江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

大和本草附録に見る河太郎

2019-10-21 22:57:05 | カッパ
大和本草附録に見る河太郎
                    2019.10
河太郎と相撲をとった人が、正気を失って、病いになった場合には、
しきみの木の皮をはぎ、乾燥させて粉(抹香)にし、水にかき混ぜて、呑ませれば、すぐに正気をとりもどし、本復する。

しばしば用いて、効果があると云う。
しきみは、莽草である。
木であるが、本草綱目には、毒草類に、分類、記載されている。

編者注:これは、大和本草附録(益軒全集)に見る河太郎の記述です。
    貝原益軒先生は、実にまじめな人です。
    「大和本草」も、まことにまじめな書です。
    その、先生も、カッパ(河太郎)の存在を疑っていなかったようです。
    これは、時代の為でしょう。

スッポンがカッパとなる  「さへずり草」「松の落ち葉」

2019-10-21 22:44:51 | カッパ
スッポンがカッパ(河太郎)となる
                        2019.10
「さへずり草」 「松の落ち葉」の巻  より。  
   
山崎美成が、このように語った。
水虎(すいこ:カッパの別名)の写生図を見たことがある。
背と腹ともに、スッポンの甲羅によく似ている。
手足首の様子はスッポンによく似ている。
世人がスッポンの年経たものである、と言うのも、うなづける。
先日見た陰乾(かげぼし)した物を見た。
それを、諸国図説のとを比べて思うに、(カッパは)カワガメの年経たものが、変化したものであろう。
越中富山の方言に、カッパのことをガメと言うのも、大いに訳(わけ)があるのであろう。




河太郎の身長及ぴ鳴声  蜀山人全集「一話一言」

2019-10-21 22:27:23 | カッパ
河太郎の身長及ぴ鳴声

蜀山人全集  「一話一言」より
河童図説、享和辛酉六月朔日。

(以下の文は、東浜という地名の権平次さんと言う名の漁師から、浦山金平という人への報告書のようです。
 河太郎カワタロウは、カッパの別名の一つ。)

報告書

水戸浦より上った河童は、身長が三尺五寸余り(105㎝位)、重さが二十貫目(約75㎏だが、身長と釣り合わない。しかし・・・)有りました。
見た目よりも、体重が多う御座いました。

海中にて、赤子のような鳴声が夥敷(おびただ)しくきこえました。
漁師たちは、船に乗っておりました。
海の底から声が聞こえてきましたので、網を下したところ、いろいろの声が聞こえてきました。

それから、さしあみを引廻しましたが、網の内へ拾四五疋ほど入っておりました。
カッパたちは、おどり出て逃げ出そうとしました。
船頭たちは、棒かいなどで、打ちましたが、カッパたちはねばり付いて来て、かい等で打っても、一向にききませんでした。
そのうちの一匹が、船の中へ飛込んだので、とま等を体の上に押しかけて、その上からたたいて、打殺しました。
その際に、やはり赤子のような鳴き声を出しました。
河童の鳴声は、赤子の鳴声と同様で御座いました。
打殺した際には、屁をこきました。
誠に耐え難い臭いで、船頭などは後あとまで、悩まされました。
カッパを打った捧かいなどは、生臭い臭いが、未だに消え去ってはおりません。

尻の穴は三っつ有りました。
全体的に、骨が無いように見えました。
屁の音はしなくて、ズズッとばかりでありました。

カッパたちを打つと、首が胴の中へ八分程入ちました。
カッパの胸は張出していて、セムシのようで御座いました。
死んでしまって首が引込まない状態でした。

当地では、度々カッパを捕えますが、此の度つかまえたもの程大きいのは、今までありませんでした。

珍しいことでありましたので、ご報告申し上げます。

以上。
六月五日 東浜、権平次   浦山金平様

安倍晴明の母は狐であったか?  広益俗説弁

2019-10-20 20:00:56 | 安倍晴明、役行者
安倍晴明の母は狐であったか?
                        2019.10
安倍晴明は、平安時代の人ですが、江戸時代の文献にもしばしば登場します。
安倍晴明の母は、キツネであった、と言う説があります。
江戸時代の「広益俗説弁」には、この説を、考察した文章があります。

以下 本文
安倍晴明は、キツネの子と言う説がある。
俗説に云う。 
安倍晴明は、筑波根(つくばね)の麓、猫島の産まれである。
彼の母は、どこの者かも知れず、猫島に来て、安倍晴明の父に嫁した。
三年後に、子供を産んだ。
子供は、安倍童子と云った。
その母は、童子が三歳の時に、狐となって、歌を残して去っていった。
その歌は、
「恋しくば 尋ね来て見よ 和泉(いずみ)なる 信太(しのだ)の森の うらみくずの葉」であった。
童子(晴明)は成長して、安倍晴明と名乗った。

