季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

ウソのような本当の話

2009年12月22日 | 音楽
僕がここに書き付ける音楽関係の記事はあまりに現代の音楽事情について批判的だと思う人もいるかもしれない。

若い人たちは好きなことを、できる限りにおいて誠実にしている。僕はそれを知っている。概ねそういってもよい。ただ、如何せん人が良すぎる。

人が良いのも結構であるが、強く求めるものが足りないために疑うことがないのではないか、と思うのである。

最近ある超有名音大におけるフランス人客員教授の話を聞いて、笑おうとしたが顎が外れてしまい笑うこともままならなかった。この話を紹介しようか。

レッスンで生徒に目をつむらせて、香水をシュッとひと吹き。「これであなたもフランス人です」

また、爪に赤い色を付けて「あなたの音色はこれで変わる」

ああ、ドビュッシーやラヴェルが生きていたら何と言うだろう。カペー、コルトー、ティボー、スゼー等はもはや額に飾られて埃っぽい部屋の隅に掛かるだけになった。

笑うのは待ってもらいたい。

それを聞いた日本人教授は「不思議と音色が違う気がする」ということだし、学生たちも「そんな気がしてしまう」らしい。

カメラマンが女性を撮影するとき「そう!いいよ、いいよ。綺麗だよ。ウンウン、いいね!いいね!オッケーオッケー・・・」なんてやりますね。これは傍から見れば可笑しくもあるけれど、なかなか効き目があるらしい。ついそんな気になる、とは撮影された経験のある生徒から聞いた話だ。

これは信じるに足りる。実際被写体の表情は違っていくだろう。

しかし香水を一振り「そうそう、パリの香りだよ、あなた立派なフランス女!ラヴェルも母国語、ドビュッシーも親戚!オッケー!」なんてこれはナンじゃ。

それともその気になって「ウィ、ムシュー」と返事でもするのかね。
ウィと酔っ払っちまうね。悪酔いだ。

ひどく好意的に見れば次のような次第だ。

演奏に際してはまず心の底から作品を感じなければならない。フランスの作品を演奏する場合には自分があたかも彼の地に生まれ彼の地で暮らしているかのように思うことが肝腎である。

非常に好意的に見てもこんな有様だ。だいいち、彼を好意的に見れば、今度は日本人も馬鹿にされた話だと思う。こんな子供じみたことをしてやれば喜ぶと見られているのだから。


まず思うこと。これを思い、これを思う。それは音色を変化させる重要な要因だ。しかし思っただけで音色が変わるものなら警察は要らない。おっと、間違えた。ごめんで済むなら警察は要らない。思って変わるなら技術はいらない。

強く思うこと、これは必要条件であって充分条件ではない。


それもこれも、日本の音楽人たちが自分から求めることを止めた結果だろう。なぜ一笑に付してしまえる人が少ないのか。

あきれ果てて検索を掛けたら、件のフランス人教授の許には大勢の日本人留学生がいるようだ。彼らは今や本物のおフランスで本物のフランス語のレッスンを受けているのであろう。そして日本とフランスの洟のかみかたの違いを熱心に説いて、文化の橋渡しをするようになるのであろうか。

「ウソのような本当の話」という芸のないタイトルしか与えられないのが残念だ。吉田健一さんの小説に「本当のような話」と人を食ったような題名を持つのがある。今回の記事は貧弱な現実からは芸のないタイトル及び内容しか産まれない好例である。