外で荒野の声を聞き、語ることのできる物語としてそれを社会に伝えた時、人々に新たな視座を与え、初めて社会的な意味を帯びることとなる。
人間の常識が支配する社会に対して、社会の外で動いている別の常識を伝えることが冒険者たちの一つの役割だ。城壁に守られた都市生活者は、城壁外の「非常識」を忘れて行く。〜
と『君たちは・・・』で書いている。哲学的である。


自分の自転車旅は「自転車という乗り物で住んでいるところから少し遠くに行ってみたい」という子供心を持ち続けたいという全くの個人的な動機で始めた。世の中に還す物語は何も無いが、哲学的な『君は・・・』に出会って、植村直巳氏の言葉に深い思索が宿っていることを知った。

〝君〟は荻田氏と北極圏600Kmを歩いたいわば冒険とは無縁の12人の若者たちだけではなく、今の世の中に生きる者全てへの問いかけのように思う。



荻田康永さんが店主の「冒険研究所書店」(神奈川県大和市)
12月に訪ねたがあいにく不在。
その後、内装が山小屋風に変った。