最近音大に行っている生徒から聞いた話から思うことを。
生徒の友人たちの多くが、自分の教師から「若いうちは技巧的な曲をたくさんやっておけ。内容のある曲は歳を重ねてからすればよい」と助言されて、皆それに従っているというのである。
内容のある曲とは何か、などと話を難しくすると、もう何が何やら分からなくなるが、少なくとも教師たちは例えばシューベルトの諸作品のように、音符の数が少ない曲のことを指すと思っていれば大体正しいようである。
音符の数が少なければ内容がある、というわけではないよ。そうだとしたらバイエルなんかは内容豊富だということだものな。
そうそう、以前楽器店で本を立ち読みしていたところ、誰かがバイエルを弾いていた。僕のことをよく立ち読みする奴だと思った人は鋭い。きっと購入する金がないのだろうと思った人はなお鋭い。ふと我に返ったときに耳に入ったと思ってください。まずい演奏だ。子供だろう、許そう。そうはっきり思ったわけではないけれど、およそそんな感じ。
再び読書に没頭して、しばらくして又我に返ったら、まだ弾いている。えーい、熱心な子供だ、早く消えうせろ、僕は一瞬そう罵って(ひどい大人だね)またまた読書に専念した。
次に我に返って、なおもバイエルが聴こえるに及んで、ようやくこれがCDだと悟った。うむ、最近は録音技術が発達して実音と区別がつかない。なんて感心するはずがないじゃないか。
あんまり下手なので本能的に?子供が弾いていると思ったのだった。しかし理性的に、あるいは事実に即して考えれば、バイエルは「ピアニスト」より子供の方が上手なのだった。読書をしながらだと、冷静な判断が出来ないことが分かって、とてもためになった。
話は横道に逸れそうになるが、今回に限ってはそうでもない。いや、大いに関係があると言ってもよいほどなのである。
そもそも技巧とは何か。内容とは何か。初めに挙げた教師の言葉から、その人は技巧と技術を同義に使っていると思われる。勘違いしてもらいたくないのだが、技巧と技術の差を論じたいのではない。(それについては、強いて言えば技巧は技術に含まれるとでも言っておこうか)
音の数が少ない、一見平易に見えて表現することが困難な曲を内容のある曲と呼ぶところからして、想像が付く。
さて、技巧的な曲をしこたまさらいこんだ若い人が首尾よく?歳をとったとしよう。今や指が動かなくなって技巧的な曲に手を染めることもままならず(この状態は早い人では30位、遅い人で50位かな、効き目には個人差がございますという怪しげな商品同様、個人差がございます)ついに禁断の、いや憧れの「内容豊富な」音が少ない曲を目のあたりにするのだ。
どんな演奏になると思いますか?まず例外なく小学生以下のレベルだろうね。子供は無心に弾くもの。内容豊富なんて余計なことを考えないもの。
もう一度ちょっとわき道へ入らせてもらえば、集中しようと思うのが一番の邪念なのだ。
無心に音を並べる子供に対して、今憧れの「内容豊富」な曲にチャレンジしようという人は意欲と知識がありすぎる。囲碁の格言に下手な考え休むに似たり、とあるけれど、かの知識はそれ以下かもしれない。知識というより噂話の集積みたいなものだからね。
たとえばシューベルトのイ短調のソナタでも例にとろうか。4楽章まである大きなやつのことだ。最初のユニゾンひとつとっても、次の和音をとっても、簡単に見えることこれ以上のものは少ないだろう。それなのにここを弾くことすらできる人はそう多くない。
そういった、演奏に不備不満があった時、奏者は解釈の問題、もしくは気持ちの問題と考えてしまう。奏者ばかりではない、批評家も、聴衆も。それは間違いなのであって、ここでも必要なのは技術的裏づけなのだ。
演奏に不備不満があったとき、と書いたけれど、ありていに言えばそんな自己批判ができるならば、それだけでひとかどのものさ。若いころから避けてきているのだもの、いざ急に音符の少ない曲に挑戦しようにも、美しさ、難しさを実感していないわけだ。実感していないで「ないよう、ないよう」と言ったって「無いよう、無いよう」になるのは不思議でも何でもあるまい。
もっとも、この国では歳を重ねると「枯れた味が出てきた」と勝手にレッテルを貼ってくれることがある。それを期待しても良いのかもね。
最後に真面目に書いておく。枯れるためには成熟せねばならない。成熟するには若々しくあらねばならない。僕は残念ながら成熟した人をほとんど知らず、若々しい人もたくさんは知らない。若々しくある素地のある人なら、おそらくどっさりいる。必要なのは伯楽なのかもしれない。
生徒の友人たちの多くが、自分の教師から「若いうちは技巧的な曲をたくさんやっておけ。内容のある曲は歳を重ねてからすればよい」と助言されて、皆それに従っているというのである。
内容のある曲とは何か、などと話を難しくすると、もう何が何やら分からなくなるが、少なくとも教師たちは例えばシューベルトの諸作品のように、音符の数が少ない曲のことを指すと思っていれば大体正しいようである。
