べヒシュタインが主催する国際コンクールがある。まだ歴史は浅いけれど、少なくとも規模は大きなコンクールだと思う。
生徒から要綱をもらってすぐに気がついたことがある。
日本はことピアノに関する限り、世界の中でほぼ無視された存在だということ。
日本人は相変わらず大勢がピアノを習い、留学をし、海外のメーカーを買い、ひと言でいえば日本のマーケットを抜きにして世界のピアノ産業が成り立たないはずなのに、世界数箇所で開かれる予備予選はソウルが選ばれているのに対し、日本では行われないらしい。(もしかすると神戸あたりで開催されるかもしれないとのことだが)
日本のピアノ界では無用の自負心ばかりが目立つと僕には感じられる。各地で開かれている大小さまざまなコンクールでも、その「ステイタス」が上がればあがるほど、真剣な演奏はゆとりがない、として敬遠されていく傾向にある。
僕のところには色んな音大の学生が来るけれど、その生徒がついている(僕以外のね)先生から言われることは、大体においてそれを裏付けるようだ。
曰く、せっかくきれいに弾けているのだから見た目にも美しく。簡単な所でくらいは上を向きなさい。お前は坂本九か、と突っ込みたくなるね。
そもそも上を向くことがそんなに美しく見えることだろうか。僕の常識では、いや世間の常識では、目的にかなった動きこそが美しいというのだが。
福原愛選手がジゼルを踊るバレリーナと同じ格好でプレーしてごらんなさい。みんな吹き出すことになる。同様にバレリーナが「サー」と拳を握り締めたら吹き出す。
これはこれで他のテーマになりそうだから先を急ぐ。
太宰治を僕は好まない。それでもはるか昔にたくさん読んでいるから、いくつかの場面を思い出す。
「人間失格」の主人公は人の気を惹こうとばかりする自意識過剰な男だが、高校生のとき(だったかな、中学だったかもしれない。いや、小学校?幼稚園?まあどれでも同じことだ)体育の時間に鉄棒の演技をする。
笑いを誘うためにわざと失敗をして目論見どおりみんなの失笑を買う。頭をかきかき「演技」の成功に満足していたところ、クラスにいた知恵遅れの生徒がスッと近寄ってきて耳元で「わざ(わざとやったとの意)」と囁く。
主人公は見抜かれたことにギクリとした、と書いている。
昨今の演奏を聴いて(見て)僕はこの場面をよく思い出す。至る所で「わざ・・」と囁いて歩きたい気持ちなのである。
では韓国人ピアニストはそんなことはしないのだろうか。どういたしまして、これはすごい。(以前にも書いたが、すごいなんて書くのは僕は好まない。でも他に言いようがない気がするから目をつむって書く)
これでもか、これでもかという勢いだ。上を向くくらいでは足りない。海老反り、鼻腔拡張、牛丼食いのような口モグ、何でもある。ないのは宙返りくらいだ。その点でクラシックはいくら人気者でもバック転しながら歌うグループには敵わない。でも「わざ・・」と囁いたところで聞こえないような気がする。「技」と勘違いされそうな気がする。
先に日本人は自負心が強いようだと書いたのは、この手の「パワー」を示すことはもう気恥ずかしくてできない、なにやらそんな気配を感じるのだ。そんな初心者みたいな、あからさまなことははしたなくてできない、お上品に上を向いて弾きましょう。汗?とんでもない、そんなものはお化粧が剥げるでしょう。(いや、僕は冗談を書いているのではない。つい先日も汗をかいて弾くなんて汚い、と言われたという人に出会った)
ヨーロッパ人が音楽を分かっているとはもはや思わない。彼らの判断がすべてではない。ただ、彼らは今日でも「全力」をあげることが品のない、格好悪いことだとは決して思っていない。
だから韓国の演奏家の海老反りを「熱演」と見做し、熱演しない日本人を敬遠する傾向が出た。僕はそう思っておく。
日本人で、自分は本当にこう感じる、と強い気持ちを持った人は周囲の目を気にせずに遮二無二演奏したら良いのにと思う。詰まらない見栄を張らずに、ただ正直に、僕はそれを切望する。
生徒から要綱をもらってすぐに気がついたことがある。
日本はことピアノに関する限り、世界の中でほぼ無視された存在だということ。
日本人は相変わらず大勢がピアノを習い、留学をし、海外のメーカーを買い、ひと言でいえば日本のマーケットを抜きにして世界のピアノ産業が成り立たないはずなのに、世界数箇所で開かれる予備予選はソウルが選ばれているのに対し、日本では行われないらしい。(もしかすると神戸あたりで開催されるかもしれないとのことだが)
日本のピアノ界では無用の自負心ばかりが目立つと僕には感じられる。各地で開かれている大小さまざまなコンクールでも、その「ステイタス」が上がればあがるほど、真剣な演奏はゆとりがない、として敬遠されていく傾向にある。
