芸大の早期教育プロジェクトについて学長の挨拶をみてみよう
曰く。
さらに、地域における卓越人材の発掘・育成はもとより、会場に集う全ての人々が“感動”や“ときめき”を体感・共有することで地域の活性化に繋げるなど、“音楽の魅力”や“芸術の力”を活かすことで、「地方創生」の一助となればと考えています。
この様なふわついた文章は一体誰が作るのだろう。演奏を聴いて、それも子供の演奏を聴いて「ときめき」を感じることはあるだろうか?
試しに「ときめき」をどんなシチュエーションで使うのか検証しよう。(どうだ、検証なんていうと偉そうだろう。丸谷才一は文章を書くコツはほんの少し気取ることだと、実に実際的な助言をしたが、この「検証」は何とも場違いな気取りすぎであるのは誰でも分かるだろう)
喜び、期待で胸がドキドキする。これがときめきの意味だ。
では宝くじが当たるように期待する時に使うか?使わないね。この場合は期待といってもどうせ当たらないという常識の方が強いからだと説明出来るかもしれない。
では野球でノーアウト満塁のチャンスを迎えた場合は?ここでもときめきなんて使わない。
それならばどんな時に使えるのだろう?
残念ながら僕には小説家になる種の才能が欠落している。色々なシチュエーションを案じることは難しい。平々凡々な例で勘弁して貰おう。
憎からず思っていた異性から誘いを受けたとする。彼は(彼女は)胸のときめくのを抑えることができなかった。
そんな風に使う。決して赤の他人である子供の演奏なぞに使う言葉ではない。うっかり使ったが最後、嘘だらけの大袈裟さを露呈してしまう。
上記の例にしたところで、すれっからしの男女に使う言葉ではないだろう。
思うにこのプロジェクトは充分に吟味された上でのものではあるまい。ただただ、早期教育は良いものに決まっている、そして我が国においてはそれが欠けている、という思い込みのみがあり、景気付けに感動とか、ときめきとかの最上級と思しき言葉を連ねた、そんな感じを抱かせる。
こんなうわっ調子の文章を芸術家を自認する人は書いてはならないのである。
芸術の力ということについても同様だ。なるほど芸術の力は、理を超えたものだろう。
しかしそれは騒々しいイベントからは遥かに離れたものだろう。
地方創生の一助、に至っては苦笑を禁じ得ない。クラシック音楽はそこまで人口に膾炙しているであろうか。僕は「私の存在感」と言ってのける人を知っているが、それと同じ滑稽さしか感じない。地方創生の一助を本気で言うのだったらあまりに自らを高く見積もり過ぎ、単なる挨拶だとしたらこれまた芸術家を自認する人が避けねばならぬ態度ではないだろうか。
繰り返しになるが、結局プロジェクト自体がしっかりとした認識を持っていなければ、それに関してこんな文章をものにするしかないということである。
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