先日,ここに三重県亀山市のお城の公園で見かけた蒸気機関車をアップした。
蒸気機関車なぁ~
たしか,大和五條市の史跡公園に置かれていたのも写真に撮ったはずやけど・・・
探しに探し・・・
やっと見つけた「ハチロク」・国鉄8620形蒸気機関車!
@ハチロク
日本で初めて本格的に作られた蒸気機関車。愛称で「ハチロク」と呼ばれ、全国で使用された。
78675番の本号は、1925年に川崎造船所で作られたものらしい。
かつて和歌山線で運行し、金剛山の麓を駆けた機関車は「金剛ハロー号」と名付けられ、五條市新町3丁目にある五條史跡公園に展示されている。
蒸気機関車なぁ~
たしか,大和五條市の史跡公園に置かれていたのも写真に撮ったはずやけど・・・
探しに探し・・・
やっと見つけた「ハチロク」・国鉄8620形蒸気機関車!
@ハチロク
日本で初めて本格的に作られた蒸気機関車。愛称で「ハチロク」と呼ばれ、全国で使用された。
78675番の本号は、1925年に川崎造船所で作られたものらしい。
かつて和歌山線で運行し、金剛山の麓を駆けた機関車は「金剛ハロー号」と名付けられ、五條市新町3丁目にある五條史跡公園に展示されている。
三重県亀山市の城址の公園で見かけたC58。
蒸気機関車を眺めながら考えた。
私,蒸気機関車に乗ったことあるかな?
@国鉄C58形蒸気機関車
日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が導入した蒸気機関車である。
ローカル線用の客貨兼用過熱式テンダー式蒸気機関車で、8620形と9600形の共通の後継機として設計され、1938年(昭和13年)から1947年(昭和22年)にかけて、431両が製造された。愛称はシゴハチ。
蒸気機関車を眺めながら考えた。
私,蒸気機関車に乗ったことあるかな?
@国鉄C58形蒸気機関車
日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が導入した蒸気機関車である。
ローカル線用の客貨兼用過熱式テンダー式蒸気機関車で、8620形と9600形の共通の後継機として設計され、1938年(昭和13年)から1947年(昭和22年)にかけて、431両が製造された。愛称はシゴハチ。
湯浅町と熊野古道の関連は、平安時代に熊野参詣の往還にあたる宿駅として史料に登場し、
15世紀中頃には熊野街道が発達し、
現在は世界遺産に登録されている熊野への歴史の道となっている。
湯浅町では、石の四面に東西南北の方角を示す熊野街道道標(立石)が
1838年道町の熊野街道筋に建てられ、夕方になるとライトアップされます。
15世紀中頃には熊野街道が発達し、
現在は世界遺産に登録されている熊野への歴史の道となっている。
湯浅町では、石の四面に東西南北の方角を示す熊野街道道標(立石)が
1838年道町の熊野街道筋に建てられ、夕方になるとライトアップされます。
街でスプリンタートレノを見かけた。
懐かしい!
家人が嫁入りの時,持ってきてくれた車。
子どもたちも,あのリトラクタブル式ヘッドライトがお気に入りやった。
@スプリンタートレノ 六代目 AE85/AE86型(1983年 - 1987年)
1983年5月、E80系カローラ&スプリンターシリーズのフルモデルチェンジが行われた。
この代よりE80系カローラおよびスプリンターのセダンとハッチバックは前輪駆動(FF)レイアウトに移行したが、走りを最優先したスポーツモデルであるレビン・トレノは当時のFF駆動方式に対して、スポーツカーとして求められる高い走行性能などにおいてはまだ未知数であったことや、当時の生産工程の改編スケジュールの都合といった要素が絡んだこともあってセダンとハッチバックは実用重視のFFレイアウトを採用し、走りを重視したレビン・トレノに関しては従来どおり後輪駆動(FR)レイアウトといった“2本立て”でリリースする事を決定した。
カローラ・スプリンター史上、後にも先にも同じファミリー内でFFとFRという駆動方式の大きく異なる車種がリリースされたのはE80系だけである。
前述の事からシャシーは先代TE71型のものをベースとしているが隅々に渡って改良が行なわれ、TE71のネックだった1tに迫る重量は大幅に軽減された。エンジンは旧式化した「2TG型」の後継機となる「4A-GE」型を新規開発する。ボディは2ドアノッチバッククーペと3ドアハッチバッククーペの2本立てで、トレノでは当時のスポーツカーの“アイコン的存在”ともいえるリトラクタブル式ヘッドライトを採用し、レビンとの差別化を図った。
また、このAE85型/AE86型はレビン・トレノとして最後の後輪駆動車である。
懐かしい!
