ドビュッシーの「月の光」は人気のある曲だ。
昨夜(書いている時点だからね)いつの間にか雨も上がり、気がつくとうっすらと月の姿が見え、明日は晴れるなあと思った。ヨーロッパだってこんな月は見られるのに、詩歌に歌われることは無いのがおもしろい。絵にも無いのではなかろうか。(フリードリッヒが描いている)
つまり、こうした月に詩情を感じないということなんだろう。
でもおフランス帰りの人の「月の光」はどっちかというと昨夜の月だと思った。
今書きたくなったことは、しかしまったく別のことだ。
こんなに身近で、ウサギが住んでいないことが分かったとたんロマンも何もすっかり失った天体について、実は何も分かっていないに等しいらしい。
そもそも月は衛星としては巨大すぎるらしい。だから地球と連星だとみなす学者もいるという。
どうやってできたかについても諸説あるが、決め手に欠ける。以前は地球から分かれて出現したとの説が有力だったが、いざ岩石の古さを測定できるようになると、なんと月のほうが古いことが分かった。すると月が地球から派生したとの説はおかしなことになる。
敢えてその立場に固執することも可能だろうが、その場合放射性同位元素の半減期を計測して岩石の年齢を知るという方法自体に疑問を呈さなければならない。
僕としては、疑問を呈してもらったほうが面白い。外野は大体において面白半分だから、僕の無責任な興味も許してもらおう。
物理の世界では定数(光の速さや重力gなど)は不変だと決まっているが、実際の計測値はかなりのばらつきがあるそうだ。
その場合は計測のミス、あるいは機器の不具合と見做されている。分からないでもないけれど、その態度は科学的ではないと疑問を呈する科学者もいる。僕はそういう人のほうが面白くて好きだね。
月に戻って、宇宙空間をさまよっていた天体が偶然地球の引力圏の入ってきて捕らえられたという説もある。現在はこの説がもっとも有力なのではないだろうか。
ただ、この説をとる人は、ではどうして月の公転軌道は真円なのかという疑問に答えられないという弱点を持つ。軌道はどうしたって楕円軌道になるはずだから。
他にも説明が難しすぎることはいくつもある。月の自転と公転がぴったり一致しているから月は常に同じ面しか見せないわけでしょう、そんな偶然がどうやって起こりえるのか。とてつもなく低い確率でしょう。そんなことが起こりえるのならば宝くじが数回大当たりしたって良いはずだ。
なんだかくじ運が悪いのを当り散らしそうになったが。
確率の話になれば、月が見かけ上の大きさが太陽の見かけ上の大きさと一致することだって充分すぎるくらい珍しいのだ。
天文学ははるかかなたに研究の対象を広げているけれど、こんな身近で素朴な疑問にすらまともに答えられていないのだ。
ここから先はどこかで読んだだけの知識で、噂話の域を出ないが。
アポロ何号かが月に着陸して、再離陸した際、切り離したロケットを月面に衝突させ、地震計で振動を計測したところ20分以上止まなかったという。ホントかいな。だってこれは月の内部が空洞かもしれない、ということにもなりかねないでしょう。
以上、見慣れた月だが、分からないことだらけだ。美しさだってそうだ。今夜月をよく見て御覧なさい。目を凝らせばウサギが跳ねているのが見えるかもしれない。耳をすませばウサギが「やーい、やーい、バーカ、バーカ」と踊りながら言っているのが聞こえるかもしれない。
昨夜(書いている時点だからね)いつの間にか雨も上がり、気がつくとうっすらと月の姿が見え、明日は晴れるなあと思った。ヨーロッパだってこんな月は見られるのに、詩歌に歌われることは無いのがおもしろい。絵にも無いのではなかろうか。(フリードリッヒが描いている)
つまり、こうした月に詩情を感じないということなんだろう。
でもおフランス帰りの人の「月の光」はどっちかというと昨夜の月だと思った。
今書きたくなったことは、しかしまったく別のことだ。
こんなに身近で、ウサギが住んでいないことが分かったとたんロマンも何もすっかり失った天体について、実は何も分かっていないに等しいらしい。
そもそも月は衛星としては巨大すぎるらしい。だから地球と連星だとみなす学者もいるという。
どうやってできたかについても諸説あるが、決め手に欠ける。以前は地球から分かれて出現したとの説が有力だったが、いざ岩石の古さを測定できるようになると、なんと月のほうが古いことが分かった。すると月が地球から派生したとの説はおかしなことになる。
敢えてその立場に固執することも可能だろうが、その場合放射性同位元素の半減期を計測して岩石の年齢を知るという方法自体に疑問を呈さなければならない。
僕としては、疑問を呈してもらったほうが面白い。外野は大体において面白半分だから、僕の無責任な興味も許してもらおう。
物理の世界では定数(光の速さや重力gなど)は不変だと決まっているが、実際の計測値はかなりのばらつきがあるそうだ。
その場合は計測のミス、あるいは機器の不具合と見做されている。分からないでもないけれど、その態度は科学的ではないと疑問を呈する科学者もいる。僕はそういう人のほうが面白くて好きだね。
月に戻って、宇宙空間をさまよっていた天体が偶然地球の引力圏の入ってきて捕らえられたという説もある。現在はこの説がもっとも有力なのではないだろうか。
ただ、この説をとる人は、ではどうして月の公転軌道は真円なのかという疑問に答えられないという弱点を持つ。軌道はどうしたって楕円軌道になるはずだから。
他にも説明が難しすぎることはいくつもある。月の自転と公転がぴったり一致しているから月は常に同じ面しか見せないわけでしょう、そんな偶然がどうやって起こりえるのか。とてつもなく低い確率でしょう。そんなことが起こりえるのならば宝くじが数回大当たりしたって良いはずだ。
