山に行くとよく吊橋を見かける。
すると私は,どうしても渡りたくなってしまう。
あの揺れる感覚。
下を見た時の恐怖感。
楽しいナァ~
写真は,竜神温泉で見かけた吊橋。
橋を渡った向こう岸には神社があった。
すると私は,どうしても渡りたくなってしまう。
あの揺れる感覚。
下を見た時の恐怖感。
楽しいナァ~
写真は,竜神温泉で見かけた吊橋。
橋を渡った向こう岸には神社があった。
龍神温泉は高野龍神国定公園、日高川沿いに位置する温泉郷。
島根県の湯の川温泉、群馬県の川中温泉とならび、日本三美人の湯として有名。
元湯は、龍神温泉のオーナーで作る(有)元湯が運営する、村内で唯一の源泉掛け流しの共同浴場。
泉質は、ナトリウム炭酸水素塩泉(重曹泉)で、肌がツルツルとして、しっとり感がある。効能は、美人の湯で知られているが、大変良く温まり、特に冷え性、神経痛、肩こり等に効果があると云われている。
元湯の内湯は大勢が一度に入ることができる檜風呂と岩風呂がある。
渓流を眺める事ができる露天風呂からの景色は抜群で、元湯は夜9時まで開いているので、夜に星空を眺め、川のせせらぎに耳を傾けるのも一興。
「写真;龍神温泉元湯」
島根県の湯の川温泉、群馬県の川中温泉とならび、日本三美人の湯として有名。
元湯は、龍神温泉のオーナーで作る(有)元湯が運営する、村内で唯一の源泉掛け流しの共同浴場。
泉質は、ナトリウム炭酸水素塩泉(重曹泉)で、肌がツルツルとして、しっとり感がある。効能は、美人の湯で知られているが、大変良く温まり、特に冷え性、神経痛、肩こり等に効果があると云われている。
元湯の内湯は大勢が一度に入ることができる檜風呂と岩風呂がある。
渓流を眺める事ができる露天風呂からの景色は抜群で、元湯は夜9時まで開いているので、夜に星空を眺め、川のせせらぎに耳を傾けるのも一興。
「写真;龍神温泉元湯」
龍神温泉「上御殿」は、江戸時代初期(明暦3年・1657年)に当時の紀州藩主である徳川頼宣公が、龍神温泉へ湯治に訪れるために建てられた御宿。
「御成りの間」は、徳川公がお泊りになられた部屋で、現在も当時のままの形で残っている。
そうしたら,同行した家臣たちは何処に泊まったんやろか?
殿様が「上御殿」やねんから,家臣はやっぱり「下御殿」。
「写真;竜神温泉・下御殿」
「御成りの間」は、徳川公がお泊りになられた部屋で、現在も当時のままの形で残っている。
そうしたら,同行した家臣たちは何処に泊まったんやろか?
殿様が「上御殿」やねんから,家臣はやっぱり「下御殿」。
「写真;竜神温泉・下御殿」
龍神温泉に行きたかった理由は2つ。
1つは,温泉に浸かりたかった。
龍神温泉は、その昔弘法大師が夢に現れた龍王のお告げによって開かれたと伝えられる温泉。
江戸初期の徳川頼宣公のお気に入りでもあった龍神温泉は、浸かればお肌が滑らかになるという名湯で,日本三美人の湯に数えられている。
2つ目は,「上御殿」という建物を見たかった。
「上御殿」は、江戸時代初期(明暦3年・1657年)に当時の紀州藩主である徳川頼宣公が、龍神温泉へ湯治に訪れるために建てられた御宿。
旅館ができた後、龍神家は徳川公にお宿の管理を命ぜられ、さらに「上御殿」の屋号を承ったという。
「御成りの間」は、徳川公がお泊りになられた部屋であり、現在も当時のままの形で残っている。
現在の「上御殿」当主は、源三位頼政の5男である頼氏より数えて29代目にあたり、820年続く「上御殿」の歴史を今も尚受け継いでいるという。
機会あれば「上御殿」の「御成りの間」で宿泊してみたいもんや・・・
「写真;龍神温泉・上御殿」
1つは,温泉に浸かりたかった。
龍神温泉は、その昔弘法大師が夢に現れた龍王のお告げによって開かれたと伝えられる温泉。
江戸初期の徳川頼宣公のお気に入りでもあった龍神温泉は、浸かればお肌が滑らかになるという名湯で,日本三美人の湯に数えられている。
2つ目は,「上御殿」という建物を見たかった。
「上御殿」は、江戸時代初期(明暦3年・1657年)に当時の紀州藩主である徳川頼宣公が、龍神温泉へ湯治に訪れるために建てられた御宿。
旅館ができた後、龍神家は徳川公にお宿の管理を命ぜられ、さらに「上御殿」の屋号を承ったという。
「御成りの間」は、徳川公がお泊りになられた部屋であり、現在も当時のままの形で残っている。