家人が嫁入りの時,持ってきてくれた車。
子どもたちも,あのリトラクタブル式ヘッドライトがお気に入りやった。
@スプリンタートレノ 六代目 AE85/AE86型(1983年 - 1987年)
1983年5月、E80系カローラ&スプリンターシリーズのフルモデルチェンジが行われた。
この代よりE80系カローラおよびスプリンターのセダンとハッチバックは前輪駆動(FF)レイアウトに移行したが、走りを最優先したスポーツモデルであるレビン・トレノは当時のFF駆動方式に対して、スポーツカーとして求められる高い走行性能などにおいてはまだ未知数であったことや、当時の生産工程の改編スケジュールの都合といった要素が絡んだこともあってセダンとハッチバックは実用重視のFFレイアウトを採用し、走りを重視したレビン・トレノに関しては従来どおり後輪駆動(FR)レイアウトといった“2本立て”でリリースする事を決定した。
カローラ・スプリンター史上、後にも先にも同じファミリー内でFFとFRという駆動方式の大きく異なる車種がリリースされたのはE80系だけである。
前述の事からシャシーは先代TE71型のものをベースとしているが隅々に渡って改良が行なわれ、TE71のネックだった1tに迫る重量は大幅に軽減された。エンジンは旧式化した「2TG型」の後継機となる「4A-GE」型を新規開発する。ボディは2ドアノッチバッククーペと3ドアハッチバッククーペの2本立てで、トレノでは当時のスポーツカーの“アイコン的存在”ともいえるリトラクタブル式ヘッドライトを採用し、レビンとの差別化を図った。
また、このAE85型/AE86型はレビン・トレノとして最後の後輪駆動車である。
あの日,石清水八幡宮へ行くのに自宅から「京奈和自動車道」を利用した。
京奈和自動車道は、大和平野を南北に縦貫して京都と和歌山を結ぶ延長約120kmの高規格幹線道路。
広域的には、既存の高速道路および主要国道と連携することで相互のネットワークを形成し、近畿大都市圏での時間短縮を図るとともに京都~奈良~和歌山の拠点都市の連携強化を図る役割を持っている。
地域的には、自然と歴史・文化を活かした良好な居住環境を形成し、京奈和地域の特色を踏まえた“まち”づくりを支援するとともに、国道24号の渋滞緩和、交通事故の減少、走行時間の短縮、定時性確保など地域の活性化に寄与する役割を担っているという。
利用した区間は,開通している橿原北IC~郡山南IC(無料)まで。
そこからは一般国道(国道24号)を北へ。
高速道路を建設しようにも,そこには平城京跡が・・・
地下を通すと水脈が変化し,埋もれている木簡等に影響が出る可能性があるという。
地上に建設すると,景観が乱れ,橋脚を建設するのに遺跡を破壊するし・・・
この京奈和自動車道は,県境を越えて京都府内に入ると完成しており有料なのだ。
京奈和自動車道は、大和平野を南北に縦貫して京都と和歌山を結ぶ延長約120kmの高規格幹線道路。
広域的には、既存の高速道路および主要国道と連携することで相互のネットワークを形成し、近畿大都市圏での時間短縮を図るとともに京都~奈良~和歌山の拠点都市の連携強化を図る役割を持っている。
地域的には、自然と歴史・文化を活かした良好な居住環境を形成し、京奈和地域の特色を踏まえた“まち”づくりを支援するとともに、国道24号の渋滞緩和、交通事故の減少、走行時間の短縮、定時性確保など地域の活性化に寄与する役割を担っているという。
利用した区間は,開通している橿原北IC~郡山南IC(無料)まで。
そこからは一般国道(国道24号)を北へ。
高速道路を建設しようにも,そこには平城京跡が・・・
地下を通すと水脈が変化し,埋もれている木簡等に影響が出る可能性があるという。
地上に建設すると,景観が乱れ,橋脚を建設するのに遺跡を破壊するし・・・
この京奈和自動車道は,県境を越えて京都府内に入ると完成しており有料なのだ。
石清水八幡宮でやっと探し当てたエジソン記念碑。
エジソンと石清水の竹か~なんて考えていたら,時代は速い流れで移っていた。
エジソン記念碑の前にあったのは,電気自動車充電コンセント!