音符の数が少なければ内容がある、というわけではないよ。そうだとしたらバイエルなんかは内容豊富だということだものな。
そうそう、以前楽器店で本を立ち読みしていたところ、誰かがバイエルを弾いていた。僕のことをよく立ち読みする奴だと思った人は鋭い。きっと購入する金がないのだろうと思った人はなお鋭い。ふと我に返ったときに耳に入ったと思ってください。まずい演奏だ。子供だろう、許そう。そうはっきり思ったわけではないけれど、およそそんな感じ。
再び読書に没頭して、しばらくして又我に返ったら、まだ弾いている。えーい、熱心な子供だ、早く消えうせろ、僕は一瞬そう罵って(ひどい大人だね)またまた読書に専念した。
次に我に返って、なおもバイエルが聴こえるに及んで、ようやくこれがCDだと悟った。うむ、最近は録音技術が発達して実音と区別がつかない。なんて感心するはずがないじゃないか。
あんまり下手なので本能的に?子供が弾いていると思ったのだった。しかし理性的に、あるいは事実に即して考えれば、バイエルは「ピアニスト」より子供の方が上手なのだった。読書をしながらだと、冷静な判断が出来ないことが分かって、とてもためになった。
話は横道に逸れそうになるが、今回に限ってはそうでもない。いや、大いに関係があると言ってもよいほどなのである。
そもそも技巧とは何か。内容とは何か。初めに挙げた教師の言葉から、その人は技巧と技術を同義に使っていると思われる。勘違いしてもらいたくないのだが、技巧と技術の差を論じたいのではない。(それについては、強いて言えば技巧は技術に含まれるとでも言っておこうか)
音の数が少ない、一見平易に見えて表現することが困難な曲を内容のある曲と呼ぶところからして、想像が付く。
さて、技巧的な曲をしこたまさらいこんだ若い人が首尾よく?歳をとったとしよう。今や指が動かなくなって技巧的な曲に手を染めることもままならず(この状態は早い人では30位、遅い人で50位かな、効き目には個人差がございますという怪しげな商品同様、個人差がございます)ついに禁断の、いや憧れの「内容豊富な」音が少ない曲を目のあたりにするのだ。
どんな演奏になると思いますか?まず例外なく小学生以下のレベルだろうね。子供は無心に弾くもの。内容豊富なんて余計なことを考えないもの。
もう一度ちょっとわき道へ入らせてもらえば、集中しようと思うのが一番の邪念なのだ。
無心に音を並べる子供に対して、今憧れの「内容豊富」な曲にチャレンジしようという人は意欲と知識がありすぎる。囲碁の格言に下手な考え休むに似たり、とあるけれど、かの知識はそれ以下かもしれない。知識というより噂話の集積みたいなものだからね。
たとえばシューベルトのイ短調のソナタでも例にとろうか。4楽章まである大きなやつのことだ。最初のユニゾンひとつとっても、次の和音をとっても、簡単に見えることこれ以上のものは少ないだろう。それなのにここを弾くことすらできる人はそう多くない。
そういった、演奏に不備不満があった時、奏者は解釈の問題、もしくは気持ちの問題と考えてしまう。奏者ばかりではない、批評家も、聴衆も。それは間違いなのであって、ここでも必要なのは技術的裏づけなのだ。
演奏に不備不満があったとき、と書いたけれど、ありていに言えばそんな自己批判ができるならば、それだけでひとかどのものさ。若いころから避けてきているのだもの、いざ急に音符の少ない曲に挑戦しようにも、美しさ、難しさを実感していないわけだ。実感していないで「ないよう、ないよう」と言ったって「無いよう、無いよう」になるのは不思議でも何でもあるまい。
もっとも、この国では歳を重ねると「枯れた味が出てきた」と勝手にレッテルを貼ってくれることがある。それを期待しても良いのかもね。
最後に真面目に書いておく。枯れるためには成熟せねばならない。成熟するには若々しくあらねばならない。僕は残念ながら成熟した人をほとんど知らず、若々しい人もたくさんは知らない。若々しくある素地のある人なら、おそらくどっさりいる。必要なのは伯楽なのかもしれない。
技巧は数量化できそうにも思う。指を速く動かすというのは、運動だから、100メートルを何秒で走るか、というのと同じように計測して、達成度を数値化
できそうだ。技巧は言葉で記述できる。科学的に指の筋肉のメカニズムを解明するなどして、よい練習法が開発できたりするのではないか。技巧の習得は、音楽的な感性を育むことと直接の関係はないのかもしれない。
ハノンなんて技巧を磨くためだけのもので、内容はないんでしょ。
バイエルは上手く弾けるものだろうか。「上手く」とは美しく、聴き手を感動させるように、ということだが。ツェルニーや、ブルクミューラーは? 彼らの曲に対し、私は、少なくともモーツァルトやシューベルトと同じように耳を傾けることはできない。
内容は言葉にしにくい。それについて語ろうとすると、洞窟の壁に映った影を追いかけているような心許なさがある。言葉自体が影なのか。
「枯れた味わい」「枯淡」など、日本特有の美意識を表わしているのかもしれない。でも西洋の作曲家でも晩年の作品にそうした形容をしたくなるときがある。