季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

日本代表

2008年04月09日 | スポーツ


先日ついにワールドカップのアジア予選が始まった。

むかし、といってもちょっとだけむかし、日本代表チームの弱さといったらなかった。まず第一サッカーの人気なぞまるでなかった。オリンピック最終予選とかワールドカップ予選でも国立競技場はガラガラであった。

友人と千駄ヶ谷で待ち合わせて、当日券を買い、サッカー協会のお歴々のすぐ後ろや前に陣取って、代表監督の批判をしたものである。

まあ、選手以外の他人があれこれ言うのはあまり品格がないというのは正論なのだけれど。無責任だしね。でも、外野からがやがやいうのもスポーツの、いやスポーツ観戦の楽しみでもある。それに、スポーツにもやはり同じ日本の特徴はよく顕れるのである。

日本チームは中盤によい選手が大勢いる。中盤の選手の役割を一口で説明するのは困難だ。殊に近代サッカーはその役割が大きく変わってきているとあってはなおさらだ。

しかし簡単にいえば、得点をあげるためのお膳立てだということ。監督によってシステムは変化するが、その性質は変わらない。

それに対し、敵のゴールにより近く位置し、得点にからむ機会がより多いのがフォワードであるのは言うまでもない。このポジションに人材を欠くのが日本チームの長年の課題である。

といって中盤が、びくともしないというわけではない。

と書き始めて、うっちゃってあった。じつは複数の(10~20)のテーマを、思いつき次第に書き始めておかないと、思いついたことを片端から忘れる、呆け状態なのである。

最初は日本人にはフォワードが育たない理由を考えてみたいと思ったのだ。それはそれとして、後ほど述べてみたい。

岡田という監督になったとき、日本は8割方ワールドカップへの道は絶たれたと思った。僕の処に出入りする人の何人かは、それを聞いているはずだ。

サッカーを好きな人からは、その理由を答えたら呆れられるだろうが、彼の声が駄目である。自信のない人が鎧で固めているうちに、それが身に付いて、自信めいたものに変質した声だ。

はじめに問題点を挙げてしまいたい。マスコミの浅薄さも不安をあおる。この点に関しては、ことサッカーに限るまい。表層の事象をいたずらに追うばかりで、事象の底に潜んでいる問題に迫ろうという気概に欠けすぎている。それがマスコミというものだ、と言えば身も蓋もない。

岡田さんが監督になると「岡ちゃん」でしょう。これが一度負けると、一転して、クビが危ない、戦術がない、となる。それを指摘されれば、評価は結果によって変化するのは当然だと、正論を振り回す知恵だけはもっている。

選手間にも選手同士の緊張は希薄であるように映る。事実、今度のチームは仲が良く、まとまりがある、という声は、選手間からもマスコミからも挙がっている。

この「仲がよい」というやつが日本をむしばんでいるやっかいなものなのさ。この表現は小学校以来よく聞かされたことばでしょう。本当に仲がよいのは大いに結構だ。当然だ。しかし、何でもかんでも表面上の「和気藹々」を美風とするのが過ぎれば、言わねばならぬことも言えない。

それに人間である以上、誰とでも心を許して付き合える道理もない。そこで、距離をおいて「礼節」を保つようにしているのだ。この「距離をおくこと」を否定するのだ、仲良くという表現が蔓延すると。

長くなりすぎるから、続きは書き直します。

絵画鑑賞ツァー

2008年04月07日 | 芸術

日本ではあまり無いような気がする。旅行社が企画するツアーで、名画の鑑賞の旅、これはヨーロッパではずいぶん多かったのではなかろうか。要するにインテリ向けの高級ツアーだ。

僕が参加したのではない。僕がピアノを教えていた、博士号を有した老婦人がこの手のツアーにさかんに参加しては、後日僕に説明をしてくれたものだ。

彼女は僕をインテリの端くれだと勘違いしたらしく、あれこれの最新の研究結果やら、芸術上の見解やらを説明してくれるのだったが、こちらは退屈の極みで、ドイツ語であくびをしていた。

そもそも僕はインテリが嫌いだ。

渥美清演じるところの「寅さん」が、何かにつけて「は~ん、おめぇ、さしずめインテリだな~」と言うのだが、こんな紋切り型でも気分はよく分かる。

たとえば誰それの宗教画がある。イエスと幾人かの人物が描かれている。研究者たちはその場面を、聖書の一場面として特定しようとする。

僕はそうした努力を笑いはしないし、否定もしない。彼らがその作品を高く評価すれば(あえて評価といったが、一番素直な言い方は、心を打たれたならば、だろう)その詳細を知りたくなる、これはじつに自然なことだと思うから。

