季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

姿勢

2008年03月08日 | スポーツ


相撲をまったく見なくなってから久しいとはすでに書いた。一方で、相撲は近代の意味でのスポーツではなく、日本の古典芸能と同じ種類のものだから、スポーツという観点で批判するのはよろしくないと主張する人がいる。それも分かる。その通りだ。

横綱の土俵入りというのがあるでしょう。一連の形の中にせり上がりというのがある。四股を踏んだ後、手を広げてじりじりとせり上がるやつです。片手を広げもう片手は脇腹につけておく雲竜型と、両手を広げていく不知火型とがあるのだが、そんなことが取り沙汰されるところも、古典芸能と通じる所以だろう。

せり上がるとき、開いた手は力強く大岩を差し上げる象徴なのである。掌が上を向いていなければならない所以だ。

横綱土俵入りに関しては栃錦が見事だったというのが衆目の一致するところだ。今日写真で見てもたしかに美しい。

いつのころからか、せり上がりの際、掌が下を向くようになってきた。それについては相撲の様式美を重要視する人々から再三指摘があったが、たぶん、今でもそのままになっているのだろう。

僕はむしろなぜそういう変化が起こったのか、心理的な側面により大きな関心を寄せる。

掌が下を向くようになってきたと同時に、せり上がりの際、両肩をいからせるかたちが増えたことに気がつく。人が少しでも自分を大きく見せかけたいときに知らず知らずとるポーズだ。

70年代後半から80年代前半は日本が世界的にもっとも注目された時期だろう。あらゆるメディアがこぞって日本の奇跡と銘打った特集を組んだ。ちょうど僕がハンブルクに住んでいたときと重なる。

ハンブルクの中心街といっても驚くほどせまい。昼食時になるとあらゆる人種の人々が歩き回る。そのなかで日本人、韓国人、中国人は遠目には見分けがつきにくい。ただ、歩き方の特徴で日本人だと識別がつくことが多かった。両手をズボンのポケットに突っ込んで、肩をいからせていれば、それは間違いなく日本人だった。

それを見るたびに、格好悪いなあと苦笑いしたものだ。なにかこう、ありのままでは不安でたまらぬ、といった風情なのである。持ちあげられ、注目されるプレッシャーに負けまいと必要以上に力んでいる姿は同胞ながら、いや同胞ゆえにというべきか、みっともないからおよしよ、と声をかけたくなるほどだった。普通に振る舞ったら楽だろうにとも思った。

横綱たちには持ちあげられ、注目されるプレッシャーは勿論あるまい。だが、俺は強いのだということを嫌でも認めさせようという力みが、あのいかった肩によく表現されていると思う。

横綱の強さを疑うものはいない。誰もが認めているにもかかわらず、なお辺りを睥睨するのはちょっと格好悪い。本当は横綱土俵入りだけに留まらない。学生に対する教授、都民に対する都知事、社員に対する上司(ただしこれだけは憶測だ)若い人に対する大人、すべてそうだ。

前に書いた双葉山の姿だが、自然体でありながら近寄りがたい。できたら土俵入りの姿も見てみたいものである。


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