橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

民主党BBL内田樹氏講演会「平成の攘夷論」に行った~その3~

2011-03-01 04:20:37 | ツイッターつぶやき

 

~その2~から続く

それは、3)の開国議論が前提としているシニカルな人間観についての主張も同様だ。


「お金」や「損得」を基準にしたものの見方は世にすべからく広がっているけれど、特に政治家とかメディアの物言いや切り口は全てこれと言っていいかもしれない。「お金」でない評価基準を求める声や、お金が欲しいわけじゃないなんて声も上がっている中、いまだに世の中枢にいる人たちの基準は「金勘定」なのだ。


例えば、今話題の地域政党(橋下さんとか河村さんとかetc.ね)。メディアではもてはやされているが、内田氏は「あんなのダメ」とさらりと言った。なぜなら、彼らが「おもにお金の話をする」からだそうだ。「損得勘定」を前面に出したぶっちゃけ政治であるからだ。

「財源」「コスト」「減税」「合理化」・・・


私もかつてテレビディレクターをしていたとき、演出上、金額を出すこと、お金の額に置き換えて表現することがわかりやすいことだと考えていた。確かにそういう部分はあるけれど、そういう訴求方法や「言葉」って多分もう古いのだと思う。

それでもまだまだ、新聞を見てもテレビを見てもそんなんばっかりだ。

東京都知事選の候補者は、都政を「経営」に位置づけてるしね。


テレビのコメンテーターに、経済学者が増えたのも、行政に元経営者が進出するようになったのも、特に政治やメディアの世界がお金や損得を軸に物事を捉えるようになっている現れだろう。


あの朝まで生テレビも、昔は大島渚や野坂昭如が大げんかしていたが、最近、作家や映画監督などはめっきり登場しなくなった。データによる分析がどうだといった意見ばかりで、深い人間観察や、人間の不条理を前提とした意見は聞こえてこなくなった。


「朝生」といえば、私は以前、自らのブログにこんなことを書いている。

去年の夏「若者不幸社会」をテーマにした「朝まで生テレビ」でのやりとりを見ての感想だ。このブログの記事は田原総一郎氏にツイッター上でRTされたことをきっかけに、ものすごく共感のご意見をいただき、その後10万PV以上読まれたと思う。

 

ちょっと、その一部分をここに引用する


以下「いまさらながら、朝まで生テレビ~若者不幸社会~東浩紀”退席”に思う」より抜粋


(引用ここから)

そして、そのすぐ後、東浩紀が日本人の自信喪失について語ったとき、奇しくも田原が今回の議論を象徴するような発言をした。


田原「なんで日本人は自信失ってるの?」

 東「それは、すぐこうやって景気の話とか税金の話とか

   ばっかりやって、暗い話しか出てこないんですよ。

   だからといってお金の話を軽視するわけじゃないんですよ…」


そしたら田原総一郎が言ったのが以下の言葉だ。


田原「戦後の日本はね、金の話以外はできなかったんだよ。」

 東「じゃあ、(文化の話も)するようにしましょうよ」


東は軽く言ったが、実はこの辺に、今回の討論における世代(だけじゃないけど)間の断絶の原因や、戦後日本の抱える問題点もあるのではないかと思う。多分、世の中の多くの人は、お金の話をすること、もしくは、全ての価値をお金に言い換えることが、人々にもっとも訴求する方法だと考えている。メディアの切り口なんてほとんどがそれだと言ってもいい。そして、そうした価値観や手法は、打算的な思いからだけではなく、朝生に出演する善意の知識人にも浸透している(そう考えると、対話の断絶性とか、格差とかって決して世代間だけではないよなあ)。


私は、数年間テレビの報道局で仕事をしていて、ずっと、政治や経済の話と文化の話の

断絶を不思議に思っていた。文化とは生活の中から生まれるはずなのに、その生活を守るための政治や、生活そのものである経済は、まるで別のもののように扱われているのだ。「文化は男の仕事じゃない」みたいなね。


「人はパンのみにて生きるにあらず」なんて、理想主義と言われそうだが、「戦後、金の話しかできなかった」日本では、今、金以外のことを話す必要があるのだと思う。

「文化」は「文明」に服従するものではなく、車の両輪。霞を食って生きる人も必要と言う事だ。それに時代も変わったのだ。アップルを見てご覧!


