季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

脳内現象

2008年12月15日 | 
利根川進さんに触れた文を書いた折、野蛮な人だと言った。あらゆる精神は物質の働きに還元されて理解されるようになる、と断言するような人で、意見には承服できぬ点もあるが、面白い人だと感じたからだ。

睡眠薬だけではまだ足りず、わけの分からぬ科学書を読みながら口を開けて眠ることにしている。何ページ読み進めるかは時の運だ。そのうちパブロフの犬のように、「量子力学」なんていう表紙を見たとたんにぱったり眠くなるといいと思う。大いに期待している。

プロの立ち読みを自認する僕でも買うことだってある。茂木健一郎さんという人の「脳内現象・私はいかに創られるか」というのが利根川さん式楽観論への僕の疑問に取り組んでいるように(立ち読みの一瞬でだけれども)思われて買った。

一読して面白かった。しかし結局は僕が僕を認識する、あるいはまた僕だと感じることを客観的につまり科学的に記述するのは容易ではないな、という「常識」を改めて思った。

茂木さんという人は趣味が多方面に向う人で精力的で人付き合いもスマートに出来るのではないかしらん、と感じる。

これを読み終わったころ、レッスンに来た人が「茂木健一郎さんが・・」と既知のひとを話すように言ったのでびっくりした。僕の心を読み取られたか、この人は宇宙人かもしれない、あるいは僕がたった今茂木さんのことを話題にしたのを忘れるほど健忘症が進んだのか。いずれにしても少々あせったが、よくよく聞いてみたら茂木さんという学者はNHKによく出演している気鋭の学者で、人気が高い人だという。テレビを見ない僕はそれと知らずに新しい人を発見したつもりでいた。

本を眺めてみればなるほど、NHKブックスとある。その後気をつけてみると、たくさんの一般向けの本を次々に出している。

少し芝居がかった文章が多いのが難点かな。話は当然生理学や物理学についてを噛み砕いてくれているのであるが、それでも難しいものは難しい。簡単に理解が進むわけではない。

通読した後、さてそれでは現代の学問による自我の理解は何だろうと問い直すと、結局ほとんど一歩も動いていない。

利根川さんのように、いずれ物質レベルで解明され尽くすという立場を取らずに、それでいて科学の立場からものを考えようという気構えだけは伝わってくる。そこが良いところかもしれない。

僕は実はシェルドレイクという生物物理学者の本を愛読しているのであるが、この人の魅力についてはいずれ書いておきたい。僕は自分の経験からシェルドレイクの立てたある仮説を「感覚的に」支持するものである。

この人といい茂木さんといい(シェルドレイクは異端扱いされている学者らしいから茂木さんは一緒にしないでくれと言うかもしれないがね)ベルグソンの著作と重なり合うところが面白い。

ベルグソンの作品も、所謂哲学者のように理解しているのではない。直感的に分かるとしかいえない。「創造的進化」という本や「物質と記憶」という読むのに難儀する本も、ピアノ弾きとして乱暴にいえば分かるところだけ読もうとすれば大変分かりやすい。

時折感じるのだが、専門家は何て細かいところにばかり拘泥しているのだろう。最近の文学批評をチラッと見ても、悩む種を強いて見つけ出しているとしか思えない。理屈のための理屈とでもいおうか。

茂木さんは今のところその手の心配はなさそうである。文字通りメモのような文になってしまった。僕の脳内は混乱していると見える。


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