蛙の国の夢
原題「井蛙館游宴(せいあかんゆうえん)」
2019.10
これは、江戸時代の「御伽厚化粧」享保十九年(1718年)にある話です。蛙の恩返しとも言うべき物語です。
蛙の国王の娘・姫が、蛇にのまれそうになったのを救い、そのお礼に、蛙の王国に招かれと、と言う話です。
おそらく、これは、中国の志怪小説にしばしば見られる、ストーリイの翻案でもありましょう。
また、「邯鄲の夢」、「金々先生栄華の夢」とも似通っています。
「聊斉志異」には、この手の話がいくつかあり、動物は、蛙ではなく、蜂などとなっており、また、主人公は、秀才と成っています。
現代でも、この手の話は、面白いとするようで、スタジオジブリの「猫の恩返し」では、主人公は女子高生となっています。これも、これらの話の流れにあります。
以下、本文の現代語訳
(蛙の国の夢)
井蛙館游宴(せいあかんゆうえん)
中世の頃、津の国(三重県)の「こや野」と言う所に、豊田小才次と言う百姓がいた。
ある日、こや野の池の堤を通った所に、大きい蛇が、蛙を捕まえて、呑み込もうとする所を、見つけた。
小才次は、持っていた杖でもって蛇を追いやったが、蛙は危い命を助かり、水に飛び込み泳いで逃去った。
その後、小才次は、田の草とりをしようと、男達と共に田に行った。
しばらく田の畦に昼寝して居た所に、高い冠に萌黄色の衣を着た人が、多くの従者を召つれて、巍々堂々として出て来た。
そして、小才次の前にかしこまって言上した。
「私は、沢辺国(たくへんこく)の主、井蛙(せいあ)大王よりの使者であります。
わが王は、久しくあなた様にお会いする事を願っております。
それゆえ、我々は仰せを承って、あなた様を迎へ奉るためにまいりました。願くは、お出でください。」
と申しあげた。
それで、小才次は驚き、
「私は、卑しい土百姓の身分でございます。外国の國王さまより勅使を受ける覚えは御座いません。
まして日本は、海にかこまれ、外国ははるかな遠くに御座いますので、どのようにして、行くことが出来ましょうか?」
使者が、申しあげるには、
「沢辺国(たくへんこく)は外国ではありません。即ち、此の近き辺りにあります。お出で下さい。」と言った。
小才次は、不思議に思いながら、彼の使者とつれ立って歩けば、程なく一つの門に至った。
井蛙館と云う額が掲げられていた。
彼の使者が申し上げるには、
「これ即ち、わが大王の城門でございます。」と。
その門より内に行って、一つの宮殿に至った。
「客人をお招き致しました。」と奏上すると、国王は、急いで出迎かえ、敬意を払った。
これは、わが大事なお客様であると、自ら立ち上がり、小才次の手をとり、玉の椅子の前に招いた。
すると、小才次は、大いに恐れいり、
「私は、日本の卑しい土民で御座います。
大王様は、なんでこのように、鄭重に、私を、お迎えくださったのでしょうか。」と言うと、
王は答えた。「あなた様は、扶桑(日本)の神孫であります。私たちは、あなた様を尊敬するのは、当然の事です。」
そして、強いて椅子に座らせ、再び拝して、言った。
「先日、私の娘が池の堤に遊んでいた所に、敵が急に追せまり、命をとられそうになった所に、あなた様が、幸いに来て頂きまして、命を救って頂きました。
この大恩は、誠に感謝しても感謝仕切れません。それで、今日、我が屋敷にお招きいたしました。」
小才次は、不審に思って、
「私は、そのようなことを致したことは御座いません。」と答えた。
「このようなことは、あなた様は、なぜ覚えていらしゃらないのですか?」
そこへ、数十人の臣下大臣が、各々威儀を正して、両側に列座し、酒宴を催し始めた。
小才次が、つくづく宮室の様子を見れば、いづれもかけ作り(水上にせり出した建築)であって、その美しさは、すばらしく、水は宮殿の下にさし入り、向うを見れば漫々たる湖水であった。
その時に、大王は、こうおっしゃった。
「さて、我国の開基の大祖は、蝦蟇仙人であります。
それから始って、子孫は多くにわかれ、池や湖などによって、それぞれ国を打ち建てました。
我が一族は、元より武に長じ、太公子房の兵書を受け継ぎ、
諸葛武侠の八陣、韓信の嚢沙背水の陣法を、我が一族は、ものにしました。
この故に、ややもすれぱ隣池分沢の諸侯と国境の境界争いをし、合戦に及ぶ事は、度々でありました。