現在の「上御殿」当主は、源三位頼政の5男である頼氏より数えて29代目にあたり、820年続く「上御殿」の歴史を今も尚受け継いでいるという。
機会あれば「上御殿」の「御成りの間」で宿泊してみたいもんや・・・
「写真;龍神温泉・上御殿」
一切不純物の混じっていない純粋な水、すなわち純水や蒸留水の色はほぼ無色透明であるが、池や湖、川、海などは青色に見える。
これは主に水そのものが微かに青緑色を呈していることによるもので、ほかにも水の微粒子による可視光の散乱(レイリー散乱)や、水中の藻類などの微生物の色や、水面に反射する空の色などが影響を与えている可能性もある。
水色という名は、このような「水の青」に由来する。
日本語の水色は平安時代から見られる色名であり、古くから「水=青い」というイメージが存在していたこととなる。
「写真;和歌山県龍神温泉を流れる川」
これは主に水そのものが微かに青緑色を呈していることによるもので、ほかにも水の微粒子による可視光の散乱(レイリー散乱)や、水中の藻類などの微生物の色や、水面に反射する空の色などが影響を与えている可能性もある。
水色という名は、このような「水の青」に由来する。
日本語の水色は平安時代から見られる色名であり、古くから「水=青い」というイメージが存在していたこととなる。
「写真;和歌山県龍神温泉を流れる川」
「鳥見山」は奈良盆地南東部に独立する標高245mの平た~い山。
この夏,約40年ぶりに登ることにした。
この「鳥見山」は、神武天皇が橿原宮に即位され、その後、神武四年に鳥見の山中に霊時(まつりのにわ)を設けて、国で採れた産物を供えられ、御自ら皇祖天津神々を祭り、大和平定と建国の大孝を申べ給うた大嘗会の初の舞台であり、我が国建国の聖地とされている。
その西麓、能登山の麓に鎮座する「等彌(とみ)神社」 は、既に十世紀前半に制定せられた『延喜式』の神名帳に記載がある古社であるという。
境内入り口には,作家佐藤春夫、詩人堀口大学、評論家で地元出身の保田興重郎らの句碑・歌碑が建立されていた。
参道に沿って百五十余基の石灯籠が並立し、参道を進むと上社「上津尾社」に至った。
手前の稲荷社から左手の尾根に上がると広 い参道が通っていて、しばらく辿って上がると「霊畤拝所」と刻まれた大きな石碑の前に出た。
道はここから小道となり、蜘蛛の巣を払いながら緩やかに登って行くと,やがて大きな句碑の立つ平坦地に出た。
さらに穏やかな尾根を辿って少し登ると開けた場所に「白庭」と彫られた石碑を見て、そこから少しで山頂に着いた。
山頂部は平坦地で,「霊畤」と刻まれた石碑があった。
周囲は雑木に囲われていて展望はなかった。
展望さえ開ければ,北に初瀬川を挟んで間近に三輪山が見えるはず・・・
古代ここで一体何があったんやろう?
山頂までの往復約45分の「我が国建国の聖地」を訪ねる山行やった。
「写真;鳥見山頂;霊畤と刻まれた石碑
この夏,約40年ぶりに登ることにした。
この「鳥見山」は、神武天皇が橿原宮に即位され、その後、神武四年に鳥見の山中に霊時(まつりのにわ)を設けて、国で採れた産物を供えられ、御自ら皇祖天津神々を祭り、大和平定と建国の大孝を申べ給うた大嘗会の初の舞台であり、我が国建国の聖地とされている。
その西麓、能登山の麓に鎮座する「等彌(とみ)神社」 は、既に十世紀前半に制定せられた『延喜式』の神名帳に記載がある古社であるという。
境内入り口には,作家佐藤春夫、詩人堀口大学、評論家で地元出身の保田興重郎らの句碑・歌碑が建立されていた。
参道に沿って百五十余基の石灯籠が並立し、参道を進むと上社「上津尾社」に至った。
手前の稲荷社から左手の尾根に上がると広 い参道が通っていて、しばらく辿って上がると「霊畤拝所」と刻まれた大きな石碑の前に出た。
道はここから小道となり、蜘蛛の巣を払いながら緩やかに登って行くと,やがて大きな句碑の立つ平坦地に出た。
さらに穏やかな尾根を辿って少し登ると開けた場所に「白庭」と彫られた石碑を見て、そこから少しで山頂に着いた。
山頂部は平坦地で,「霊畤」と刻まれた石碑があった。
周囲は雑木に囲われていて展望はなかった。
展望さえ開ければ,北に初瀬川を挟んで間近に三輪山が見えるはず・・・
古代ここで一体何があったんやろう?
