季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

日本代表 続き

2008年04月11日 | スポーツ


仕切り直して続きを書く。

昔、野球の名監督に三原脩という人がいた。この人は、野球の技術に関してははなはだ頼りなかったそうだが、人心掌握術に関しては卓越していた。

この人は、そういった人の常として、いくつも名言を残しているから、ひとつ紹介したい。

曰く、アマチュアは和して勝ち、プロは勝って和す。

この言葉をまずマスコミでスポーツを担当している人に噛みしめてもらいたいものだ。実際、三原監督ノチームでは、いわゆる仲良しグループなど、なかったそうである。それどころか、そりの合わない選手同士は口も利かなかったという。

しかし、いざ試合になると、自分が発見した相手の弱点を耳打ちしたり、アドヴァイスを送りあったりした。それはすべて、三原さんの度量に支えられていたからであろう。

僕が常に思うのは、スポーツでも一般社会でも、音楽でもというのも付け加えておこうか、この当たり前なことが、どこにも見られない、ということだ.

前のワールドカップでの日本代表は中田英寿選手が浮いていてまとまりがなかった、という言説もある。

この人はとかく話題になる人だった。自己中という言葉が踊ることが多かった。僕はまったく違った見方をしている。

中田選手が自己中に見えてしまうありかたを続けている限り、日本のサッカーは強くなることはない、と断言しておく。

彼の語っている声や顔をみれば、この人がどういう種類の人間か、想像くらいできる。この人は自分の優しさを持てあましている種類の人だ。コンタクトをそつなくとれる人ではない代わりに、大変正直な目でサッカーを見ていたように思う。

自分の納得いかないプレーには、疑問を投げかけ、議論する。それがチームの和だと考えていたのだと思う。こんな当たり前のことが、日本では当たり前ではないのだ。言いたいことを呑み込んで(あることはあるのだろうが)ふんわりした空気を醸し出すことと、所謂根性論とは同じものなのだ。

岡田さんは、案の定根性を説きはじめた。先日のバーレーン戦の前も、むきになって選手を走らせ続けて、怪我人が多く出た。次の試合はチャーター便を廃止し、一般の航空機利用にするという。この手の精神論に堕ちていくのがこの人の特徴だ。

僕の願いとは裏腹に、今回の予選を勝ち抜くことは、前に書いたとおり、8割方無理だろう。ひとつ大胆に予想してみようか。サッカーそのものの予想ではないけれど。せっぱ詰まったら岡田監督は解任されるだろう。その後、オリンピック代表の反町監督を兼任させようという動きが出てくる。僕自身の意見はともかく、日本の人たちの発想法を読み解くとそんな気がする。

岡田監督が続けるということは、予選を勝ち抜けることだから、それを切に望むけれどね。

オシムさんを懐かしがっているのでもない。彼は非常に有能な監督だが、日本人を知らない。あたりまえだけれど。

たったひとつ例を挙げておく。

中村憲剛選手がミドルレンジからシュートを打ったことがある。オシムさんはこれを激しく叱った。自分が目立とうというプレーだというのがその理由だ。世界基準からいえばおそらくそれは正しい。しかし日本人の特性を知っている人から見ると、このプレーはほめなければならなかった、と僕は思う。最終責任を他人に預けてしまう傾向がこの国には多く見られるのだから。

スポーツだって人間をよく見ないといけない。最初に紹介した三原監督は、中西と豊田の両主軸にまったく違ったアプローチをしたという。気の優しいところのある中西が打つと「さすが大打者」ともちあげ、気の強い豊田が打つと「まあ、あんなものだろう」とあしらったそうだ。

その点から言っても岡田さんの采配に(また岡田さんに戻るが)疑問がある。タイ戦は結果から言えば快勝だった。でもエースストライカーの高原選手は、惜しいシュートを外したりで結果を出せなかった。岡田さんは後半、4対1になった時点で高原選手を他の選手と交代させた。

この辺りが人を見ていないと僕には写る。高原選手はとても真面目な人だ。責任感も強い。ひとたび調子が狂うと、あとに尾をひくタイプの典型だ。試合の決着はついたのだから、楽にプレーしてよい、と使い続けていくべきだった。もちろん、点が入る保証もないが、せめて彼が得点するのを期待はして欲しいところだ。交代させられては、次の試合にマイナスの影響が出る可能性が高い。

そういう点は、サッカーのプロよりも人間通になる必要がある。そこでは何の道でも同じだろう。表現するものは芸術ばかりとは限らないのだ。