季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

犬の認識力

2009年12月09日 | 
犬はどのくらい人や動物の姿を認識するのであろうか。ささやかな日常体験から探ってみたい。どうですか、学術的な雰囲気でしょう。

動物学的にはいろいろ調べが進んでいるだろうが、日常レベルの素朴な発見のほうが楽しい。というわけで学術的雰囲気はあっというまに消え失せる。

たまはノーリードで歩いた。ドイツでは街中でそれが許されている。躾がなされているのが前提なのはいうまでもないけれど。

僕が在宅で家内が出かけているとき、帰る時間になると「お母ちゃんを迎えに行こう」と声をかける。たまはいそいそと外出の態勢になる。家の前は交通量が多い幹線道路だったから渡るまではリードを付けて。

すぐに写真の通りに入る。ここは年中歩行者天国である。ネットで探してきた写真だが、当時と殆んど変わっていない。店舗は変わっているけれども、全景はこのままである。一番手前の左側の店は絨毯屋。今もあるかな?

ご覧のように道幅はかなり広い。その上、店舗ごとにショーウィンドウのために奥まったスペースがあったりして、出入りがあってなかなか複雑になっている。

この通りに入ってたまを放すと、シェパード特有の、首をもたげて人を探す姿勢になる。右の店、左の店と家内を捜し求めて縫って歩く。

とくにふだん散歩のとき覗くことがある店付近では念入りに探し回る。

遠くから最初に姿を見つけるのは、しかし家内のほうであった。シェパードのシルエットは目立つからね。犬はどうやら近視らしい。本で知ったけれど、経験からしてもそうだ。立ち止まって腰を屈めてたまが気づくのを待つ。しばらくして気が付くと一瞬耳をピンと立てる。そのあと一目散に走り寄って足元をぐるぐると回るのである。

歩行者天国の端に一軒、大きな鏡がある店があった。初めてその鏡を覗いたたまは、毛を逆立てて吠えた。まだ犬社会にデビューする前のことである。

どうやら自分の姿を知ってはいないのだろう。犬を飼った人は知っていると思うが、彼らは自身を犬だと認識していないようだ。といって人間だと思っているようでもなし。

鏡に映った自分を異形の動物だと思ったのだろうか。

アルバムをひっくり返せば、「名犬ラッシー」を放送中の画面に見入るたまの姿が見つかるはずだ。この時は長い時間じっと見ていた。ここから犬は二次元の映像を認識することが知れる。あまりに面白くて横から観察していたら、結局小一時間見ていたな。

では彼らは僕たち人間をどう認識するのか。最初は姿全体のイメージではないか。我が家を改築した折、ミケとアイは狭い犬舎に入れて玄関脇の部屋にいさせた。もっと分かりやすく言うと家族全員がその部屋に寝泊りした。

ある日理由は忘れたが僕が深い麦藁帽を買ってそれを被ったまま帰宅して部屋に入った。

普段は宅配にもほえる事がない2頭が猛烈な勢いで吠えついてきた。びっくりしたね。思わず自首しそうになった。

何だ何だ、と麦藁帽を脱いだら(当たり前だが)吠えるのを止めて甘え声になった。

僕はヘアスタイルを極端に変える。昔は半年に一度くらい散髪に行くだけだったから、散髪直後に知人と行き会っても気づかれぬほどであった。

今では4ヶ月に一度くらいになったが、それでも頭部のシルエットはずいぶん違う。それにもかかわらず散髪から帰って吠えつかれることはない。ということは犬は僕という全体像を認識しているのだろうか。

麦藁帽を常に被っていたらそれが僕の全体像になるのかもしれない。

そういえば、家の犬たちは他人に向かって吠えつくことはないのであるが、携帯で話しながら歩く人がまだ珍しかったころ、向うから電話しながら人が来たところ、毛を逆立てて吠えたなあ。

道端にしゃがみ込んだ姿を夜見たときも吠えた。そういう人がたくさん見られるようになったら反応しなくなった。順応するのがはやい。「昔はこんな姿は見られなかった」なんて言わない。言ったら面白いのだが。