山頂までの往復約45分の「我が国建国の聖地」を訪ねる山行やった。
「写真;鳥見山頂;霊畤と刻まれた石碑
今年,夏山での遭難事故報道が続く。
私がこの夏登った山は,大和三山の1つ「畝傍山」。 標高199m,大和三山の中で最も高い山で火山が噴出してできた山であるという。
畝傍山は女性の体を横にしたような優美な形の山で,大 和三山のうち、この畝傍山は「女性」と見立てられることが多かったという。
香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相あらそひき 神代より かくにあるらし古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を あらそふらしき《中大兄皇子》
西麓にある「畝火山口神社」から登れると聞いていたので,その神社を目指した。
この神社の祭神は、息長足姫命(神功皇后)、豊受比売命、表筒男命(住吉大神)。
毎年7月26日早朝、神官らが壺阪峠を越えて、大淀町土田の吉野川河畔まで神水を汲みに行く「お峰山の水取り」の後、28日・29日夏季大祭(でんそそ祭)で、「お峰デンソソの太鼓が聞こえたら田に入ったらあかん」と云い、農家はこの日を目途に田の仕事を終える様に努力し、28日の夜は参道に五色の幟が立ち、近在の参詣者で賑わい、夏やせする子は、綿入れを着て参ると御利益があるという。
始めは畝傍山の山腹にあったが、後に山頂に 遷祀し、更に昭和十五年十二月、現在の位置に遷座したらしい。
さらに,住吉大社の二月祈年祭と、十一月の新嘗祭に用いる土器を作るための埴土を、この畝傍山の山頂で採取するそうだ。
神社に参ったあと登山開始,山頂まで約10分。
山頂は木が生えていて,展望できる範囲は限られていた。
下山をしようとしたら,山頂で昼寝をしていた男性が起きて私の後を着いてきた。
不審者やろか?
私は足を速めてその男性を振り切り,無事下山した。
玉襷(たまだすき) 畝火の山の 橿原の 日知(ひじり)の御代ゆ 生(あ)れましし《柿本人麻呂》
「写真;藤原京から畝傍山を眺める」
私がこの夏登った山は,大和三山の1つ「畝傍山」。 標高199m,大和三山の中で最も高い山で火山が噴出してできた山であるという。
畝傍山は女性の体を横にしたような優美な形の山で,大 和三山のうち、この畝傍山は「女性」と見立てられることが多かったという。
香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相あらそひき 神代より かくにあるらし古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を あらそふらしき《中大兄皇子》
西麓にある「畝火山口神社」から登れると聞いていたので,その神社を目指した。
この神社の祭神は、息長足姫命(神功皇后)、豊受比売命、表筒男命(住吉大神)。
毎年7月26日早朝、神官らが壺阪峠を越えて、大淀町土田の吉野川河畔まで神水を汲みに行く「お峰山の水取り」の後、28日・29日夏季大祭(でんそそ祭)で、「お峰デンソソの太鼓が聞こえたら田に入ったらあかん」と云い、農家はこの日を目途に田の仕事を終える様に努力し、28日の夜は参道に五色の幟が立ち、近在の参詣者で賑わい、夏やせする子は、綿入れを着て参ると御利益があるという。
始めは畝傍山の山腹にあったが、後に山頂に 遷祀し、更に昭和十五年十二月、現在の位置に遷座したらしい。
さらに,住吉大社の二月祈年祭と、十一月の新嘗祭に用いる土器を作るための埴土を、この畝傍山の山頂で採取するそうだ。
神社に参ったあと登山開始,山頂まで約10分。
山頂は木が生えていて,展望できる範囲は限られていた。
下山をしようとしたら,山頂で昼寝をしていた男性が起きて私の後を着いてきた。
不審者やろか?
私は足を速めてその男性を振り切り,無事下山した。
玉襷(たまだすき) 畝火の山の 橿原の 日知(ひじり)の御代ゆ 生(あ)れましし《柿本人麻呂》
「写真;藤原京から畝傍山を眺める」
話は北陸への旅の続き。
一乗谷朝倉氏遺跡見学の後は,昼食,越前大野で「越前そば」。
その後,家人が望んだ「福井県立恐竜博物館」へ。
私は一昨年の夏も行ったので・・・(ブロ グ左サイドバーにフォトアルバムあり)
私の今回の旅の最大の目的は,ギネスの宿「法師」!