(睛明が長じて、)
信太の森に行くと、一匹の狐が出てきて、「我こそは、汝(なんじ)の母なり。」と言って、かき消すように去って行った。

また、ある説には、晴明を清明と記して、橘という性であるとしている。

一説に芦屋道満(あしやどうまん)と術を比べることを望んで、内裏(宮中)で、勝負をした。
道満は、負けて、安倍晴明の弟子となった、と伝えられている。


今、考察するに。
睛明は、筑波根猫島の産まれであって、母が信太の森の狐であることは、偽りである。

阿倍睛明伝に云う。
睛明の父は睛基(一説には、益材)母は賀茂保憲の娘である。
讃州地志(さんしゅうちし)に云う、
睛明は讃岐國香東郡由佐々の産まれ也、とあるので、俗説と相違していることがわかろう。
思うに、右の俗説は.中山忠親の著した「水鏡」に由来する。
欽明天皇の御代に、美濃の國の人が、野中にて美女に逢い、つれ帰って妻とした話に基づいている。
女は、一男子を産んだ。
その後、犬に吠えられて、もとの野干(やかん:キツネのこと)の形を現し、屏の上に飛びあがった。
夫は、お前は畜類とは言え、このほど夫婦の契りをしたので、別れ難いものだ。
夜に来るように、と言った。すると、夜ごとに会いに来た。
これよりして野干をキツネ(来つ 寝)と言うようになった。 
このことは、日本霊異記に、詳しく書かれている。
それで、好事家が睛明の妖術を神格化しようとして、附会したものである。

また、睛明を清明と書くのは、音によって晴を清と取り違えたものである。
また、晴明を橘姓とする事は、間違いである。
姓氏録から考えるに、阿倍は孝元天皇の子の大彦命(おおひこのみこと)の子孫である。
橘は、敏達天皇の後胤の橘諸兄(たちばなのもろえ)の子孫である。
その出自からして全く異なる。

又、睛明と道満の術比べ説も間違っている。
ただし、宇治拾遺物語には、こんな話がある。
昔、睛明の土御門の家に、老いしらみた老僧が、訪ねてて来た。十歳ばかりの童部(わらべ)を二人を供に連れてきた。
睛明が、「どなた様でしょうか?」と聞いた。
すると、
「私は、播磨の国の者です。陰陽師に学びたいと参りました。
安倍晴明様は、特にこの道に優れている事を聞いて、少々習いたい、と参りました。」
との返答であった。
睛明は、この言葉を聞いて考えた。
この法師は、すぐれた術者であろう。
私を試しに来たのであろう。
それで、うっかりしたことは、言えないであろうと考えた。
それでは、この法師の力を探ってみようと思った。
あの二人の童子が式神(しきがみ)ならば、隠そう、と心中で念じて、袖の内で印を結んで、密かに呪文を唱えた。

そして、法師に言った。
「今日は、すぐお帰り下さい。後日の都合のよい日に、ご希望の術を、お教えしましょう。」と。
すると、法師は、「それは、大変ありがたいことです。」と、手をすり合わせて、帰りかけた。
帰ろうとして、この法師は、立ち止まって、あちこち、車を止める所などを、童子を見つけようと覗き歩いた。
見つからないので、また、睛明の前に戻ってきて、こう言った。
「供に連れてきた童子が、二人とも消え失せてしまいました。お返し下さい。」
睛明は、
「変なことを言う、お坊さんですね。
何故、私が、人の供なる者を、隠してとり上げた、
と言うのですか?」と言った。
法師は、
「睛明様の、術が大変すぐれているのがわかりました。傲慢でした。お許し下さい。」と詫びた。
「お坊さんは、私を試そうと、式神を使われましたが、私以外の者に、そのような事を試してください。私には、通じませんよ。」と睛明は言った。
そして、物を読むようにして、呪文を唱えた。
少ししてから、卯の方角より、童子が二人とも走ってきて、法師の前に出てきた。
法師が、言うには、
「まことに、睛明様の術を試そうとしました。
式神を使うことは易しいことですが、人の使っている式神を隠す事は、難しいことです。
これからは、睛明様の弟子となりましょう。」と言って、懐より名簿を出して、睛明に与えた。

今昔物語に云う。
播摩の國に陰陽師をする法師、名を智徳と言うのがいた。
智徳は、極めて恐ろしい奴(やつ)であったが、睛明にあって、式神を隠された、とある。
このことから判断すれば、法師というのは、智徳であって、道満では無い。
故事談、宇治拾遣、東斉漫筆に、道満も播摩の者とあるので、二人を混同して作り出した説であろう。

以上。
広益俗説弁(広文庫)より
安倍晴明は、平安時代の人ですが、「広益俗説弁」は、江戸時代の書です。
それで、この「江戸の怪談、奇談」で取り上げました。

柳津(やないづ)の池の魚を毒殺す  新著聞集 第九 祟厲篇

2019-10-07 23:46:21 | 怪談

柳津(やないづ)の池の魚を毒殺す                           

       2019.10

 

出羽の国柳津(でわのくに やないず)の虚空蔵(こくぞう)の池に、魚が多く棲んでいた。

蒲生下野守がそれを見て、なぜか解らないが、毒を流し入れて、魚を殺してみたい、と言った。

それで、この池は、昔から、殺生禁断の地である、と諫めたが、最後まで、意見を聞き入れなかった。

 

そして、魚たちは、悉く殺されてしまった。

 

その日より大地震が起こり、それから十四日の間、大地震は止まらなかった。

山は崩れて洞となり、河は宇埋まって陸地となった。

城中をはじめ、民屋ことごとく崩れおち、人が多く死なだ。

これより程なく、下野家は滅んでしまった。

 

これは、無意味な殺生の罰があたったのであろうか?

 


「新著聞集 第九 祟厲篇」より
 

訳者注:柳津について、ここでは、出羽の国=山形県、とあるが、福島県会津の地名である。 この毒流しの話と似たのが、いくつかある。