少し前にエキエル版でショパンのノクターンを持ってきた生徒がいる。
自慢にならないけれど、この版を実際に見るのは初めてであった。評判も知らなかった。だいたい、研究というものを最重要と見做していないので、どうしてもそうなってしまうのである。
有名な変ホ長調のノクターンだったのであるが、普段聴き慣れているものとまったく違う。一番の違いは、楽譜でいうと小さな音符で記されているパッセージの音型だ。
通奏を聴きながら、これはリストの手による編曲だろうか、と訝しく思った。
ここまで書いて久しぶりに自分のタイトル関連、つまり今回はエキエル版を検索してみたら、もうどっさりあって、とてもではないが読みきれない。
これらを全部読むよりは研究したほうが良いと確信した。そうか、研究者というのは他の人の書いたものを読むのが面倒になった人がなるものなんだな。深く納得さ。重大な発見をしたね。
先生から今ならエキエル版が良いでしょう、ショパンコンクールでも推奨されているし、と言われたとか、友達から絶対これと言われたとか、読んでいると頭がくらくらしてきた。鎌倉散歩のガイドブックで、昼食は絶対ここ!なんて読んだ気分だ。
で、肝腎のことはわからずじまいなのである。パデレフスキィ版の進化したものだという珍説にも出会ったから、きっとそうなんだろう。音符を見ただけで音が出るとか、そんなことだったら進化したと言ってあげてもいいな。
とまあ例によって脱線気味なのだが、リストの手による編曲のように見える、というところに戻りたい。
これはなかなか面白い発見であった。
上述したように、エキエルによって公にされたこの作品が決定稿であるのか、初稿であるのか、僕には知ることができない。
解説を読めば知ることはできようが、元来の方がよくできていると感じる以上、そこから先はむしろ空想しておいたほうが楽しい。
なぜリストの編曲に聴こえるのか。
ショパンやそうした流れを汲む作曲家は、いわば手で作曲する。それがじつにわかり易く示されたと僕は思う。
リストの諸作品は、どれも卓抜なアイデアを示しているけれど、彫拓されつくしたという印象からは遠い。アイデアマンだ。アイデアの秀逸さでものの価値が決まるのならば、リストのそれは素晴らしいといえる。
彼の手は(もちろん困難さを避けてはいないけれど)まず第一により弾き易い音型を探し求めていく。そうして・・・そのままだ。改作も推敲もしたらしいけれど、それも新たな弾き易く効果的な音型を求めるに止まる。
ショパンの作品には決定的というべきものがある。それがエキエル版では(例に挙げたノクターンに限れば)まだ決定されていない装飾に聴こえるのである。いかにもショパンの手が今しがた即興的に動いたかのように。
おそらくショパンの諸作品はこういう過程を経て姿を現したのだろう。
僕はいろいろ空想して楽しかった。
この版が正しい、とかショパンコンクールがどうこうとか、研究の成果とか、それらはどうでも良いことのように思われた。
自慢にならないけれど、この版を実際に見るのは初めてであった。評判も知らなかった。だいたい、研究というものを最重要と見做していないので、どうしてもそうなってしまうのである。
有名な変ホ長調のノクターンだったのであるが、普段聴き慣れているものとまったく違う。一番の違いは、楽譜でいうと小さな音符で記されているパッセージの音型だ。
通奏を聴きながら、これはリストの手による編曲だろうか、と訝しく思った。
ここまで書いて久しぶりに自分のタイトル関連、つまり今回はエキエル版を検索してみたら、もうどっさりあって、とてもではないが読みきれない。
これらを全部読むよりは研究したほうが良いと確信した。そうか、研究者というのは他の人の書いたものを読むのが面倒になった人がなるものなんだな。深く納得さ。重大な発見をしたね。
先生から今ならエキエル版が良いでしょう、ショパンコンクールでも推奨されているし、と言われたとか、友達から絶対これと言われたとか、読んでいると頭がくらくらしてきた。鎌倉散歩のガイドブックで、昼食は絶対ここ!なんて読んだ気分だ。
で、肝腎のことはわからずじまいなのである。パデレフスキィ版の進化したものだという珍説にも出会ったから、きっとそうなんだろう。音符を見ただけで音が出るとか、そんなことだったら進化したと言ってあげてもいいな。
とまあ例によって脱線気味なのだが、リストの手による編曲のように見える、というところに戻りたい。
これはなかなか面白い発見であった。
上述したように、エキエルによって公にされたこの作品が決定稿であるのか、初稿であるのか、僕には知ることができない。
解説を読めば知ることはできようが、元来の方がよくできていると感じる以上、そこから先はむしろ空想しておいたほうが楽しい。
なぜリストの編曲に聴こえるのか。
ショパンやそうした流れを汲む作曲家は、いわば手で作曲する。それがじつにわかり易く示されたと僕は思う。
リストの諸作品は、どれも卓抜なアイデアを示しているけれど、彫拓されつくしたという印象からは遠い。アイデアマンだ。アイデアの秀逸さでものの価値が決まるのならば、リストのそれは素晴らしいといえる。
彼の手は(もちろん困難さを避けてはいないけれど)まず第一により弾き易い音型を探し求めていく。そうして・・・そのままだ。改作も推敲もしたらしいけれど、それも新たな弾き易く効果的な音型を求めるに止まる。
ショパンの作品には決定的というべきものがある。それがエキエル版では(例に挙げたノクターンに限れば)まだ決定されていない装飾に聴こえるのである。いかにもショパンの手が今しがた即興的に動いたかのように。
おそらくショパンの諸作品はこういう過程を経て姿を現したのだろう。
僕はいろいろ空想して楽しかった。
この版が正しい、とかショパンコンクールがどうこうとか、研究の成果とか、それらはどうでも良いことのように思われた。