今夏,奈良は平城遷都1300年祭が話題やけど,「法師」の開湯は養老二年(718),平城遷都とほぼ同じ歴史を持ち,『世界で最も歴史あるホテル』としてギネスに認定されているという。
@法師の歴史について
奈良の都を中心に仏教が盛んになったころ、一方では多くの名僧が人跡未踏の高い山に登り、厳しい修行を積んで仙人の術を会得 し、山岳仏教をおこしました。その一人が有名な泰澄大師。泰澄は越前国・麻生津に生まれ、養老元年五智の樵夫(きこり)・笹切源五郎(ささぎりげんごろう)の道案内により、初めて白山の山頂をきわめ、そこで何年間も修行を続けたのち、山頂に一寺を開きました。
泰澄大師が白山山頂で荒行を始められてからおよそ一年後のある夜、白山大権現が夢枕に立たれて、こう申されました。
『この白山のふもとから山川を越えて五、六里行ったところに粟津という村があり、そこには薬師如来の慈悲による霊験あ らたかな温泉がある。しかしながら、まだ、だれ一人として地中深くに隠れたその霊泉のことを知らぬ。お前は、ご苦労ではあるが山を下りて粟津村へ行き、村人と力を合わせて温泉を掘り出し、末永く人びとのために役立てるがよい』
神のお告げに従って粟津へ赴いた大師はすぐさま村人の協力によって霊泉を掘り当て、試しに病人を入浴させたところ、たちまち永患いが治りました。そこで大師は、それまでずっと身近に仕えていた弟子の雅亮法師に命じて一軒の湯治宿を建てさせ、その湯守りを雅亮法師におかませになりました。
ちなみに雅亮法師は初めて大師を白山山頂までご案内した樵夫・笹切源五郎の次男でございました。
これが『法師』と呼ばれる日本で一番古い宿の、四十六代にわたる歴史の始まりでございます
私,この宿を知ってから,行きたくて泊まりたくって・・・
今回,やっと実現しました!
「写真;法師正面,右の木は「黄門杉」
一乗谷朝倉氏遺跡見学の後は,昼食,越前大野で「越前そば」。
その後,家人が望んだ「福井県立恐竜博物館」へ。
私は一昨年の夏も行ったので・・・(ブロ グ左サイドバーにフォトアルバムあり)
私の今回の旅の最大の目的は,ギネスの宿「法師」!
今夏,奈良は平城遷都1300年祭が話題やけど,「法師」の開湯は養老二年(718),平城遷都とほぼ同じ歴史を持ち,『世界で最も歴史あるホテル』としてギネスに認定されているという。
@法師の歴史について
奈良の都を中心に仏教が盛んになったころ、一方では多くの名僧が人跡未踏の高い山に登り、厳しい修行を積んで仙人の術を会得 し、山岳仏教をおこしました。その一人が有名な泰澄大師。泰澄は越前国・麻生津に生まれ、養老元年五智の樵夫(きこり)・笹切源五郎(ささぎりげんごろう)の道案内により、初めて白山の山頂をきわめ、そこで何年間も修行を続けたのち、山頂に一寺を開きました。
泰澄大師が白山山頂で荒行を始められてからおよそ一年後のある夜、白山大権現が夢枕に立たれて、こう申されました。
『この白山のふもとから山川を越えて五、六里行ったところに粟津という村があり、そこには薬師如来の慈悲による霊験あ らたかな温泉がある。しかしながら、まだ、だれ一人として地中深くに隠れたその霊泉のことを知らぬ。お前は、ご苦労ではあるが山を下りて粟津村へ行き、村人と力を合わせて温泉を掘り出し、末永く人びとのために役立てるがよい』
神のお告げに従って粟津へ赴いた大師はすぐさま村人の協力によって霊泉を掘り当て、試しに病人を入浴させたところ、たちまち永患いが治りました。そこで大師は、それまでずっと身近に仕えていた弟子の雅亮法師に命じて一軒の湯治宿を建てさせ、その湯守りを雅亮法師におかませになりました。
ちなみに雅亮法師は初めて大師を白山山頂までご案内した樵夫・笹切源五郎の次男でございました。
これが『法師』と呼ばれる日本で一番古い宿の、四十六代にわたる歴史の始まりでございます
私,この宿を知ってから,行きたくて泊まりたくって・・・
今回,やっと実現しました!
「写真;法師正面,右の木は「黄門杉」
七夕の頃になると「シュロ」の葉の香りを思い出す。
七夕の短冊を笹の枝に吊すのに「シュロ」の葉を裂いて使っていたからだ。
我が家では,「シュロ」のことを「シューロン」と呼んでいる。
小さい頃は,祖母と家の敷地に生えていた「シューロン」の木から葉を採り,それを裂いて糸を作り短冊を吊していたのだ。
だから,白い糸で吊された短冊や七夕飾りを見ると違和感を覚える。
昔,「シューロン」の木を近くのお寺に鐘楼の撞木として寄進したことがあった。
当時,我が家は「シューロン」山を持っていた。
何の目的で「シューロン」山があったんやろか?
やっぱり「シューロン」の皮(の繊維)を採るためやったんやろう。
その「シューロン」山は,生えていた「シューロン」の木を伐採して杉や桧の苗木を植林し,その苗木は立派な木に生長している。
家の敷地にあった「シューロン」も,「増えたらかなんから・・・」と,親父が切ってくれたけど,いつの間にやらまた芽生えて生長し,木の本数も増えてしまってる。
難儀なことや・・・
「写真;シュロ」
七夕の短冊を笹の枝に吊すのに「シュロ」の葉を裂いて使っていたからだ。
我が家では,「シュロ」のことを「シューロン」と呼んでいる。
小さい頃は,祖母と家の敷地に生えていた「シューロン」の木から葉を採り,それを裂いて糸を作り短冊を吊していたのだ。
だから,白い糸で吊された短冊や七夕飾りを見ると違和感を覚える。
昔,「シューロン」の木を近くのお寺に鐘楼の撞木として寄進したことがあった。
当時,我が家は「シューロン」山を持っていた。
何の目的で「シューロン」山があったんやろか?
