季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

子供の怖さ

2009年12月12日 | 音楽
先日ある人の甥ごさんのことで面白い話を聞いた。

だいぶ以前、10年近く前のことらしい、小学2年の時にある小さなコンクールを受けた。ブルクミュラーを弾いたそうである。

話をしてくれた方はそれを聴きに行っていたそうで、ごくごく普通の意味で素直に聴ける演奏だったらしい。

審査員の評が対面して直接もらえるコンクールで、一人の審査員が「もっときっちりとテンポを守って」とアドヴァイスをした。そうは言っても、聴いていて所謂テンポが崩れてしまうような演奏ではなかったという。

その子供にはアドヴァイスが不服だったと見え、「だってオレは同じ気持ちで生活しているわけじゃないよ、同じ気持ちで弾くことなんか無理に決まっているじゃん」と言ったというのである。

どうです、話だけから判断してもどちらが生きた情感を持っているか。

この子供は時間の認識を持っていたわけではないだろう。ただ、正直にものを言ったに過ぎない。

しかし正直に素朴にものをいう子供がそのまま育つ環境が今の日本の音楽事情にあるのかと問われたら、否定的にならざるを得ない。

実はこのコンクールに友人が審査員として加わっていて、「これこそが生きた音楽だと思う」と大変褒めたという。これも同じ人が報告してくれたのである。

「音楽を一所懸命やらないかい」と問いかけたところ「オレは野球第一でピアノは第二なんだ」と答えたらしい。

単純明快である。もっとも、自分の演奏を認めてくれた審査員がいたということはよく覚えているのだという。今はピアノはあまり弾かないらしい。もったいないことだ。最近はいろんな自覚もできたらしく、クラシックだけではない、どんな音楽でも同じ感情や感覚で動いているはずがないと言っているそうだ。どこにも怪しげなところがない正論ではないか。

ハテナみたいな名前や何とか連盟なんて、団体ばかりむやみに増えて、お題目だけは大層立派であるが、演奏における洟のかみ方や上品に見えるゲップの出し方なんぞを教えているようなものだ。彼らはなにを求めているのか。なにを示さねばと考えているのか。僕には、音楽家それもピアノ弾きが団体を作らなければならない理由がまったく理解できないのである。

この少年が仮に複数の肯定的なアドヴァイスをもらっていたとしたら、彼はピアノをメインにするようになったか。これは不明である。

しかし身の丈にしっかり合った音楽好きにはなれたであろう。そうした大勢の中から生きた演奏をする人が出て、またそれを評価できる人も出てくるのだ。

コンクールやオーディションがいくつあっても一向に構わないけれど、審査する人は常に、自分の心が固くなっている危険と向き合っているのだという自覚を持つほうがよい。

音大の教師も、学生募集の秘策に頭を捻るよりも、自分が音楽好きだった(かもしれない)ことを思い出すことだ。

ここに挙げた例は、自発的な(これがまた何と好まれる言葉であることか!)演奏をする子供が、固くなった心と耳にすぐさま抵抗感をもつことがあることへの好例だろう。