⬛️六千人の命のビ ザ⬛️
1940年7月27日の朝のことである。バルト海沿岸の小さな国リトアニアの日本領事館で領事代理をしていた杉原千畝は、領事館の外がいつもと違って騒々しいのに驚いた。窓の外を見ると、建物のまわりを200人にも上る人々が、黒山のようにうめつくしていた。「ポーランドから逃げてきた人たちのようです。領事にたってのお願いがあると言っています。」リトアニア人の館員バリスラフが言った。
そこで、千畝は、英語かロシア語の話せる5人の代表者を館内に招いた。5人は思いつめた表情で、口々に話し始めた。「私たちは、ポーランドに住んでいたユダヤ人です。このままではナチス・ドイツにつかまって殺されてしまいます。すでに多くの仲間が、収容所に送られ殺されたと聞いています。ソ連のシベリアを通って日本に行き、アメリカやイスラエルにのがれるしか、助かる道はないのです。」
外交官として各国の事情に詳しい千畝は、ヒトラーが、ユダヤ人から職業を奪い、収容所に入れて強制的に働かせ、その上みな殺しにしようとしていることや、オランダやフランスがドイツに敗れたため、ユダヤ人たちが、これらの国々を通って、アメリカに逃れることができなくなってしまったことを知っていた。
「このままならば、領事館のまわりの人々は、いずれナチスにつかまって殺されるに 違いない・・・。」
千畝はつぶやいた。千畝は、一度、席を立って窓の外をのぞいた。ユダヤ人の数は朝よりも増え、何百人もの人が、音も立てず静かに 待っているのが見えた。千畝が席に戻ると、5人の代表は 話を続けた。
「どうか、私たちに日本を通過するビザを発行してください。私達を助けてください。」
彼らはおびえた目で、祈るように千畝を見つめていた。その悲しみと恐怖心がびんびんと千畝の心に伝わってきた。苦しくなった千畝は答えた。
「どうか一晩だけ考えさせてください。」
そのころの日本は、ドイツ、イタリアと軍事面で援助することを約束し合う「日独伊三国同盟」を目指してい た。そのためドイツに敵対するようなことを、外務省が許可しないだろうと千畝は考えた。また、10人や20人でなく、これほど多くの人々にビザを発行することは、領事の権限では簡単にできないことでもあった。しかし、千畝の子ども達は、窓の外でふるえているユダヤ人の子ども達を見て、
「パパ、あの人たちは殺されるの?パパは、きっと助けてあげるよね。」
すっかり、千畝を信頼しきったように話すのだった。
「どうしたらいいだろう?ビザを発行してあげたいが・・・外交官の私は、日本政府の命令にそむくことはできな いし・・・」
その夜、千畝は、なかなか寝つくことができず、まんじりともせずに時を過ごした。深い暗やみに閉じ込められた思いで、考え、迷い、苦しんだ。そして、やがてひとつの決断をくだした。起き上がった千畝は、さっそく東京の外務省に長い電報を打った。じりじりとして待つうちに返事が届いた。答えは、「ノー」であった。外を見ると領事館をとりまくユダヤ人は、いつの間にか千人を超えていた。千畝は、あきらめきれずに2度3度と電報を打った。しかし、答えは、
「ユダヤ人たちは、日本からどこへ行くのか?その国の入国許可証がない限り、ビザを出してはいけない」
つまり「ノー」の返事であった。それに加え、8月3日には、ソ連がリトアニアを正式に併合したため、日本領事館にも8月中に退去するよう命令がきた。日本の外務省からも 「領事館を早く撤収せよ。」 との指示が届いた。ついに意を決した千畝は、妻の幸子に言った。
「私は、ビザを発行しようと思う。彼らを見捨てるわけにはいかない。人として、人間として大事なことがある。本省の命令にそむくんだ。外務省を辞めることになるかもし れない。分かってくれるね。 」
幸子は、うなずきながら言った。
「きっとそうなさると思っていました。私が信じた人ですから。」と。
千畝が、領事館の外に出て、「あなた達すべてにビザを発行する」と告げた時、
しばらくの沈黙の後、喜びの叫び声が上がった。天に向かって手を広げ感謝の祈りをささげる人々、子どもをだき上げてよろこびを抑えられない母親など、「これで助かる」という思いが一気にはじけていた。それからの1ヶ月間、千畝は朝から晩まで1日300人を目標に、ビザを書きつづけた。1人1人に会い、氏名・ 国籍・住所・年齢、最終目的の国などを聞き、日付を入れ、サインをして、日本領事館の印を押す。途中で万年筆も折れても、ペンにインクをつけて書き続けた。そのような時、東京の外務省から、「至急リトアニアの領事館を閉鎖してベルリン(ド イツ)の大使館に移れ」という新しい指令が届いた。
「ビザを書き終わるまで領事館を閉鎖せず、このまま続けよう。」
千畝は、翌日も翌々日も朝から晩まで書き続けた。指が疲れ、腕も疲れ、体はくたくた、睡眠不足で頭がもうろうとしてきた。それでもなお書き続けた。8月28日に領事館を閉鎖し、市内のホテルに移った。ユダヤ人がやってきたので、 ホテルの中でもビザを発行した。いよいよ9月1日の早朝、退去期限が過ぎ、ベルリン行きの国際列車に乗り込もうとした。ここにもビザを求めて何人かの人たちが来ていた。千畝は、窓から身をのり出し、 発車ぎりぎりまでビザを書き続けた。ついに、列車がベルリンに向けて動き出した。
「許して下さい。私にはもう書けません。皆さんのご無事を祈っています。」
千畝は、列車の窓から身をのりだし、涙ながらに人々に言った。
「ミスタースギハラ、私達はあなたのことを決して忘れません。必ず生きてもう一度お会いしましょう。」
列車と並んで泣きながら走ってきた人々も、千畝たちの姿が見えなくなるまでいつまでも叫びつづけていた。千畝が発行したビザは、2139通であると言われてい る。そして、そのビザを持ったユダヤ人たちは、身動きが出来ないほど詰め込まれた列車で、数週間をかけてロシアを通り日本に到着した。敦賀や神戸で数多くの親切な日本人に助けられ、無事にアメリカやイスラエルなどの安全な国に行くことができた。
1947年、戦争が終わって日本へ帰ってきた千畝は、外務省から辞職の勧告を受けた。「やはり命令にそむいてビザを出したことが問題にされているのか」とも思ったが、黙って外務省を去り、実業家としての第2の人生を歩み始めた。そして、リトアニアでのことをいっさい人に話すことなく年月が過ぎていった。
その千畝にイスラエル大使館から電話があったのは、1968年8月のことであった。あの時の5人の代表の1人、ニシュリという参事官が在日イスラエル大使館に勤めてい た。ユダヤ人たちは28年間も千畝を探し、ようやく彼を見つけたのであった。ニシュリは、千畝に会うと、ぼろぼろになった1枚のビザを見せた。「ミスター・スギハラ、あなたが私を覚えていなくても、私は1日もあなたを忘れたことがありません。」2人は、手をかたく取り合って涙を流し再会を喜んだ。
1986年、千畝は86歳でこの世を去った。しかし、その前年の1985年、イスラエル政府は、「諸国民の中の正義の人賞」を千畝に贈り、その偉大な業績を称えた。