やっぱり「シューロン」の皮(の繊維)を採るためやったんやろう。
その「シューロン」山は,生えていた「シューロン」の木を伐採して杉や桧の苗木を植林し,その苗木は立派な木に生長している。
家の敷地にあった「シューロン」も,「増えたらかなんから・・・」と,親父が切ってくれたけど,いつの間にやらまた芽生えて生長し,木の本数も増えてしまってる。
難儀なことや・・・
「写真;シュロ」
私が柳生と笠置に行った日から、ずいぶん日にちが経過した。
記憶も曖昧に・・・
笠置で一番覚えているのは、
笠置寺の山門を入ろうとした時に見かけた紙に書かれた文章。
そして同じ文の紙を境内の「弥勒大磨崖仏」のある正月堂で も見かけた。
その紙には、
「笠置を訪れる人 年間70万人
その中 笠置山への登山客 5万人
ここまで来る人 即ち磨崖仏を拝し 修行場をめぐる人 1万5千人
70万人のうち1万5千人
もっと多くの人に笠置山を知ってほしいです。」とあった。
私も何度か「笠置」を訪ねているけど、笠置の山の上まで来たのは今回が初めて。
今まで「笠置」は「河原でバーベキューをするところ 」と思っていたのです。
笠置には、伊賀上野の方から流れてきた「木津川」がつくった広い河原がある。
そこでするのが、「笠置のバーベキュー」。
N盆地には、広い河原が無いし、川が汚くって・・・
不思議な話。
女人高野「室生寺」の前を流れている川の水は、三重県・名張市に出て、
再び奈良県・月ヶ瀬を流れ、今度は京都府南山城村を流れてからここ笠置に至る。
そして木津川になって宇治川、桂川と合流し、淀川となり大阪湾に注ぐのだ。
僅かな距離の違いで、降った雨の旅は大きく異なるのだ。
それはそうと、笠置山はホンマニ魅力的な山でした。
『太平記』か~ 読まんとあかんなぁ~
「写真;笠置寺・弥勒大磨崖仏」
記憶も曖昧に・・・
笠置で一番覚えているのは、
笠置寺の山門を入ろうとした時に見かけた紙に書かれた文章。
そして同じ文の紙を境内の「弥勒大磨崖仏」のある正月堂で も見かけた。
その紙には、
「笠置を訪れる人 年間70万人
その中 笠置山への登山客 5万人
ここまで来る人 即ち磨崖仏を拝し 修行場をめぐる人 1万5千人
70万人のうち1万5千人
もっと多くの人に笠置山を知ってほしいです。」とあった。
私も何度か「笠置」を訪ねているけど、笠置の山の上まで来たのは今回が初めて。
今まで「笠置」は「河原でバーベキューをするところ 」と思っていたのです。
笠置には、伊賀上野の方から流れてきた「木津川」がつくった広い河原がある。
そこでするのが、「笠置のバーベキュー」。
N盆地には、広い河原が無いし、川が汚くって・・・
不思議な話。
女人高野「室生寺」の前を流れている川の水は、三重県・名張市に出て、
再び奈良県・月ヶ瀬を流れ、今度は京都府南山城村を流れてからここ笠置に至る。
そして木津川になって宇治川、桂川と合流し、淀川となり大阪湾に注ぐのだ。
僅かな距離の違いで、降った雨の旅は大きく異なるのだ。
それはそうと、笠置山はホンマニ魅力的な山でした。
『太平記』か~ 読まんとあかんなぁ~
「写真;笠置寺・弥勒大磨崖仏」
昨夜の夕食は「湯豆腐」やった。
その訳は、一昨日に吉野大峰山麓・洞川(どろがわ)の名水百選に選ばれている「ごろごろ水」と、その水で作った「名水豆腐」を戴いたから。
鍋に「ごろごろ水」を注ぎ、「名水豆腐」を湯がいた。
鍋か~ 秋やなぁ~
暑い夏が終わったけど、農作業等で汗をかいた後は「水」が旨いよなぁ~
(もちろん、ビールはもっと旨いけど!)
