季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

疑問 宇野功芳氏

2009年12月31日 | 音楽
例によって立ち読みネタである。

音楽評論家で合唱指揮者でもある宇野功芳さんの本だったか、それとも彼について書かれた本だったか、定かではない。本屋で次々にページをめくったり本を取り替えたりしているうちに何の本だったかが分からなくなったりする。立ち読みの欠点である。何のことについて書かれていたかすら忘れることがある。これも立ち読みの宿命である。きちんと払えということなんだろう。

宇野さんは合唱指揮こそ本当の演奏だと力を込めて語っていた。オーケストラは2回ほどの練習で本番をしなければならないのだから、自分は好きではない、と。

この気持ちは良く分かる。まっとうすぎるくらいの意見だ。

ただ、僕は昔から批評家としてのこの人の強引さが嫌いである。きっと正直な人だろう。そのままそっとしておけば僕の人生に何の拘りも持たないはずだし、正直な人を嫌うことは本来ないはずである。しかし、この人の信奉者も多いからね。とくに所謂クラシックファンには。正直な人だから、まあ良いかと放っておくわけにはいかない。

彼の文章に接したことのない人のために付け加えておく。彼が讃えるのはフルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ等、僕が敬愛する人々である。それにシューリヒトが入ったかな。
つまり、政治の世界でなら宇野さんと僕とがおなじ党に入っていてもちっともおかしくない。立ち読みした印象では、老境に入ってから彼の論調は聊か変化し、より幅広い見方をしようと心がけているようだが。


今日の音楽評論家はとてつもない量の仕事をこなしているのだろうか。聴かされるCDの数だけでも半端ではない。

こういう稼業は辛いだろう。聴くに堪えないと思うものにも一応耳を傾けてさ。レッスンで聴くのは疲れはするけれども、ちっとも嫌ではない。まあ指揮者がオーケストラとプローベするようなものだ。

演奏批評家となると事情は一変する。たとえば僕は先ごろ、トスカニーニをたくさん聴いたわけではないと書いた。その底流に流れるものが決定的に相容れないと感じたらあとは時間と感受性の浪費であるから、もう聴かない。

それなのに批評家ときたら聴かずに論じるわけにもいかないから、嫌だと思う演奏を延々と聴くのだろう。(ホントにそうかしらん。疑えばいくらでも疑えるよね)

むかし演奏評をしていた人からレコードを貰ったことがあった。リリースされたものがドーンと届けられ、置き場所に困ったのではないか。好きなものを持っていってよいと言われ、貧乏学生は小躍りして喜んだ。しかしほとんどが屑のようなものばかりで、がっかりしたのを覚えている。まあそうだよね。良い演奏だ、歴史的名演だ、と思ったら手許に置くよね。

さて宇野さんのどこに疑問か、と言われると返答に困る。文章がいけないのである。正直な人だということだけは分かる。

前述の本の中で、むかし他の音楽批評家と一緒に、当時まだ世に出ていなかったフルトヴェングラーによるベートーヴェン「第九」の演奏を予想するという仕事をしたことに触れている。

他の2人と宇野さんとはまったく違う予想をしていて、いざその録音が出てみるとはたして宇野さんの予想通りの演奏だった、と自慢している。

気持ちは分からなくもない。しかしくだらない仕事もあるなあというのが正直な感想だ。

そんなことが当たって何になる。競馬の予想でもしたほうがよほど気が利いている。

第一楽章は重々しく神秘的に始まる、と予想したらその通りだったとか言ったところで何になる。ついでに誰かのリサイタルを予想して第一楽章で暗譜を忘れるとか言ってみたらいかがか。

続きはまた。