また、東は文化を海外に説明するための「言論」「言葉」が同時に必要だと語ったが、

その通りだ。本当に、伝わる言葉で伝えないと物事って伝わらない。「言葉」は重要である。


(引用ここまで)


この記事が、多くの人々の共感を得たことからも、

今、世の中は「お金」や「損得」以外の価値基準を求めていると思われる。


内田氏も講演で言っていた。「もう金の話はやめませんか」



『内田樹講演会「平成の攘夷論」に行った~その4~政治とメディアに望むこと』に続く


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民主党BBL内田樹氏講演会「平成の攘夷論」に行った~その2~

2011-03-01 04:10:35 | ツイッターつぶやき

 

~その1~から続く
1)~3)全てに共感する。
特に、2)と3)については、私自身も同様のことを考えて来た(話の納得度は到底及びませんが)。2)については、先にも述べた「出島プロジェクト」の設立趣旨に近いと思う。

さらなるグローバリズム時代をサバイブするために必要なのは、「国際標準」ではなく「日本でしか作れないもの」ではないかとして、それは何かを考えた文章だ。

参考:「出島プロジェクト」とは(←クリックでとびます) 

 

 

こうした考え方は、私にとってはすんなり受け入れられるものなのだが、講演会の質疑応答では、疑問の声が上がった。これだけグローバリゼーションの影響を受け、外国人がどんどん日本にやってくる時に、日本の公共性を、日本人だけのアイデンティティとか日本の伝統だけに依拠して作るのは無理があるのでは?という疑問だ。開国して新しい風も入れながら新しい公共性を日本社会に作っていくべきだという。


一見、そうかもな?とも思える質問だが、よく考えると、質問者が考えている新しい公共性って、具体的にどういうことを想定しているのかがよくわからない?生活文化のことなのか、職場の仕組みのことなのか、ビジネスのあり方のことなのか・・?それとも、行政の外国人受け入れにおけるシステムとか?


それに不思議なのは、外国人を国内に受け入れる時、なぜ、日本に合わせてもらおうと考えないのだろう。例えばフランス人みたいに。

無理に日本に合わせろということではない。外国人がすすんで合わせたくなるような日本の魅力を見つけ出す努力をなぜしようとしないのだろうということだ。世界中の人から愛してもらえる魅力ある日本であるためには、やっぱり「差別化」だと思うんだけどなあ。不思議の国ジャポンでいいじゃない。魅力があれば、スタンダードに合わせなくとも、向こうから合わせてくれるんじゃないだろうか。


そういう意味で、内田氏言うところの「辺境日本」には他国とは異なる珍しいポテンシャルがいっぱいあるはずだ。それを探さずして、なぜ周りに合わそうとばかりするのか?


自分の国の文化に自信がないのかなあ…?というよりも、日本人はもはや自国の文化がどういうものか分からなくなってるんだろうなあ…。


これは私の勝手な妄想であるが、多くの人は”日本の伝統”というあたりに、いわゆる一昔前の和風の生活様式みたいなものを想像して、「自分だって今更、畳に正座の生活とか出来ないし、外国の人にそれを求めるのは酷でしょ」というようなイメージを抱いて、グローバルスタンダードに合わせろと言っているのではないだろうか。あまりにも貧困なイメージを例に挙げて申し訳ないが、実際のところはどうなんだろう。でももしそうだとしたら、それは短絡的すぎる。


けれど、私より下の世代の人にとって、日本の生活文化の良さといっても、何が日本の生活文化なのかわからないほど、日常生活から日本の伝統的なものがなくなっている。そんな中で、何が日本に特有のもので、何がすばらしいのかを認知できる事自体が特別なのかもしれない。


