~その2~から続く
それは、3)の開国議論が前提としているシニカルな人間観についての主張も同様だ。
「お金」や「損得」を基準にしたものの見方は世にすべからく広がっているけれど、特に政治家とかメディアの物言いや切り口は全てこれと言っていいかもしれない。「お金」でない評価基準を求める声や、お金が欲しいわけじゃないなんて声も上がっている中、いまだに世の中枢にいる人たちの基準は「金勘定」なのだ。
例えば、今話題の地域政党(橋下さんとか河村さんとかetc.ね)。メディアではもてはやされているが、内田氏は「あんなのダメ」とさらりと言った。なぜなら、彼らが「おもにお金の話をする」からだそうだ。「損得勘定」を前面に出したぶっちゃけ政治であるからだ。
「財源」「コスト」「減税」「合理化」・・・
私もかつてテレビディレクターをしていたとき、演出上、金額を出すこと、お金の額に置き換えて表現することがわかりやすいことだと考えていた。確かにそういう部分はあるけれど、そういう訴求方法や「言葉」って多分もう古いのだと思う。
それでもまだまだ、新聞を見てもテレビを見てもそんなんばっかりだ。
東京都知事選の候補者は、都政を「経営」に位置づけてるしね。
テレビのコメンテーターに、経済学者が増えたのも、行政に元経営者が進出するようになったのも、特に政治やメディアの世界がお金や損得を軸に物事を捉えるようになっている現れだろう。
あの朝まで生テレビも、昔は大島渚や野坂昭如が大げんかしていたが、最近、作家や映画監督などはめっきり登場しなくなった。データによる分析がどうだといった意見ばかりで、深い人間観察や、人間の不条理を前提とした意見は聞こえてこなくなった。
「朝生」といえば、私は以前、自らのブログにこんなことを書いている。
去年の夏「若者不幸社会」をテーマにした「朝まで生テレビ」でのやりとりを見ての感想だ。このブログの記事は田原総一郎氏にツイッター上でRTされたことをきっかけに、ものすごく共感のご意見をいただき、その後10万PV以上読まれたと思う。
ちょっと、その一部分をここに引用する
以下「いまさらながら、朝まで生テレビ~若者不幸社会~東浩紀”退席”に思う」より抜粋
(引用ここから)
そして、そのすぐ後、東浩紀が日本人の自信喪失について語ったとき、奇しくも田原が今回の議論を象徴するような発言をした。
田原「なんで日本人は自信失ってるの?」
東「それは、すぐこうやって景気の話とか税金の話とか
ばっかりやって、暗い話しか出てこないんですよ。
だからといってお金の話を軽視するわけじゃないんですよ…」
そしたら田原総一郎が言ったのが以下の言葉だ。
田原「戦後の日本はね、金の話以外はできなかったんだよ。」
東「じゃあ、(文化の話も)するようにしましょうよ」
東は軽く言ったが、実はこの辺に、今回の討論における世代(だけじゃないけど)間の断絶の原因や、戦後日本の抱える問題点もあるのではないかと思う。多分、世の中の多くの人は、お金の話をすること、もしくは、全ての価値をお金に言い換えることが、人々にもっとも訴求する方法だと考えている。メディアの切り口なんてほとんどがそれだと言ってもいい。そして、そうした価値観や手法は、打算的な思いからだけではなく、朝生に出演する善意の知識人にも浸透している(そう考えると、対話の断絶性とか、格差とかって決して世代間だけではないよなあ)。
私は、数年間テレビの報道局で仕事をしていて、ずっと、政治や経済の話と文化の話の
断絶を不思議に思っていた。文化とは生活の中から生まれるはずなのに、その生活を守るための政治や、生活そのものである経済は、まるで別のもののように扱われているのだ。「文化は男の仕事じゃない」みたいなね。
「人はパンのみにて生きるにあらず」なんて、理想主義と言われそうだが、「戦後、金の話しかできなかった」日本では、今、金以外のことを話す必要があるのだと思う。
「文化」は「文明」に服従するものではなく、車の両輪。霞を食って生きる人も必要と言う事だ。それに時代も変わったのだ。アップルを見てご覧!
また、東は文化を海外に説明するための「言論」「言葉」が同時に必要だと語ったが、
その通りだ。本当に、伝わる言葉で伝えないと物事って伝わらない。「言葉」は重要である。
(引用ここまで)
この記事が、多くの人々の共感を得たことからも、
今、世の中は「お金」や「損得」以外の価値基準を求めていると思われる。
内田氏も講演で言っていた。「もう金の話はやめませんか」
『内田樹講演会「平成の攘夷論」に行った~その4~政治とメディアに望むこと』に続く
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