今回の麻央さんの件に関連して、私にも知人を通して、古い知人の取材者から「そういえばがんでしたよね」という問い合わせがあった(私の連絡先がもう分からなくて、知人を介したよう)。結局、取材者と直接連絡を取る事はなかったが、今日の今日で取材して報道したいということである。こういうデイリー生番組の取材体勢はよく知っているし、私も遠い昔、そうしたデイリー番組をやったこともあるが、私が自分の命を守るために長い時間かけて調べ、実践したり、また実践できなかったりしていることを、たった30分や1時間取材して理解できるわけがない(私はいつも深層を知りたくなり、結果を出せない取材をしていたものです)。
最初、取材をもちかけられたとき、「私の言いたい話をちゃんと曲げずにオンエアしてくれるならいいよ」と間に立ってくれてた知人に言った。それは偽りない本音である。しかし、「バランス」などといわずに報道する覚悟が取材者にあるとは思えないし、「私の言いたい話」と言いながら、私自身、本当に何を言いたいのかは自分の中で明確になっていない。人間いつも迷いはあるものだ。
別に私は「そういえばあの人がんだったよな」と思って連絡をよこされることについては何とも思わない。むしろ特別視される事の方に違和感がある。ただ、取材するからには、ちゃんとその内容を理解できるだけの能力を持って来て下さいというだけだ。知識をすべて持ってろとは言わない。現在、がん医療やがん患者を取り巻く状況にどういう問題点があり、どういう論争が巻き起こっているかくらいの概況は知っていて欲しいし、先生様のご意見傾聴しとけばいいだろう的な批判精神の無い態度で取材はして欲しくないだけ。
がんという病気はもはや「闘病」というジャンルの「ネタ」である。なぜか「闘わない」ものは見向きもされない。
「貧困」にしろ「下流」にしろ「闘病」にしろ、それとは無関係の人たちが、自分たちの想像の範囲にあるものだけをふるいにかけて「物語」としてメディアに載せる。「物語」がもっともウケるのは古からの定説だし(スターウォーズもハリポタも神話の下敷きだしさ)、特別な事情や特殊な考え方は「短い尺」では割愛せざるを得ないからだ。取材者がよほど巧妙に仕込まない限り、真実に繋がるディテールはふるいおとされる。
真実は細部に宿り、その細かいたくさんのものの複雑な絡み合いこそが真実であると思うとき、「抽出されたデータ」などというものは、真実追究までの途中の参考データでしかないと感じる。もちろん、それも役に立つ情報のひとつではあると思うが、それを絶対視することには危険を感じる。それは私の嗅覚が感じる事だが、人間が理解できることや解明できることなんてその程度だとも思う。
それは「貧困」をあつかう社会科学でも「がん」を扱う医学でも同じこと。最近、そう思えてしょうがない。
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