それが旨い水やと、ホンマに「天国やなぁ~!」って思う。
「水」と云えば、暑い夏のある日、私は奈良・宇陀市にある「墨坂神社」横を通過し、国道369号線(旧伊勢本街道、おかげ街道)を宇陀 川沿いに室生・曽爾の方向に走っていた。
その道沿いに「弘法大師の岩清水」を見かけた。
弘法大師が全国行脚の途中、清浄水の補給の為、この地で清水を掘り開いたという。
それ以来、千百数十年この岩清水は日照り続きでも涸れず、嵐が来ても濁らず、ちょっとやそっとで腐らないことで有名なのだそうだ。
車から降りて、私も一口飲んでみたいと思ったけど・・・
100円必要なのと、入れる容器を持っていないのとで、その日は諦めることにした。
これも名水ブームのご時世なんかも知れへんけど・・・
ちょっと寂しい話やったなぁ~
「写真;弘法大師の岩清水」
その訳は、一昨日に吉野大峰山麓・洞川(どろがわ)の名水百選に選ばれている「ごろごろ水」と、その水で作った「名水豆腐」を戴いたから。
鍋に「ごろごろ水」を注ぎ、「名水豆腐」を湯がいた。
鍋か~ 秋やなぁ~
暑い夏が終わったけど、農作業等で汗をかいた後は「水」が旨いよなぁ~
(もちろん、ビールはもっと旨いけど!)
それが旨い水やと、ホンマに「天国やなぁ~!」って思う。
「水」と云えば、暑い夏のある日、私は奈良・宇陀市にある「墨坂神社」横を通過し、国道369号線(旧伊勢本街道、おかげ街道)を宇陀 川沿いに室生・曽爾の方向に走っていた。
その道沿いに「弘法大師の岩清水」を見かけた。
弘法大師が全国行脚の途中、清浄水の補給の為、この地で清水を掘り開いたという。
それ以来、千百数十年この岩清水は日照り続きでも涸れず、嵐が来ても濁らず、ちょっとやそっとで腐らないことで有名なのだそうだ。
車から降りて、私も一口飲んでみたいと思ったけど・・・
100円必要なのと、入れる容器を持っていないのとで、その日は諦めることにした。
これも名水ブームのご時世なんかも知れへんけど・・・
ちょっと寂しい話やったなぁ~
「写真;弘法大師の岩清水」
金剛山(1125m)は、奈良県と大阪府の県境に位置し、両府県から何本もの登山道がある。
(大阪府からは、千早赤坂村からロープウ ェイもある。)
その登山道の1つに「郵便道」という珍しい名前の道がある。
高天彦神社の横から金剛山へ登る道がその道なのだ。
名前の由来は、金剛山の山頂は大阪府と奈良県境に位置しているが、正確に言うと山頂一帯は奈良県に属しているとのことで山頂の社務所は奈良県に属する 。
それで、社務所に届ける郵便物は、奈良県御所(ごせ)市側から徒歩で届けられたという。
それは戦後間もない頃まで続いたようだ。
高天彦神社から山頂までは約2時間。
植林が済んだ杉・檜の木立の中を黙々と登った。
途中でカケスの羽根とあの植物を発見!
稜線に出ると二上山から続くダイヤモンドトレイルと合流。
ここまで来ると、杉並木の続く神聖な雰 囲気。
暫く歩くと木製の鳥居があり、さらに歩くと『雄略天皇「矢刺神社」御猪狩遺跡』という立て看板。
ここがアノ一言さんと雄略天皇とが出会った場所?やったんやろなぁ・・・
すぐ近くに見える山頂には「葛木神社」。
時計を見たら、麓の高天彦神社から葛木神社まで1時間20分かかってた。
毎日,郵便さん大変やったやろうなぁ~
※一言主神のこと
今昔物語に登場する一言主神は顔が醜くかったと伝えられ、葛城の怪人と言われた役行者は、修行のために葛城山(現在の金剛山?)と吉野の金峯山の間に岩橋を架けようとした。諸神を集めて架橋工事をさせたが、一言主神は顔が醜かったため、昼は働かず夜しか働かなかったので、石橋は完成しなかった。役行者は怒って、近くの小川のそばの大木に一言主大神を縛り付けてしまったという事が記されているという。
「写真;葛木神社・転法輪寺への参道」
(大阪府からは、千早赤坂村からロープウ ェイもある。)
その登山道の1つに「郵便道」という珍しい名前の道がある。
高天彦神社の横から金剛山へ登る道がその道なのだ。
名前の由来は、金剛山の山頂は大阪府と奈良県境に位置しているが、正確に言うと山頂一帯は奈良県に属しているとのことで山頂の社務所は奈良県に属する 。
それで、社務所に届ける郵便物は、奈良県御所(ごせ)市側から徒歩で届けられたという。
それは戦後間もない頃まで続いたようだ。
高天彦神社から山頂までは約2時間。
植林が済んだ杉・檜の木立の中を黙々と登った。
途中でカケスの羽根とあの植物を発見!
