有難いことに最近では古い録画が簡単に手に入る。もっとも残っていて、価値が認められてはじめて陽の目を見るという点だけは残念だが。価値を認める側にいたいものだね。決定権とか人事権に人間が固執するのもわかるよ。もしも古い録音録画すべてを聴いて価値あるものを製品にする権限を与えられたならば、と夢想することがある。
世の中にはまだいくらでも古い古い映像などが眠っていると思われる。
たとえば、僕が持っているもので、昔のドイツ系指揮者ばかり集めた映像がある。僕はマニアではないので、僕の所有しているものは誰でも手に入るものばかりなのである。
もし他と違う点があるとすれば、演奏者の技量を間違いなく、先入観無く見抜くところくらいかな。読んでくださっている人は何という自惚れだと呆れるかもしれないけれどね。
たとえばマックス・フォン・シリングスという作曲家がいた。後期ロマン派と呼ばれる作曲家たちの一人だ。この人がベルリンオペラのオーケストラとウィリアム・テルの序曲を演奏している。
この曲は冒頭にチェロのソロがある。ここで弾いているのが誰なのか、おそらく主席チェロ奏者なのだろうが、初めて聴いたときびっくりした。実に密度が高く、技術的にも高度なのだ。今日では「無名」の奏者なのに、今日名声をほしいままにしている誰よりも上手い。
映像なので体の使い方まで見えるのが有難い。今日の弦楽器奏者のボーイングはまずい、というのが弦楽器には素人である僕の「玄人的観察」なのだが、この人はやはり密度の高い音を持続させるに必要な腕の使い方、体の使い方をしているのが見て取れる。
シリングスは、いかにも素人指揮といった感じが出ている。もっともこの人はよく指揮もしたらしいが。それでも、動作から見えるのは、何と言おうか、可愛いとでも言っておこうか、そんな感じなのである。これは褒め言葉だ。作品に対する敬愛は大きく、自己愛はできる限り小さく(自己愛がまったくない人間なぞいやしない。自分はそうだと主張する人は偽善者さ)それを感じさせる演奏家がこの時代には大勢いたとしみじみ思う。
彼ら、僕よりもはるかに能力を有していた人たちでも、つい「可愛い」と形容したくなる。裏を返せば、今日の演奏家はまったく可愛くないのだ。ぺんぺん草程度の技量と恐竜並みの頭脳しか持ち合わせていないのに、プリンスだの女王だの貴公子だの美人だの、いいかね、誰でも歳をとる、ジジイババアになっても、いやその時に一層よい演奏ができるように自分を育てたまえ、と忠告しなければならない奏者ばかり出てくる。可愛くないと言う所以である。嘘だと思ったらしわ作りの手術でもしてごらん、潮が退くように人が去るから。それでは悲しかろう、という老婆心さ。
無名の(断るまでもないがあくまで今日ね、当時はそれなりの名声を有していただろう)チェリストといえば、ティボー・デ・マヒュラ(何て読むのかまったく分からないから適当にカタカナ書きしたけれど)という人にも感心した。シューマンの協奏曲を弾いている。
一番よいのは自身で判断がつく耳を持つこと。ただ、それが易しくはないのは認める。それならば絶対信頼できる耳を持つ人を見つけること。骨董漁りしかり、ルーレットしかりさ。博打なんて、いよいよとなったらついている奴に乗っかるのが手っ取り早いのだ。
先入観くらい厄介なものはない。いったん持ち上げられるとついその気になるのは人間の弱さだろうが、聴衆のみならず演奏家本人まで錯覚に陥るようである。
世の中にはまだいくらでも古い古い映像などが眠っていると思われる。
たとえば、僕が持っているもので、昔のドイツ系指揮者ばかり集めた映像がある。僕はマニアではないので、僕の所有しているものは誰でも手に入るものばかりなのである。
もし他と違う点があるとすれば、演奏者の技量を間違いなく、先入観無く見抜くところくらいかな。読んでくださっている人は何という自惚れだと呆れるかもしれないけれどね。
たとえばマックス・フォン・シリングスという作曲家がいた。後期ロマン派と呼ばれる作曲家たちの一人だ。この人がベルリンオペラのオーケストラとウィリアム・テルの序曲を演奏している。
この曲は冒頭にチェロのソロがある。ここで弾いているのが誰なのか、おそらく主席チェロ奏者なのだろうが、初めて聴いたときびっくりした。実に密度が高く、技術的にも高度なのだ。今日では「無名」の奏者なのに、今日名声をほしいままにしている誰よりも上手い。
映像なので体の使い方まで見えるのが有難い。今日の弦楽器奏者のボーイングはまずい、というのが弦楽器には素人である僕の「玄人的観察」なのだが、この人はやはり密度の高い音を持続させるに必要な腕の使い方、体の使い方をしているのが見て取れる。
シリングスは、いかにも素人指揮といった感じが出ている。もっともこの人はよく指揮もしたらしいが。それでも、動作から見えるのは、何と言おうか、可愛いとでも言っておこうか、そんな感じなのである。これは褒め言葉だ。作品に対する敬愛は大きく、自己愛はできる限り小さく(自己愛がまったくない人間なぞいやしない。自分はそうだと主張する人は偽善者さ)それを感じさせる演奏家がこの時代には大勢いたとしみじみ思う。
彼ら、僕よりもはるかに能力を有していた人たちでも、つい「可愛い」と形容したくなる。裏を返せば、今日の演奏家はまったく可愛くないのだ。ぺんぺん草程度の技量と恐竜並みの頭脳しか持ち合わせていないのに、プリンスだの女王だの貴公子だの美人だの、いいかね、誰でも歳をとる、ジジイババアになっても、いやその時に一層よい演奏ができるように自分を育てたまえ、と忠告しなければならない奏者ばかり出てくる。可愛くないと言う所以である。嘘だと思ったらしわ作りの手術でもしてごらん、潮が退くように人が去るから。それでは悲しかろう、という老婆心さ。
無名の(断るまでもないがあくまで今日ね、当時はそれなりの名声を有していただろう)チェリストといえば、ティボー・デ・マヒュラ(何て読むのかまったく分からないから適当にカタカナ書きしたけれど)という人にも感心した。シューマンの協奏曲を弾いている。
一番よいのは自身で判断がつく耳を持つこと。ただ、それが易しくはないのは認める。それならば絶対信頼できる耳を持つ人を見つけること。骨董漁りしかり、ルーレットしかりさ。博打なんて、いよいよとなったらついている奴に乗っかるのが手っ取り早いのだ。
先入観くらい厄介なものはない。いったん持ち上げられるとついその気になるのは人間の弱さだろうが、聴衆のみならず演奏家本人まで錯覚に陥るようである。
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