遠山一行さんの逆説的表現に「作曲家は音楽家といえるであろうか」というものがある。以前ちょっとだけ紹介したけれど。
以前は作曲家と演奏家がはっきりと分れてはいなかったから、こうした逆説も意味を成さないに等しかったであろうが、今日では大いに考えられて良い問題だ。
たとえば武満徹さんはピアノが弾けなかったらしい。彼のピアノ曲を(存命中に弾いたとして)彼に指導してもらうのは絶対に必要だろうか。
必ずしも必要はあるまいと僕は思う。
こんなことがあった。以前、大学で作曲科の学生の副科ピアノを受け持っていたときのこと。一人の学生が「きょうは僕の曲を持ってきたのですが」とやってきた。2台ピアノの曲だった。
ピアノでいったいどのような表情までが可能かよく分からず、作曲の先生に訊いたらちょいと無理ではないか、と言われた箇所があり、そこが本当に無理なのか、記譜上の問題でもあるのか、それが知りたいということだった。
2台ピアノで合奏が可能か、それも分からぬ箇所がある、そんな質問もあった。
その曲自体はとくべつ感心するものではなかったけれど、彼が出した疑問の箇所はまったく不可能というわけでもなかった。合奏上の問題も、読み方しだいでは何とかできそうだった。
僕は問題の箇所を弾いてみせ、自分ならこうやって解決する、と説明した。その学生が僕の意見をそのまま取り上げたかどうか、僕は知らない。しかし、少なくとも作曲の先生が無理ではないかと言った箇所が、ピアニスティックな見地からは無理ではなかったとは言える。その学生も非常に喜んで帰った。
例に出した武満さんがどのように作曲を進めたのか、これは興味のあるところだ。仮にピアノが弾けなかったことが本当だとしても、それは不名誉なことではない。
ブラームスだってヨアヒムにヴァイオリン奏法について詳しく教えてもらっただろうし、すべての楽器を弾きこなす人がいるわけでもない。
ただ、武満さんの曲を彼が聴いたこともない音で演奏するピアニストがいたならば、彼はどう言っただろう。これは興味深い問いだろう。たとえばハンゼンの音を彼が知っていたならば。もし彼の曲をハンゼンが弾くのを聴いたならば。
もしかしたらこの音は厚みがありすぎると言ったかもしれない。温かすぎると嫌ったかもしれない。何とも分からないが、武満さんの風貌や書いたものを読んでいるとそんな気がする。
ここでちょっと触れておこうか。作曲家でピアノの名手でもあると謳われた人たちが自作を演奏しているCDがある。
作曲家にとっても、いったん手を離れた曲は自分の自由にならない、一種の他者なのだと改めて思わざるを得ない。自分の曲なのに苦労する、こんな馬鹿げたことが起る。
当たり前のようにも思われるが、ではなにがどう当たり前なのかをはっきり言える人は少ないだろう。
CDにはマーラー、ドビュッシー、ラヴェル、グリーク、リヒャルト・シュトラウス、マックス・レーガー、スクリアビン、サンサーンスなど、近現代の主要な作曲家が顔をそろえる。
この中で圧倒的に上手なのはサンサーンスだ。まぁ呆れるほど上手だ。同時に「この男は悪人だ」と直感的に思う。情の動き方が冷たく、ほとんど機械的に美を産んでいくとでも言おうか。
ドストエフスキーの「悪霊」のスタヴローギンを作者はじつに見事に描写している。それをどことなく思い出させる、という意味で悪人なのである。興味あるひとは読んでみて下さい。
ドビュッシーは手が実に柔らかい。グリークは清潔な男だ。スクリアビンやシュトラウスはピアノ演奏も天才的だったと言われるが大したことはないようだ。
ヒンデミットが自身の「ウェーバーの主題による交響的変容」を指揮したものと、これを初演したフルトヴェングラーの両方が録音で聴ける。こうまで違うとびっくりする。その上でヒンデミットがフルトヴェングラーの音楽性を心から賛美したことに思いを馳せるとじつに面白い。