年末,日産が電気自動車の販売をはじめたのがニュースに流れていた。
しかし,電気自動車充電スタンドはどこに設置されてるの?
県内で調べてみたら,日産の販売店のみ???
しかも,充電にはかなりの時間がかかるらしい・・・
電気自動車の時代が来るには,まだまだ時間がかかるんやろか?
せやけど,やっぱり京都,都会やなぁ~!
神社の境内にまで電気自動車充電コンセントがあるんや!
そういえば,2008年,すでに大阪にあるUSJの駐車場で電気自動車充電スタンドを見かけたよなぁ~
大阪はさらに進んでるんやろなぁ~
@充電スタンド・急速充電
EVへの充電がガソリンスタンドでの給油と最も異なるのは、充電時間である。2010年現在の充電池の技術でも20-30分で全充電容量の80%まで急速充電が行えるが、1-2分で給油そのものは終了する液体燃料と比べれば、顧客の回転率が余りに低いために十分な利潤を生むにはEVを駐車できる充電スポットを多数備えなければならなくなる。また、1台当たり(現在は100-200Vが多いが)400-500Vで125A-400A、中国提案の規格では1000Aまでの電力供給が求められるため、1台分ですら特別な配電設備を備えなければならず、一層大きな初期投資が求められる。また、2010年現在の技術では急速充電は充電池の寿命を縮めるために、EVの車輌価格の半分ほども占める車載バッテリーの経済性まで考慮すれば、短時間での急速充電がどの程度受け入れられて普及するかは、今後の充電池技術の発展とも関係して未知数である。
エジソンと石清水の竹か~なんて考えていたら,時代は速い流れで移っていた。
エジソン記念碑の前にあったのは,電気自動車充電コンセント!
年末,日産が電気自動車の販売をはじめたのがニュースに流れていた。
しかし,電気自動車充電スタンドはどこに設置されてるの?
県内で調べてみたら,日産の販売店のみ???
しかも,充電にはかなりの時間がかかるらしい・・・
電気自動車の時代が来るには,まだまだ時間がかかるんやろか?
せやけど,やっぱり京都,都会やなぁ~!
神社の境内にまで電気自動車充電コンセントがあるんや!