稜線に出ると二上山から続くダイヤモンドトレイルと合流。
ここまで来ると、杉並木の続く神聖な雰 囲気。
暫く歩くと木製の鳥居があり、さらに歩くと『雄略天皇「矢刺神社」御猪狩遺跡』という立て看板。
ここがアノ一言さんと雄略天皇とが出会った場所?やったんやろなぁ・・・
すぐ近くに見える山頂には「葛木神社」。
時計を見たら、麓の高天彦神社から葛木神社まで1時間20分かかってた。
毎日,郵便さん大変やったやろうなぁ~
※一言主神のこと
今昔物語に登場する一言主神は顔が醜くかったと伝えられ、葛城の怪人と言われた役行者は、修行のために葛城山(現在の金剛山?)と吉野の金峯山の間に岩橋を架けようとした。諸神を集めて架橋工事をさせたが、一言主神は顔が醜かったため、昼は働かず夜しか働かなかったので、石橋は完成しなかった。役行者は怒って、近くの小川のそばの大木に一言主大神を縛り付けてしまったという事が記されているという。
「写真;葛木神社・転法輪寺への参道」
明日は終戦記念日。
去年はこの時期に柳本飛行場跡を訪ねた。
http://syutozennin.blog.ocn.ne.jp/e411y/2008/08/post_2d6a.html
そして先日,信州・松代大本営のことをブログに書いた。
http://syutozennin.blog.ocn.ne.jp/e411y/2009/08/post_3476.html
実は,奈良盆地の西端・二上山の北麓「屯鶴峯(どんづるぼう)」の地下に「松代大本営」の西日本版の地下壕がある。
二上山周辺には,この地下壕だけではなくさまざまな軍事施設が存在していたようである。高射砲台、機関銃座、燃料貯蔵用地下壕、大阪府に目を向けると、盾津飛行場、大正(八尾)飛行場、羽曳野市の地下軍事工場。いわば、この周辺が陸軍航空 部隊・航空総軍の一大拠点となろう としていたよだ。そして、屯鶴峯の地下壕はこれらの施設を統括する拠点として建設されようとしていたという。
「屯鶴峯」とは,凝灰岩の地形。
約1500万年前に二上山が激しい噴火を繰り返し,その時の火砕流が堆積・凝固・隆起・侵食を受けて出来たもの。
「屯鶴峯」とは、松林に多くの鶴が屯(たむろ)しているよう見えるからというのが由来とされているが,マオリ語で「トネ・ツル・ポ ウ(柱を縦に並べて立てたような瘤)」という説もあるそうだ。
私は何度か「屯鶴峯」に地層の観察,化石採集に行ったことがある。
それと太平洋戦争末期に掘られたという巨大な「地下壕」の見学に。
地下壕は東西2箇所あり,東は京都大学地震予知研究センター観測所が建てられ、侵入不可能。
私は前回,西の地下壕を見学させてもらったのだが,東西に掘られた穴と南北に掘られた穴があみだくじのように交わり,壁面にダイナマイトを入れた穴やツルハシの跡が残っていた。
戦争末期,強制連行によって連れてこられた朝鮮人や朝鮮人兵士ら約300人が動員され,およそ2ヶ月で約2km掘ったという。
「写真;屯鶴峯」
去年はこの時期に柳本飛行場跡を訪ねた。
http://syutozennin.blog.ocn.ne.jp/e411y/2008/08/post_2d6a.html
そして先日,信州・松代大本営のことをブログに書いた。
http://syutozennin.blog.ocn.ne.jp/e411y/2009/08/post_3476.html
実は,奈良盆地の西端・二上山の北麓「屯鶴峯(どんづるぼう)」の地下に「松代大本営」の西日本版の地下壕がある。
二上山周辺には,この地下壕だけではなくさまざまな軍事施設が存在していたようである。高射砲台、機関銃座、燃料貯蔵用地下壕、大阪府に目を向けると、盾津飛行場、大正(八尾)飛行場、羽曳野市の地下軍事工場。いわば、この周辺が陸軍航空 部隊・航空総軍の一大拠点となろう としていたよだ。そして、屯鶴峯の地下壕はこれらの施設を統括する拠点として建設されようとしていたという。
「屯鶴峯」とは,凝灰岩の地形。
約1500万年前に二上山が激しい噴火を繰り返し,その時の火砕流が堆積・凝固・隆起・侵食を受けて出来たもの。
「屯鶴峯」とは、松林に多くの鶴が屯(たむろ)しているよう見えるからというのが由来とされているが,マオリ語で「トネ・ツル・ポ ウ(柱を縦に並べて立てたような瘤)」という説もあるそうだ。
私は何度か「屯鶴峯」に地層の観察,化石採集に行ったことがある。
それと太平洋戦争末期に掘られたという巨大な「地下壕」の見学に。
地下壕は東西2箇所あり,東は京都大学地震予知研究センター観測所が建てられ、侵入不可能。
私は前回,西の地下壕を見学させてもらったのだが,東西に掘られた穴と南北に掘られた穴があみだくじのように交わり,壁面にダイナマイトを入れた穴やツルハシの跡が残っていた。
戦争末期,強制連行によって連れてこられた朝鮮人や朝鮮人兵士ら約300人が動員され,およそ2ヶ月で約2km掘ったという。
「写真;屯鶴峯」
今朝のTVで広島が映っていた。
戦争・原爆・放射能・・・
我が家の被爆アオギリは、ずいぶん大きく生長している。
http://syutozennin.blog.ocn.ne.jp/e411y/2006/06/post_c591.html
あの旅の2日目の宿は、長野県松代やった。
もう少しで宿という所の松林は、八幡原史跡公園。
どうやらここが、謙信と信玄の川中島古戦場やったらしい?
