季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

勘違い

2008年12月19日 | 
「森林の思考 砂漠の思考」という鈴木孝夫さんの本を閉店間際の書店で見つけた。

僕は書名でおよその内容が関心を持てるかを速断して、次に著者を見、あとは時間があれば1,2分斜め読みをして買うか買わないか最終的に判断する。この日は閉店を知らせるアナウンスが流れていて、特別すばやい判断を迫られていた。もっとも本屋での決断は常にすばやい。レストランと本屋は速い。牛丼屋に行ったらなお速いのではないかとひそかに思っている。

帰宅して寝転んで読み始める。この本は最初に日本人とドイツ人が道を尋ねられたときの答え方の差について書かれていた。日本人は分からないと教えないが、ドイツ人は(これは著者がドイツに住んでいたことがあるからで、一般にヨーロッパ人はといっても良いと書かれている)断固とした口調で教えるが、それが正しいとは限らなかったという。

いつもの調子だなあ、と読み始めたところが、どうも変なのである。何だか文体がちがう。何気なく表紙を見て驚いた。鈴木孝夫さんだとばかり思っていたら、鈴木秀夫さんとあるではないか。もっと違いが分かりやすい名前をつけてくれよ。あわてて著者の紹介を見たら、地学の学者なのであった。閉店間際で気がせいていたためもあるが、こうしたうっかりをよくするのだ。

しかし、この勘違いというか失敗のおかげで、普段ならば絶対に買わなかったであろう本を買った。その上、これがなかなか面白いのである。

その上と書いたが、ちょっと読み進んで面白いものだから一気に通読したのである。つまらないものであれば、絶対に読まない。

ここの書店では少し前にも閉店間際に失敗をした。

買う予定の何冊かをまとめて他の本の上に置いて、もう一冊を立ち読みしているうちに閉店になった。あわてて置いた本を持ってレジに行き、帰宅後見たら、一冊経済学の本があった。どうやら隣だか下の本まで持ってきてしまったらしい。

関心のある人には立派な書物なのだろうが、僕には何の感興も湧かない。経済学の本を買うという不経済をしてしまった。きっと本の内容は不要な買い物はやめろ、とかあるんだろう、いまいましい。

というわけで、鈴木秀夫さんの本は僕にとって本当に面白かったということがおわかりだろう。この本は著者紹介によれば60刷近く出ているようだが、それも良く分かる。

地学と一口に言っても、その領域はきわめて広いことを知った。考えてみれば当たり前のことだが、たとえば文化人類学と重なり合う。言語学とも。紹介するのにこんな堅苦しい文字を並べ立てたって駄目だろうが。

最初に挙げた例は、砂漠の民は水のある場所へ行き着くのに、ある道を選ぶか選ばないかを「決断」しなければならない。それにひきかえ森林の民である日本人は、迷っていてもそれが直接死に結びつくわけではなく、いわば優しく守られた状態だという。ある道を選ぶ決断は必要ない。そこからさまざまの差異が生じるのだという。これはその通りだろう。

その他、この分野ではありとあらゆるデータを駆使して扱うということも知った。たとえばふつう日本人は北国の人が北方系で、南国は南方系だと信じて疑わない。ところがDNAレベルでの調査をすると、四国、九州が北方系で、東北以北は明らかに南方系であるという結論が導かれる。

あるいはある言い回しが(地名の読みなどもそれに含まれるけれど)それぞれ特定の地域を境にしてはっきり分かれる。それらを複雑に重ね合わせて、古代日本においての民族の移動を推察したりする。言語学の分野だとぼんやり思っていたのであるが、それは同時に地学の領域とも重なるのだ。

ひとつだけ具体例を挙げておく。

ヨーロッパは地名の研究が盛んなのだそうだが、日本はそれほどではないという。そのなかで、河川名における○○沢と○○谷の二つの地名分布を調べると、○○沢は近畿以西にはまったく無くて、○○谷は東北以北にはきわめて少ないという。これに他のさまざまな分布要素を重ねて、昔の生活の変化などを推察していくらしい。

いろいろ興味は尽きないのであるが、この人の性格が僕の関心をひいたところをもうひとつだけ挙げておく。正確な引用ではないが。

あまり細かいところで言い出すと異論を持ち出すことも可能であるが、自分はそういったやり方を好まない、というくだりがあった。学者にもこういう人がいるのだ。



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