私は、たまたま家にお金が無かったせいで、古い家をずっと建て替えられず、いわゆる日本家屋というもので子供時代を過ごした。五右衛門風呂を沸かしたし、火鉢もあった。雪見障子から外を覗いた。そのせいで、日本の伝統的な住環境の良い部分を味わうことができたし、興味もある。ある意味、特別な環境だったおかげだ。そうでもなかったら、日本文化のいいところを

アピールしようなんて発想にならなかったかもしれない。内田氏は、着物の着方や武道の身体の使い方の話もしていたが、こういう身体の所作に関わる伝統は、日本人の深いところで脈々と生き延びているにも関わらず、現代社会では意識している人は少ない。

日本は2000年かけて積み上げて来たものを、これまでの2度の「開国」によって、その価値も考えず打ち捨ててしまったってことだろう。


特に、政治家だの、学者だの、留学経験があったり横文字を使うことの多いエリートの方が、

日本的生活様式から遠ざかっているのが鹿鳴館時代からの日本の特徴だし、その傾向は今も続いているような気もする。

 

そういう方たちを前にして語られたこのグローバルスタンダード幻想論は

どれほど理解されたのだろうか。


「内田樹講演会『平成の攘夷論』へ行った~その3~」に続く

 

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民主党BBL内田樹氏講演会「平成の攘夷論」に行った~その1~

2011-03-01 03:30:51 | 出島DEJIMAプロジェクト

23日、衆院議員会館の多目的ホールで行われた民主党BBL「内田樹氏講演:平成の攘夷論」。政府が掲げる「平成の開国」にぶつけたテーマだ。22日の午後、ツイッターで開催情報をキャッチ。あの仙谷由人民主党代表代行も来て発言するらしい。これは聞いてみたい。すぐに予定に入れた。

私は昨年から「出島プロジェクト」という個人のプロジェクトをやっている。あの長崎の「出島」にちなんだ名称をつけたのは、これからの時代、世界に日本をどうアピールしていったらいいだろうと思ったからだ。フィルターとしての出島でなく、情報発信拠点としての出島である。そんなわけで、今回の「開国」だの「攘夷」だのというテーマには食指が動いた。


そうでなくとも、TPPって正しいのどうなの?いや、アメリカ迎合らしいよ?農業はどうなっちゃうの?などなど、国民の多くが平成の開国を黒船の来襲と同義に受け取って恐怖におののいている。私自身もTPPには反対だ。菅政権は「第3の開国」を前向きなものとして訴えたいのだろうが、歴史的に見ても、これまでの2回の開国は、「圧力に屈してこじ開けられた開国」と「敗戦による開国」で、ぜーんぜん前向きじゃない。「TPPを考える国民会議」の東大名誉教授の宇沢弘文先生曰く、1回目はパックスブリタニカ、2回目はパックスアメリカーナで日本が下僕となった開国だった。で、3回目はどうだ? このところアメリカが弱って来て、やっとうるさいこと言われなくなりそうなものを、わざわざ、向こうの出す条件交渉に乗り出そうっておかしくないか?(入るかどうかはまだ交渉してみないとわからないと菅さんはおっしゃってますが)、これをどう前向きに捉えろって言うのだろう?


今の日本が内向きなのは事実だと思う。ある意味鎖国状態とも言えるかもしれない。しかし、TPP参入のような開国の仕方は、どうも納得がいかない。そんな中「開国」じゃなくて「攘夷論です」「TPPには反対です」って言う内田先生が、衆院議員会館で、民主党主催の会合でどんなことを語られるのか?興味が湧かないわけがない! それに生内田樹は初めてで、どんな声をしているのかも聞きたかったし…。


