季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

2008年04月17日 | 


猿は笑う。人間が失敗したりすると笑うし、ほめられたりしても笑う。犬山市に猿の研究所がある、というのも笑ってしまうが。霊長類研究所と言ってピンと来ない人も、チンパンジーのアイちゃんといえば「ああ、あの子だな」と気付く人が多いだろう。

この研究所は京都大学に属することを知っていても、ここが哲学科に属することを知る人は、これまた少ないのではないか。

人が猿と分かれた時期については諸説あるらしい。それはそうだろう。現に僕なぞは家族から猿人呼ばわりされている。21世紀にですよ、猿と人の区別がつかないのです!

その中で僕が支持する説は、なんていうとこれを知ったかぶりというのさ。単に気に入っているだけなのだが。僕は研究したこともないから、一生活人として、そうね、音楽家としてでもいいな、感情的によく分かるということだ。

それは、猿が仲間の死骸を埋葬し始めた時期を人類発祥の時期とみなす、というものだ。

高等動物ともなると、仲間の死を認知はする。しかし、埋葬するということは、次元を異とする。埋葬するのは死体が肉食獣に荒らされるのを防ぐためだろう。ということは、ここですでに死者を思い出す、という意識が働いているわけだ。

あいつは良い奴だった、立派な奴だった、自分たちは奴を忘れない、という感情を持っていたのだと想定しても、けっして不自然ではないだろう。

もし食い荒らされなかったら、再び動き出すかも知れない、と思ったと想像することもできよう。ほとんど宗教と紙一重ではないか。

犬の社会は群社会である。しかし、いくら空想をたくましくしても、我が家のシェパードが、私の先祖はドイツから来た、とか90年ころいた○○号は本当に格好よく立派な警察犬で、私は憧れる、とか言うとは思えないな。

犬を飼っている人たちは、それでも、犬が笑うことを知っている。猿と違って失敗するのを見て笑ったりはしないけれど。猿より劣るからではなく、猿より人がよいからだと思いたい。

笑うのはもちろんのこと、犬は泣くことさえある。僕は涙を見たことがある。

たま(にしき)については何度か書いた。この子が9歳のころ、腹部に腫瘍があることに気付いた。犬は体中にいろんな腫瘍や脂肪腫ができる。そんな時でもいつも念のため獣医に連れて行っていたのだが、この時は触った瞬間ギクリとした。米粒大だったが、何というのだろう、妙に根深く、底意地が悪いとでも言おうか、そんな手触りなのだ。体にとって、悪性の異物だと直感できるものなのだと、今になっても思う。

検査の結果はきわめて悪性の腫瘍とわかり、すぐさま手術になった。獣医にかかったことは数知れずあり、手術も経験していたのだが、この時の手術が無事終わって数日の入院後帰宅したとき、居間に入ってこちらを見上げたたまの目が潤んだと思っているうちに、涙が流れ落ちた。驚いた。驚くと同時に、たまの僕たちに対する信頼の強さをあらためて知って、心動かされた。

理屈を説明されれば、そういうこともあり得るらしい。でも、長いこと犬と付き合って、涙を見たのはこの時が初めてだった。その後、ミケという子が流したことが一度だけある。それ限りだ。