季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

西岡常一さん

2008年12月26日 | 
知っている人はとっくに知っているから、いまさら紹介するのも気がひけるのだが。

この人は法隆寺付きの宮大工だった。

もうかれこれ20年になろうか、小学館から「木に学べ」という本が出ていて、その著者が西岡さんだった。西岡さんについて当時はまったく知らなかったのだが、一読して感服した。この本は今では文庫本として出版されています。若い人たちに、もちろん年配の人たちにも、ぜひ読んでもらいたい本だ。

道具についてずいぶん多くのページが割かれていて、それが退屈でぴんと来ない人はそこをとばして読んでも一応分かる。

しかし、本当は「槍カンナ」(本当はヤリガンナと読むが、関西弁のことだと思う人がいるような気がしてね、いや失礼)など、西岡さんが復元させた昔の大工道具などについての、詳しい解説を是非読んでもらいたいのだが。

ここで少しでも紹介しようと思って本棚を探したのだが見つからない。誰かに貸したような気もする。

こういうことが多い。そういえば数人に数百万円貸したような気もする。我が家に蓄えがないのはそのせいだったのか!安心した。借りた人がいたら返してね。

記憶に頼って書く。

西岡さんが携わった古代建築の修理や薬師寺再建の折、いわゆる建築学者と様式をめぐって激しいやりとりがあったという。学者はたとえば屋根の反りを玉虫厨子と同じにするべきだと主張する。西岡さんに言わせれば、学者は頭での様式論でしかものを言わない、玉虫厨子は模型だからあの反りが可能なので、実際の寺院建築では絶対に無理だという。最後には学者を現場に連れて行き、実際に木を組んで見せて「これでもあんたはできると言うか」とやり込めたという。

学者が何を言おうと、自分は実地で知り尽くしておるから慌てまへんな、と言い切るのである。こういう人は迫力がある。

薬師寺に行ったことのある人は西岡さんの仕事に直接触れているのである。随所に鉄筋やコンクリートが使用されているけれど、じつはただ申し訳においてある、そうしないと建築基準法(だったかな)にパスしないからで、本当は檜だけのほうがよっぽど長くもつのだという。

現代人は鉄やコンクリートに対して信仰といってよいほど信頼感を持っているけれど、いったい誰がコンクリートの本当の強度を科学的に知っているか。また、檜の本当の強度や特性を科学的に知っている人がいるのか。

こういうことになると学問が材料に及ばないではないか、と西岡さんは言う。まったく異論反論の余地はあるまい。

鉄にしたところで、昔のように鍛冶屋が何べんも何べんも打って鍛えたものは、鉄が何層にも重なっているから(パイの皮のようなイメージを持てばよい)一番上が錆びても次の層、また次の層となるので、法隆寺に使われている釘は千年でも保つ。しかし現代のように溶鉱炉から溶けて流れたものを型に流し込むようなものは百年ももたない、という。

彼の言うとおりだろう。学者より現場で腕を振るうひとの言を僕は信じる。西岡さんの本はそういう気迫、迫力に満ちている。それでいてもっとも深いところで謙虚なのである。

四国にひとり鍛冶屋がいて、その人が千年たってもまだ保つ釘を造るのだそうだ。一本に大変な労力を要し、もちろんそれでは食べていけないからふだんは鍋などを作っているらしい。

西岡さんがこの人に目をつけ、薬師寺建立のための釘をつくってくれ、と依頼したという。

この鍛冶屋の仕事振りを昔テレビで見たことがある。胸を打たれた。仕事場に西岡さんの写真が掲げてあった。「この人なくして私はありませんでした」と語る姿も、昔風に言えば、ありがたかった。こういう世界もあるのだ。


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