ただ、研究者の「成果」はいつでも最初の感動に支えられ続けなければならない。断るまでもないが、作品に対する関心が変化することもあるのは、まったく違った話だ。

これは当たり前のようでいて、なかなか難しい。

以前書いたが、十字架上のイエスは昔、ほぼすべての画家が描いた。オランダの画家たちは、皆同じように室内を、レースの衿と袖口の男達を描いた。

それなのに、ある画家は才能があり、他の画家は凡庸なのだ。結局、テーマではない、絵そのものだけが大切だ、という常識から離れるわけにはいかないのである。

はじめてアムステルダムの国立美術館に行ったときの戸惑いを、僕は忘れない。忘れてはいけないと思っている。

美術を好きなつもりで、若気の至りとでも言おうか、勇躍乗り込むといった昂ぶった気持ちだったのだが、どこを見ても同じレースの飾りをつけた男の肖像画ばかり。上手いも下手もまるで見当もつかぬ。ゴッホは手紙の中で、それぞれの画家を論評しているのだ。それを読んでいただけで、僕は何も見ていたわけではなかったのだ。その時、僕は深く思い知らされて反省した。

研究の成果というものが、僕たちの素朴で健康な感受性を損なうという皮肉と、いつでも隣り合わせになっていることを忘れてはならない。忘れた途端、僕たちはインテリに成り下がるのである。

フランス・ハルスの肖像画を1枚載せておく。

シノポリの死に際して

2008年04月05日 | 音楽
以前、友人とほんの短い期間ホームページを共有していたことがあった。そこで一度書いたように記憶するが、それを読んでいない人もきっといることだろうから、同じ主旨で書いておく。

指揮者のシノポリが亡くなったとき、浅田彰さんが死を悼む記事を書いていた。浅田さんを僕はあまりよく知らないが、なんでも日本の知性を代表する人の一人らしい。名前を記すだけでも怖ろしい。

記事で、シノポリは巨大な二面性を持っていたとあった。それは類まれな知性と溢れんばかりの歌である。知性の人という世評とは少し違う、溢れるうたごころの持ち主だった、と浅田さんは書いている。控え室で演奏会後倒れ込む姿をなんども見たそうである。

ここで僕ははたと考え込むのだ。深く鋭い知性と大きなうたごころを併せ持った演奏家を、たしかに僕も何人も挙げることができる。

しかし、大きなうたごころの蔭に深い知性が隠れることはあっても、知性の蔭にうたごころが隠されるということが、いったいあるだろうか。知性の蔭に隠れてしまうものを、溢れんばかりのうたごころと言うのだろうか。

百歩ゆずって、そういうこともあるとしよう。では、そのうたごころを浅田さんはどうやって聴き分けたのだ?控え室で精も根も尽きてソファーに倒れ込む姿なら、きょうの各ホールでの演奏会でも普通にみられる情景なのだ。浅田さんは、まさかそうした情景を目撃したから言うのではないだろうが。

僕には、僕がシノポリをどう評価するかは措いて、この浅田さんの文章自体に納得することはできない。

シノポリの演奏、人間について、結論が先にあって、そこに無理矢理「溢れんばかりのうた」と「類いまれな知性」という観念をあてがった。僕はそうしか思えない。

人は知性という言葉が好きで好きでたまらないのだ。それは構わないけれど、知的なあくび、知的な居眠り等々は文字通り寝言であることを知っておいた方がよい。

繰り返すが、溢れるうたごころを抑えることがあることは否定しない。ただ、その場合の演奏からうたごころを聴き取ることは、ましてや知性を感じさせる演奏の蔭から聴き取ることは不可能だと言っておこう。

適役

2008年04月03日 | 

ロートヴァイラーという犬種がある。ドイツ原産の、いかつい感じのする犬だ。闘犬に向いているような、がっしりした体躯、とてつもなく頑丈な顎を持っている。

ドイツでの犬の散歩は、何頭か連れだって森をぐるりと一周することになっていた。メンバーは大体固定していて、その日によって多少の増減があった。

もっとも、森というのは僕ら日本人の感覚であり、正式には「ベルゲドルフの林」といったニュアンスの呼び名がついていた。散歩のグループはいくつかあったようだ。僕たちは、偶然声をかけてくれたグループに混じって歩いていた。

ロートヴァイラーはいくらドイツ産といっても、そんなにたくさんいる犬種ではない。大抵はグループから外れて、ひとりで連れている人だった。と言っても、ロートヴァイラーだけに獰猛なイメージがあるわけではない。シェパードだって同じようなものだ。あなた達のだけは別だ、他のシェパードは怖いからお断りだ、とグループの人たちが口々に言ったものだ。

よく女性はきれいだとほめられれば、いっそうきれいになると言うでしょう。あれは本当にそうだと思う。

まあ、似たようなもので、なんて言ったら勘違いした女性からぶん殴られそうだが、ロートヴァイラーは怖いと言われ続けていると、飼い主も、自分は怖い犬種が好きなのだ、と思い込んでいく傾向があるのは否定できない。

ドイツにもそんな飼い主がいて、彼は自分のロートヴァイラーを「びしびし」扱っていた。僕のグループにボクサーを飼っている頑固者の爺さんがいた。この爺さんが、ロートヴァイラーの飼い主と出会うごとに「あなたの犬の飼い方はなっちゃいない。間違っている」とはげしく非難した。「これは私の犬だ、放っておいてくれ」と一悶着があるのがコースのなかのスパイスであった。