私は、それで戦国時代の歴史に登場する川中島の位置がよう やく分かった。
しかし、私にとって「松代」と聞けば「松代大本営」。
夕食時、給仕に来てくれた宿の人に、明日の早朝、そこへ行って見学できるかどうか聞いてみた。
「松代大本営」とは、アジア・太平洋戦争末期、現・長野市松代町の三つの山(象山・舞鶴山・皆神山)を中心に、善 光寺平一帯に分散して作られた地下壕などの地下軍事施設群のこと。敗色濃厚だった当時、軍部は本土決戦を行うことにより連合国側に「最後の打撃」を与え、「国体護持」などのよりよい和平条件を得ようと考えていた。
松代大本営の地下壕には、宮城(皇居)、政府の諸官庁の主要部、日本放送協会海外局(ラジオ)など、天皇制国家を支える中枢機関がまとめて移転する計画だったらしい。
この工事には、多くの朝鮮人労働者が動員され、過酷な労働を強いられた。しかし、その犠牲者などについてはほとんど明らかにされていないという。
宿の人の返事は素っ気なく、「9時か10時の開館時間にならないと無理です。」とだけ。
私が、「外からでは何も見えませんかね?」と粘って聞いても、「何も見えませんよ!」としか答えてくれなかった。
きっと忙しかったんやろう? それとも大本営に関心がなかったからやろか?
翌朝、宿の窓から「皆神山」を探した。
「皆神山」は、人工的なピラミッドであるといわれている。
この山が注目されたのは、昭和40年から約2年間続いた「松代群発地震」から。2年間で有感地震7万回、1日当たり300~1000回も発生した。そして、この地震の異様さは、震源地がほとんど皆神山の真下3~5キロメートル。火山でもない皆神山がなぜ震源となったのかは、現在まで結論が出ていないとのこと。
皆神山の中心部で若干重力が少ないことが解っている。このことから、皆神山の地下には縦3キロメートル、横1.6キロメートル、深さ400メートルの楕円形空間が存在するという説があるのだ。
「写真;皆神山」
戦争・原爆・放射能・・・
我が家の被爆アオギリは、ずいぶん大きく生長している。
http://syutozennin.blog.ocn.ne.jp/e411y/2006/06/post_c591.html
あの旅の2日目の宿は、長野県松代やった。
もう少しで宿という所の松林は、八幡原史跡公園。
どうやらここが、謙信と信玄の川中島古戦場やったらしい?
私は、それで戦国時代の歴史に登場する川中島の位置がよう やく分かった。
しかし、私にとって「松代」と聞けば「松代大本営」。
夕食時、給仕に来てくれた宿の人に、明日の早朝、そこへ行って見学できるかどうか聞いてみた。
「松代大本営」とは、アジア・太平洋戦争末期、現・長野市松代町の三つの山(象山・舞鶴山・皆神山)を中心に、善 光寺平一帯に分散して作られた地下壕などの地下軍事施設群のこと。敗色濃厚だった当時、軍部は本土決戦を行うことにより連合国側に「最後の打撃」を与え、「国体護持」などのよりよい和平条件を得ようと考えていた。
松代大本営の地下壕には、宮城(皇居)、政府の諸官庁の主要部、日本放送協会海外局(ラジオ)など、天皇制国家を支える中枢機関がまとめて移転する計画だったらしい。
この工事には、多くの朝鮮人労働者が動員され、過酷な労働を強いられた。しかし、その犠牲者などについてはほとんど明らかにされていないという。
宿の人の返事は素っ気なく、「9時か10時の開館時間にならないと無理です。」とだけ。
私が、「外からでは何も見えませんかね?」と粘って聞いても、「何も見えませんよ!」としか答えてくれなかった。
きっと忙しかったんやろう? それとも大本営に関心がなかったからやろか?
翌朝、宿の窓から「皆神山」を探した。
「皆神山」は、人工的なピラミッドであるといわれている。
この山が注目されたのは、昭和40年から約2年間続いた「松代群発地震」から。2年間で有感地震7万回、1日当たり300~1000回も発生した。そして、この地震の異様さは、震源地がほとんど皆神山の真下3~5キロメートル。火山でもない皆神山がなぜ震源となったのかは、現在まで結論が出ていないとのこと。
皆神山の中心部で若干重力が少ないことが解っている。このことから、皆神山の地下には縦3キロメートル、横1.6キロメートル、深さ400メートルの楕円形空間が存在するという説があるのだ。
「写真;皆神山」