なんだかくじ運が悪いのを当り散らしそうになったが。
確率の話になれば、月が見かけ上の大きさが太陽の見かけ上の大きさと一致することだって充分すぎるくらい珍しいのだ。
天文学ははるかかなたに研究の対象を広げているけれど、こんな身近で素朴な疑問にすらまともに答えられていないのだ。
ここから先はどこかで読んだだけの知識で、噂話の域を出ないが。
アポロ何号かが月に着陸して、再離陸した際、切り離したロケットを月面に衝突させ、地震計で振動を計測したところ20分以上止まなかったという。ホントかいな。だってこれは月の内部が空洞かもしれない、ということにもなりかねないでしょう。
以上、見慣れた月だが、分からないことだらけだ。美しさだってそうだ。今夜月をよく見て御覧なさい。目を凝らせばウサギが跳ねているのが見えるかもしれない。耳をすませばウサギが「やーい、やーい、バーカ、バーカ」と踊りながら言っているのが聞こえるかもしれない。
参考:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1017664
やはり同じことが書いてありました。
しかも太陽系の惑星にあるほとんどすべての衛星は自転と公転が同期しているんだそうです。びっくりです。そして、その方が安定した普通の状態なのだそうです。自然現象には美しい数の関係が秘められていて不思議ですね。
自分には音階と振動数の関係もとても不思議です。こちらは自然現象とちがってスパッと行かないところが人間の文化らしいところかもしれません。また、そこが計算づくでうまくいかない難しいところなのでしょう。
楽器の音色に関しては色々研究されているのだと思いますが、読んでもどうもピンとこないことが多く、さてその音色をどうやってつくるかという肝心なところはさらに不明です。
先日、子供のバイオリンの先生のお宅にお邪魔した際、100年以上前のグランドピアノ(ibach)がお宅にあり、その音色にびっくりしました。もしかしたらピアノの上にバイオリンが何台も置いてあったから?とも思いましたが、ピアノ自体の響きが豊かなことは確かだと思います。鍵盤をひとつ押しただけなのに全部の弦が鳴っているのではないかという感覚でした。単音でも豊かな倍音を感じる楽器とただ「単音」と感じる楽器では何がどう違うのかつくづく不思議です。ピアノといっても一台一台全然違うので、音の波形がどのくらい違うのか見てみたい気がします。
弾き方や弾く人によってどのくらい変わるのか。また、調律の微妙なさじ加減によっても。波形ではほとんど違いがわからないのではないかとも思いますが。
音は確かに不思議です。必ず物理的数値の差があるのでしょうが、それを見つける前に楽器が消滅してしまうのでは、と案じます(笑)
少なくとも、CD製作では一定周波数以上は耳に影響はないとしてカットしたわけでしょう?実際にはレコードと比べるとあまりに貧弱な音ですね。そうしてみると人間の耳は「科学的」には無意味な領域まで聴いているということですね。そのわずかな差異をクオリティーというのかもしれない。
以前書いてくださった阿佐ヶ谷のSPレコード喫茶で聴くと、LP以上にリアルでしょう、そうなるとテクノロジーとは一体なんでしょうね。
テクノロジーとは・・・ここ数年ずっと考えています。テクノロジーの進化とともに音質はどんどん劣化していくように思えてなりません。しかし、テクノロジーは多くの人が満足するレベルで利便性を追求していくもので、基本的には「多くの人が望む方向」に進み続けていくことを考えるとこの現状も止むを得ないのかもしれません。大多数の人は、レコードは音質が悪くCDの方が音質がよいと考えているからです。もう「音質」の定義からしてよくわかりません。人によって音に求めるものがあまりに違いすぎるようです。
CDによく書かれてある「クリアーな音」を、自分は「痩せ細った貧弱な音」と感じてしまいます。「みずみずしい音」は「わざとらしい加工音」に。大分言葉が悪くなってしまいますが、最近の録音は音が加工されすぎていて気持ち悪く聴こえることが多いのです。
デジタル録音というのは、音の波形を拡大してみるとなめらかな曲線ではなくガタガタの線になるはずですよね。昔の画素数の少ないデジタル写真を拡大したときのように。
音域のカットもそうですが、デジタル音質は「無駄を省き効率よく」つくられた擬似音という印象が拭えません。
音の質というのは、最終的には鼓膜の振動のしかたの問題になり、生音の周波数のどこを省いても鼓膜の振動のようすは変わってくるはずです。途中の音域を省いたり、不可聴音域を省いたりしたら、当然鼓膜の振動は異なってくると考えられます。鼓膜の振動までは生音に忠実だと思うので、そのどこまで正確に拾って脳に伝えることができるかというところに聴覚の感度の問題があると思います。音質の問題と耳の感度の関係を耳の構造に照らし合わせて考えると面白そうですね。
「科学」には必ず前提条件がついてまわるので、科学的結論には適用制限範囲があります。
よくある聴覚実験はヘッドフォンで純粋音を聞かされ、振動数を上げていってどこまで聞こえるかというものだと思います。その音域が本当に不可聴なのか、という問題は、実は依然として残ったままだと思います。また、その音域の振動が他の音域に与える影響については考慮されていないと思います。
ただ、人工音ばかりで育った人間にとっては自然な音よりも人工音に心地よさを感じるということもあり得るかもしれません。「慣れ」というものは恐ろしい。するとやはり楽器はかなり近い将来に消滅してしまうのでしょうか(笑)