【略歴】
1916~1985 年/ 大正 5~昭和 60 年東京下町(下谷)生まれ。師範学校を卒業後小中学校の教師をしながら絵や書の制作に励む。25 歳で書家・上田桑鳩に師事。やがて書壇のあり方に疑問を抱き、桑鳩門を離れ「墨人会」を結成、「アートとしての書」の道を切り開く。閉鎖的高踏的な書壇に抗して「書は万人の芸術である」と主張した。世界的に広がった抽象表現美術に呼応、タピエスやクラインなどからも高い評価を得る。実験的な「一字書」という漢字一文字を大きく書く作品で評価を高め、特に《貧》の一字書は生涯に 64 点書き残し、この書家のトレード・マークとなった。近年、書の本家である中国でも井上有一の書の評価は異例というほど高まっている。
「花をいけるのではない。人をいけるのだ」
花のピカソと呼ばれた草月流家元・勅使河原蒼風先生が「日本一の書」と高く評価してます。
「読み解くべきは文字ではなく、むしろ造形自身に封じ込められた意味内容であった。極端な字数の少なさが、漢字を平面のフォルムから、中空にさ迷いでた作家の情念へと遡行させてしまうかのようだ」