というわけで、前置きはこのくらいにして、内田樹氏の講演はどんな内容だったのか。

これはもう頷くしか無い説得力だった、と私は思う。「私は思う」と書いたのは、最後の質疑応答で質問した二人の方が二人とも、内田氏の主張に疑問を投げかけていたからだ。でも、私としては納得。なぜTPPに参入しない方がいいか、人間論とか文化論も含めた、包括的な意見を聞けた。


注:

講演の詳しい内容は、フリージャーナリストの岩上安身氏がつぶやかれているので、そのまとめのtwilogをここに掲載しておきます。

  http://twilog.org/iwakamiyasumi/date-110223

また、有田芳生氏もご自身のブログで講演会のまとめを書かれているので、そちらもご参考に。『TPPに反対する 内田樹さんの「平成の攘夷論」』

  http://saeaki.blog.ocn.ne.jp/arita/2011/02/tpp_0faa.html


いろんな話をされたが、主にここでは、内田氏が「平成の開国」に懐疑的な理由を中心に述べる。その理由とは以下のようなものだ。


1)政府の言う開国は、極めてアメリカ向きな開国ではないのか。アメリカ以外の国にも開こうとしているかは疑問。戦後の日本には「アメリカに任せておけば悪いようにはされない」という非扶養家族意識とも属国意識ともいえる無根拠な信頼がある。普天間基地の問題も、TPPも、そうした日本のアメリカに対するゆがんだ心情によって、かえって複雑になってしまっているのではないか。自国の利益を最大化しようとするエゴイスティックなアメリカの国際戦略にはもう少し警戒心をもっていい。


2)グローバルスタンダードへの懐疑。

 あるべき国民国家像がどこかにあるかのように考え、それに合わせようとしているが、それこそ幻想。国の統治形態というものは、衣食住の文化や宗教観や自然観、美意識などなどリアルな生活実感をともなったものがベースになって作られるものであり、国ごとに異なるものだ。各国が世界標準の国家像にキャッチアップするようなものではない。そんなことをやっていたら、その国の根源的な活力が失われてしまう。

日本も、自分たち国民の知恵と力がもっとも高まるような形を自力で探すのが、本来の国民国家の有り様。それが自らの活力をもっとも高められる方法。

  

3)「開国論」が前提とする人間観への懐疑。

開国論は、「結局人間は金で動く」というシニカルな人間観を前提としていると思われる。人間とは1円でも安いものを買い求めようとし、自己利益を追求するものだという幻想だ。そういうシニカルな見方をする人間をリアリストと考えているようだが、人々のリアルな行動はもっと複雑で、誰かの役に立ちたいといった公民意識もある。そんな一面的な人間観を前提に考えられた仕組みは世の実情に即していない。今の世の中、世のため人のために何かしたいという人は多いが、政治はそうした公民とか公民意識を語る文脈や言葉を持たない。


「内田樹氏講演会『平成の攘夷論』に行った」~その2~へ続く


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2月28日(月)のつぶやき

2011-03-01 02:48:10 | ツイッターつぶやき
01:53 from web (Re: @yongkilh
@yongkilh 確かに寺島しのぶはやり過ぎ感あります。多分、岡本太郎のマネはしながらも、チャラおやじ的な素の部分が垣間見えてしまう松尾スズキに脱力したんだと思います。サブカルモテ男のリリーフランキーや松尾スズキ特有のだらしなさみたいな感じは岡本太郎とは対極な気がするし。
08:25 from web
NHK朝イチ母親の認知症。冷蔵庫がぐちゃぐちゃに。頭の中がごちゃごちゃ。そういう意味では、私もいっしょだけど。
08:27 from web
あー、文章ってしばらく書かないと、書くの遅くなるなあ。構成するのが大変。
10:59 from web
キャノンMP560:テキストのモノクロ印刷に白い筋がたくさん入って、ちゃんと印刷できない状態が続いていた。ノズルクリーニングをやってもヘッド位置を調整しても、ドライバ入れ直してもダメだったが、ヘッドボックス外してインクの出口拭いたら、印刷できるようになった。単純なことなんやね。
15:19 from web
雪が降ってるー
by yurys on Twitter