トスカニーニに記者団が(もちろんあなたを抜いた話として、)世界で一番よい指揮者はだれかと訊ねたところ、言を左右にして答えなかったという。それでも諦めずに食い下がって訊ね続けたところ、「フルトヴェングラー」と叫んで立ち去ったらしい。
ゴシップとして別段なにも面白いことはなさそうだが、考えてみればおかしい。トスカニーニはつまるところフルトヴェングラーを音楽家として認めているわけだ。
仮にフルトヴェングラーが同じ質問を受けたのならば、何と答えただろうか。トスカニーニの名前は出なかっただろう。
今日、僕は素朴な疑問を抱かざるを得ない。トスカニーニという指揮者がどうして世に認められるに至ったのか。人の趣味にはいろいろある、式の答えでは納得しかねる。
さいわい今日、彼の演奏は録音で聴くことができる。マイラ・ヘスと協演しているのを僕は持っているのだが、バカバカしいというのが唯一の印象だ。他にことばが見つからない。曲目は一応挙げておく。ベートーヴェンの第3ピアノ協奏曲だ。
この演奏のための練習中も、伝えられるように、「カンターレ(歌うように)、カンターレ」と怒鳴りつけていたのだと思うと、ただ可笑しい。この演奏のどこがバカバカしいかといえば、縦に刻まれた「時間」という枠の中に「歌」を閉じこめようとした不自然さだ。
トスカニーニの「時間」は、正確には分からないのだけれど、数世紀遡ったころの物理学に支えられているだけだ。
それでもウィーンフィルの理事だったオットー・シュトラッサー(バリリカルテットの第2ヴァイオリン奏者)ですら「トスカニーニは私たちに規律をもたらした」と述べている。これはどういう意味なのか?僕はずっと後の世に生まれた者の唯一の特権でこう答えよう。ただ怖かったのさ、と。
ある種の特別良い耳を持っている人がいる。それは本当だ。たとえばオーケストラの中で、たった一人が小さな小さなミスをしてもすぐ気付く耳。そのとき怒鳴りつけられたら、ひるむだろう。どんな人でも完璧でないから、早く、強く言った者勝ちという場面が多々ある。
ピアノを弾いている人に「ちょっと無駄な力が入っていませんか?」と声をかけてみるがよい。言われた方は少し、場合によっては大いにたじろぐ。その瞬間からあなたが上位に立つ。だれでもどことなく思い当たる節があるからだ。
こんな馬鹿げたことでも少なからず影響する、それが音の間違いであったり、音程の不揃いであったり、入るタイミングのずれだったりで、それを間違いなく指摘されたら、オーケストラは受け身にならざるを得ない。言うまでもないが、それを指摘できる耳も「良い耳」なのである。能力なのである。僕はそれを否定しているわけではない。
ただ、それだけのために、トスカニーニという指揮者が絶大な影響力を持つに至ったのが、やりきれない。当時、はっきりとした態度をとりきれなかった音楽家たちは、まさか音楽家の中に、音楽家ではない男がいて、しかもその男が作曲家への献身と尊敬を誰よりも熱烈に語っているとは、夢にも思わなかったのだろう。
スリラーなどで、隣人が実はエイリアンなのに、気付かないというのがある。まあ、そんな感じかな。ひとつにはトスカニーニの前の世代は、所謂ロマンティックな演奏をした(らしい)ことへの反動として登場したことが大きかったのだろう。
しかし、僕ははっきりと決別しないと、いつまで経っても演奏は、軸のずれた独楽同様、さまようばかりだと思う。
今日、トスカニーニ流イン・テンポで演奏する奏者はいないが、イン・テンポの概念はいたって健在である。すると面白いことに、自由にやったつもりの演奏はその時々の思いつきになり、不安定きわまりない。