ある日、その男が自分の犬から噛みつかれて大けがをした、という噂が広まった。爺さんはあごを突き出して「言わんこっちゃない。犬が悪いのではない、あの男が悪いのだ!」とはき出すように言った。その通りだ。

で、そんな怖い犬種だと思い込んでいたのだが、意外な、意外すぎると言う方が良い、適性があるらしい。

お年寄りを訪問する動物たちがいるでしょう、あれに何と、ロートヴァイラーは最適なのだそうだ。これにはびっくりした。

そういう用途に、たとえばシェパードはむかない。シェパードは、一歩外へ出たら、飼い主を注視しつづけ、他人に愛想を振りまいていくことはない。素っ気ないくらいだ。これでは老人ホームに行っても大して役にたたないだろう。

ロートヴァイラーは、そのみかけに相違して、人なつこく、賢いのだという。きちんと躾されていることが前提なのはいうまでもないが。

これを知ったとき、イメージを勝手に作って決めつけるのはまずいと、再認識した。そういえば僕の車を出す修理屋の社長は、一目見ただけですくみ上がるくらい怖い顔をしているけれど、じつに親切で良い人なのだ。ロートヴァイラーよりはるかに怖いものな。今、犬の図鑑を見たら、日本ではロットワイラーと紹介している。全部書き直すのも面倒だからそのままにしておきます。興味がある人は日本での表記にしたがって調べて下さい。


残響

2008年04月01日 | 音楽


ドイツで下宿をはじめたとき、その時に自分の楽器を買ったのであるが、部屋があまりに良く響くので、すっかり嬉しくなってしまった。

古い大きな一軒家の2部屋と小さな台所を借りたのだ。部屋にはひとつタンスが付いているだけで、がらんどうだった上、板張りの床だから、響くなというのが無理な話だ。ハンゼン先生に選んで貰った真新しいスタインウェイはいやが上にも柔らかく響き、今思うといったい何を聴きながら練習していたのか判然としない。

判然といえばハンゼン先生のレッスンはお世辞にも分かりやすいとは言えず、手をあげろ(強盗ではないよ)と言われて一週間手をあげて練習していくと、なぜ手を高くするのだ、下げろ、と注意される。そうか、と下げて弾いていくと、なぜ下げる、手をあげろ、となる。文字通りお手上げで、そうかこの爺さん、ただただ耳で判断してものを言っているのだ、と分かったころにはすでに数年が経過していた。友人と、コンラート・ハンゼンを混乱と判然と呼び変えて憂さを晴らしていた。

今はレッスンについて書こうとしているのではない。僕の借りた部屋がよく響いた話であった。その後何回か引っ越したが、どの部屋も良く響いた。いわゆる吸音材などを使っていた家はないのだから当然だろう。

それでも最初の家は特に印象に残っている。一番気持ちよく響いた。大きなお屋敷街で、通りの向かいの家は、あまり遠くに建っていて、誰が住んでいるやら分からなかった。僕の部屋でピアノに向かいながら、ふと窓に目をやると、その家の庭と、その向こうに広がる森の緑が飛び込んでくる。ハンブルクはドイツで一番、富裕層が多いのじゃなかったかな。お屋敷街は半端ではなく立派だった。外は明るく静まりかえり(曇りばかり続くのに)時折石畳を通るバスの音がするだけだった。

日本での住宅環境といえば、畳に絨毯を敷き詰め、とにかく吸音することに意を用いていたわけだから、この違いは大きかった。

今日、室内の、それも音楽をする人たち用の音響環境は、少なくとも表面上大きく様変わりした。

防音室は(仮に小さくなったとしても)個別に売っているし、さまざまなデータを駆使して音響設計ができる。

そうしたことのうち、僕が気になるのは、響きすぎは練習にならない、というフレーズ、先入観である。

理想的に設計された部屋なるものは、楽器店にでも行けば見ることができる。耳触りが、どう言おうか、あまり出来の良くないリンゴにあたったことは誰でもあるでしょう、そして「ついていないなあ」と思う。これはかなりの味音痴にも、まず分かる感覚だ、そんな感じが耳にくる。

そういう乾いた響きでは練習できない、とはいわない。それは極端な言い方で、僕のような円満な人間は好まない。でも、わざわざ付加的な金額を出してそんな響きをつくり出すことを人に勧めるとしたら、これは問題だ。楽器店の回し者か、音楽をすっかり勘違いしているかの、いずれかだ。

響きがありすぎたら、それが耳に障らないように工夫すればよいだけのことだ。それどころか、そこから耳が養われるといって良い。

広いホールで困るではないか、と心配する人には、では東京ドームに住んだらいかが、と言っておく。そこでガンガンがなり立てれば安心感が増すかい?

技術を磨いていけば、自分の「今」いる空間での響きに合わせて弾くことを覚えていくものである。吸音材ですっかり艶を失った音ばかり聴いていて、どうやって艶のある音を造り出そうという意欲が湧くだろう。最初は、良く響くことに酔いしれるかも知れないが、それを恐れるな、と言いたい。臆病になるな。繰り返すけれど、酔うことを知らないものは、覚醒することもないのだ。