僕のところには色んな音大の学生が来るけれど、その生徒がついている(僕以外のね)先生から言われることは、大体においてそれを裏付けるようだ。
曰く、せっかくきれいに弾けているのだから見た目にも美しく。簡単な所でくらいは上を向きなさい。お前は坂本九か、と突っ込みたくなるね。
そもそも上を向くことがそんなに美しく見えることだろうか。僕の常識では、いや世間の常識では、目的にかなった動きこそが美しいというのだが。
福原愛選手がジゼルを踊るバレリーナと同じ格好でプレーしてごらんなさい。みんな吹き出すことになる。同様にバレリーナが「サー」と拳を握り締めたら吹き出す。
これはこれで他のテーマになりそうだから先を急ぐ。
太宰治を僕は好まない。それでもはるか昔にたくさん読んでいるから、いくつかの場面を思い出す。
「人間失格」の主人公は人の気を惹こうとばかりする自意識過剰な男だが、高校生のとき(だったかな、中学だったかもしれない。いや、小学校?幼稚園?まあどれでも同じことだ)体育の時間に鉄棒の演技をする。
笑いを誘うためにわざと失敗をして目論見どおりみんなの失笑を買う。頭をかきかき「演技」の成功に満足していたところ、クラスにいた知恵遅れの生徒がスッと近寄ってきて耳元で「わざ(わざとやったとの意)」と囁く。
主人公は見抜かれたことにギクリとした、と書いている。
昨今の演奏を聴いて(見て)僕はこの場面をよく思い出す。至る所で「わざ・・」と囁いて歩きたい気持ちなのである。
では韓国人ピアニストはそんなことはしないのだろうか。どういたしまして、これはすごい。(以前にも書いたが、すごいなんて書くのは僕は好まない。でも他に言いようがない気がするから目をつむって書く)
これでもか、これでもかという勢いだ。上を向くくらいでは足りない。海老反り、鼻腔拡張、牛丼食いのような口モグ、何でもある。ないのは宙返りくらいだ。その点でクラシックはいくら人気者でもバック転しながら歌うグループには敵わない。でも「わざ・・」と囁いたところで聞こえないような気がする。「技」と勘違いされそうな気がする。
先に日本人は自負心が強いようだと書いたのは、この手の「パワー」を示すことはもう気恥ずかしくてできない、なにやらそんな気配を感じるのだ。そんな初心者みたいな、あからさまなことははしたなくてできない、お上品に上を向いて弾きましょう。汗?とんでもない、そんなものはお化粧が剥げるでしょう。(いや、僕は冗談を書いているのではない。つい先日も汗をかいて弾くなんて汚い、と言われたという人に出会った)
ヨーロッパ人が音楽を分かっているとはもはや思わない。彼らの判断がすべてではない。ただ、彼らは今日でも「全力」をあげることが品のない、格好悪いことだとは決して思っていない。
だから韓国の演奏家の海老反りを「熱演」と見做し、熱演しない日本人を敬遠する傾向が出た。僕はそう思っておく。
日本人で、自分は本当にこう感じる、と強い気持ちを持った人は周囲の目を気にせずに遮二無二演奏したら良いのにと思う。詰まらない見栄を張らずに、ただ正直に、僕はそれを切望する。
可笑しいなどと言ってはいけないかもしれませんが。
そういえば大学の時、ピアノ同好会のコンサートに出る人が、どういうパフォーマンスをしようかと念入りに計画していました。曲のどこで目を閉じて上を向いて、どこで頭を振って、と。それはポップスの曲なのでまあ・・・立ち上がって足上げたりお尻を振るくらいまでやれば?!と冗談めかして言いましたが。
エンターテイメントを目指すならそういう方向になるのでしょうね。
そういえば一昔前のピアニストの映像で「熱演」を演じているものはとんと見かけませんね。ホロヴィッツも「熱演」を真似してみせてI don't do like that.と笑って茶化してました。The music is inside.
審査員から演奏者が見えないように審査員の前に目隠しを立てるなんてどうでしょう?
誰が弾いているのかも審査員には分からないようにするとか。
汗をかいて弾くなんて汚い・・・とは思いませんでしたが、以前ある有名なピアニストの演奏をTVで見ていたときのこと、演奏が進むにつれて黒い燕尾服の肩のあたりがどんどん白くなっていくので変だなあ、と思って見ていました。???はて何だろう?・・・ああ!そうか!
フケが積もってるんだ!ちょっとこれは汚いなあ・・・とそればかり気になってしまったことがあります。
~「ステイタス」が上がればあがるほど、真剣な演奏はゆとりがない、として敬遠されていく傾向にある。~
このくだりが理解ができませんでした。どういうことなのでしょう。
これでも分かり辛いかもしれません。
「私はこんな曲、簡単に弾けるよ」式の演奏。もちろん簡単に弾けたってよいのですよ。でも懸命に弾いたってよいはずなのに、そちらは敬遠されるように思われるので。