そういえば,2008年,すでに大阪にあるUSJの駐車場で電気自動車充電スタンドを見かけたよなぁ~
大阪はさらに進んでるんやろなぁ~
@充電スタンド・急速充電
EVへの充電がガソリンスタンドでの給油と最も異なるのは、充電時間である。2010年現在の充電池の技術でも20-30分で全充電容量の80%まで急速充電が行えるが、1-2分で給油そのものは終了する液体燃料と比べれば、顧客の回転率が余りに低いために十分な利潤を生むにはEVを駐車できる充電スポットを多数備えなければならなくなる。また、1台当たり(現在は100-200Vが多いが)400-500Vで125A-400A、中国提案の規格では1000Aまでの電力供給が求められるため、1台分ですら特別な配電設備を備えなければならず、一層大きな初期投資が求められる。また、2010年現在の技術では急速充電は充電池の寿命を縮めるために、EVの車輌価格の半分ほども占める車載バッテリーの経済性まで考慮すれば、短時間での急速充電がどの程度受け入れられて普及するかは、今後の充電池技術の発展とも関係して未知数である。
昨年の大晦日,洗車の予定やったんやけど,
雪が降り出してできへんかった。
それで洗車は年を越し,
本日,愛車を洗うことしした。
今月末で,我が家に来てちょうど1年になる。
いろんな所へ行ったよなぁ~
これからもよろしく!
雪が降り出してできへんかった。
それで洗車は年を越し,
本日,愛車を洗うことしした。
今月末で,我が家に来てちょうど1年になる。
いろんな所へ行ったよなぁ~
これからもよろしく!
一昨日の夕方,嵐と共に次男が大阪から帰ってきた。
私は駅まで迎えに。
待ち合わせが所は,駅前にある古本屋「ブック○○」。
一目散に105円コーナーの司馬遼太郎の棚の前に行った。
そこで見つけたのが,『街道をゆく7・大和・壷坂みち』やった。
読み始めると,はじめの部分は「甲賀と伊賀のみち」。
「おとぎ峠」というのが三重と滋賀の県境にある?
「御伽」という字かと思うが、「御斉」?
その峠を越えると多羅尾。
以前,何度もタラオCCへ行くのに越えた峠が登場してる!
そして,その道は長男が学生生活を送っていた滋賀県草津に通じる近道でもあった。
しばらく『翔ぶが如く』を読むのを中断して,この本を読むことにした。
@御斉峠
標高630M。多羅尾の東方にあたり、滋賀・三重両県の県境である。
この峠からの眺望のすばらしさは、古来より語り伝えられ、伊賀地方・奈良金剛の山々が遠望できる。
本能寺の変で徳川家康が堺・枚方・宇治田原を経て、伊勢へ逃れる際も多羅尾光俊父子に警護され、この峠を越えたと伝えられる。
御斎峠の名の由来は、鎌倉時代に臨済禅の高僧 夢窓国師が、伊賀三田の空鉢山寺へ来られた時、この峠で村人が接待(斉・とき)したところから出ているといわれている。峠の南には、関所の跡がある。
「写真;名阪国道から見た伊賀盆地」
私は駅まで迎えに。
待ち合わせが所は,駅前にある古本屋「ブック○○」。
一目散に105円コーナーの司馬遼太郎の棚の前に行った。
そこで見つけたのが,『街道をゆく7・大和・壷坂みち』やった。
読み始めると,はじめの部分は「甲賀と伊賀のみち」。
「おとぎ峠」というのが三重と滋賀の県境にある?
「御伽」という字かと思うが、「御斉」?
その峠を越えると多羅尾。
以前,何度もタラオCCへ行くのに越えた峠が登場してる!
そして,その道は長男が学生生活を送っていた滋賀県草津に通じる近道でもあった。
しばらく『翔ぶが如く』を読むのを中断して,この本を読むことにした。
@御斉峠
標高630M。多羅尾の東方にあたり、滋賀・三重両県の県境である。
この峠からの眺望のすばらしさは、古来より語り伝えられ、伊賀地方・奈良金剛の山々が遠望できる。
本能寺の変で徳川家康が堺・枚方・宇治田原を経て、伊勢へ逃れる際も多羅尾光俊父子に警護され、この峠を越えたと伝えられる。
御斎峠の名の由来は、鎌倉時代に臨済禅の高僧 夢窓国師が、伊賀三田の空鉢山寺へ来られた時、この峠で村人が接待(斉・とき)したところから出ているといわれている。峠の南には、関所の跡がある。
「写真;名阪国道から見た伊賀盆地」