以前は作曲家と演奏家がはっきりと分れてはいなかったから、こうした逆説も意味を成さないに等しかったであろうが、今日では大いに考えられて良い問題だ。
たとえば武満徹さんはピアノが弾けなかったらしい。彼のピアノ曲を(存命中に弾いたとして)彼に指導してもらうのは絶対に必要だろうか。
必ずしも必要はあるまいと僕は思う。
こんなことがあった。以前、大学で作曲科の学生の副科ピアノを受け持っていたときのこと。一人の学生が「きょうは僕の曲を持ってきたのですが」とやってきた。2台ピアノの曲だった。
ピアノでいったいどのような表情までが可能かよく分からず、作曲の先生に訊いたらちょいと無理ではないか、と言われた箇所があり、そこが本当に無理なのか、記譜上の問題でもあるのか、それが知りたいということだった。
2台ピアノで合奏が可能か、それも分からぬ箇所がある、そんな質問もあった。
その曲自体はとくべつ感心するものではなかったけれど、彼が出した疑問の箇所はまったく不可能というわけでもなかった。合奏上の問題も、読み方しだいでは何とかできそうだった。
僕は問題の箇所を弾いてみせ、自分ならこうやって解決する、と説明した。その学生が僕の意見をそのまま取り上げたかどうか、僕は知らない。しかし、少なくとも作曲の先生が無理ではないかと言った箇所が、ピアニスティックな見地からは無理ではなかったとは言える。その学生も非常に喜んで帰った。
例に出した武満さんがどのように作曲を進めたのか、これは興味のあるところだ。仮にピアノが弾けなかったことが本当だとしても、それは不名誉なことではない。
ブラームスだってヨアヒムにヴァイオリン奏法について詳しく教えてもらっただろうし、すべての楽器を弾きこなす人がいるわけでもない。
ただ、武満さんの曲を彼が聴いたこともない音で演奏するピアニストがいたならば、彼はどう言っただろう。これは興味深い問いだろう。たとえばハンゼンの音を彼が知っていたならば。もし彼の曲をハンゼンが弾くのを聴いたならば。
もしかしたらこの音は厚みがありすぎると言ったかもしれない。温かすぎると嫌ったかもしれない。何とも分からないが、武満さんの風貌や書いたものを読んでいるとそんな気がする。
ここでちょっと触れておこうか。作曲家でピアノの名手でもあると謳われた人たちが自作を演奏しているCDがある。
作曲家にとっても、いったん手を離れた曲は自分の自由にならない、一種の他者なのだと改めて思わざるを得ない。自分の曲なのに苦労する、こんな馬鹿げたことが起る。
当たり前のようにも思われるが、ではなにがどう当たり前なのかをはっきり言える人は少ないだろう。
CDにはマーラー、ドビュッシー、ラヴェル、グリーク、リヒャルト・シュトラウス、マックス・レーガー、スクリアビン、サンサーンスなど、近現代の主要な作曲家が顔をそろえる。
この中で圧倒的に上手なのはサンサーンスだ。まぁ呆れるほど上手だ。同時に「この男は悪人だ」と直感的に思う。情の動き方が冷たく、ほとんど機械的に美を産んでいくとでも言おうか。
ドストエフスキーの「悪霊」のスタヴローギンを作者はじつに見事に描写している。それをどことなく思い出させる、という意味で悪人なのである。興味あるひとは読んでみて下さい。
ドビュッシーは手が実に柔らかい。グリークは清潔な男だ。スクリアビンやシュトラウスはピアノ演奏も天才的だったと言われるが大したことはないようだ。
ヒンデミットが自身の「ウェーバーの主題による交響的変容」を指揮したものと、これを初演したフルトヴェングラーの両方が録音で聴ける。こうまで違うとびっくりする。その上でヒンデミットがフルトヴェングラーの音楽性を心から賛美したことに思いを馳せるとじつに面白い。