このために、人間にもたまたま我々の合戦を見られる事が有ります。
私たちは、特に水国に育って、水練が、得意であります。
願くは、あなた様の御慰みに、この湖水に入り、肴をとらせて御目にかけましょう。」と言った。
そして、臣下大臣に向って、
「早く水練をして御覧に入れよ。」と命令した。
小才次は、大王とともに、高欄によって下を見れば、臣下十余人が、衣冠をつけたまま湖水に飛び入った。
ある者は、水底を潜り、或る者は、波をきつておよぎ行いった。
その有様は、普通ではなく、あたかも鵜に似ていた。或る者は、大きい鯉を抱きかかえて上るものも有り、又は鱸(すずき)をくわえて上って来た者もあった。
様々な魚類を取って来て、調理して、小才次に勧めた。
国王がこう言った。
「我が娘は、いまだあなた様にお目見えしておりません。
願わくば、後堂にて、又一献をおすすめ奉りましょう。」と、小才次をまねき入れた。
後堂も、又かけ作りであって、大変美しかった。
高欄の下には 菖蒲や杜若が、面白く咲乱れていた。
さらに、今日は暑い夏の日であるが、気持ちの良い涼しさであった。
小才次は、興に乗って、
舞台子(ぶたいし)の 水に游ぶや 杜若(かきつばた)
と詠んだ。
すると、大王この句を聞いて大きに感じ、
「本当にすばらしい。誠に秀逸の句ですね。私も一首をつらね申しましょう。
私どもが和歌を詠ずる事は、すでに紀貫之(きにつらゆき)も古今の序に記されています。
(古今和歌集には、紀貫之が、その序文に、蛙も歌を詠む、と記しています。)
そうではありますが、三十一(みそひと)文字は珍しくはありません。
願くは七言の唐詩をもって、あなた様の発句に和しましょう。」と。
すぐに、七言絶句の狂詩を、つぎの様に吟じました。
菖蒲杜若映波間(しょうぶ かきつばた はかんにえいず)
游水野州見立哉(ゆうすいやしゅう みごとかな)
葉似艶姿花紫帽(はワ あですがたににて はなワ むらさきをかぶる)
肴斯又勧ニ三盃(さかなを かく また すすめる にさんばい)
と笑えば、小才次をはじめ満座の者達は興に入って、又、杯を廻(めぐ)らして飲んだ。
しばらくして姫君は、多くの侍女を引き連れて、お出でになった。
年は、十五位で、花の様な顔はあでやかで、白衣の上に緑色の天衣をはおり、薫風にひるがえっていた。
付き随っている侍女たち迄も、何れも美しかったが、アゴが少し尖っていた。
小才次には、それが可笑しくて、
花の顔 かつらのまゆに ひきかへて
腹あしげなる 妹(いも)がくちもと
と、和歌を詠んだ。
これを聞いて、姫君を始め侍女どもまで、とても恥ずかしげに見えたが、
顔に水をかけられたように、きょろきょろとしていた。
大王は、このように言われた。
「これは、先日あなた様に命を助けていただいたわが姫でございます。
今日は、たまたまあなた様にお会いできました。
お酒をすすめてさせて、感謝の気持ちを表させましょう。」
多くのの侍女が打ち混じって、酒宴たけなわの頃に、姫君は、琴をひいて、声美しく歌った。
そして、年の頃十二三の女の童(めのわらわ)が、錦の袖をひるがえして舞い歌う様子は、まことに梁の塵も飛ぶばかりであった。
このように面白い宴の最中に、宮中がにわかに物さわがしくなってきた。
「敵が来た。」と、上を下へと騒ぎだした。姫君も大王も驚きあわてて逃げまわった。
小才次 これは何事だろうと、妻戸をあけて出てみると、蛙の声が騒がしく乱れ鳴いていた。
すると、夢はたちまちにさめた。小才次が驚きおき上れば、こやの池の堤にいた。
その時に、水際の蛙が、ことの外さわぎ飛びはねているが、見えた。
先日の蛇が来て、蛙を追廻していた。
小才次は、これを見て、垣の竹を引ぬき蛇を追いやったが、ここにおいて夢の訳をさとった。
さてはこの池の蛙が、先日の恩を思って、夢に私を招待したのであろう。
誠にかように妖しいことを成したとは言え、陰徳の報いであるから、害には成らない。
しばらく、不思議な感覚を覚えたのも、面白いことであった。
原題「井蛙館游宴(せいあかんゆうえん)」
2019.10
これは、江戸時代の「御伽厚化粧」享保十九年(1718年)にある話です。蛙の恩返しとも言うべき物語です。
蛙の国王の娘・姫が、蛇にのまれそうになったのを救い、そのお礼に、蛙の王国に招かれと、と言う話です。
おそらく、これは、中国の志怪小説にしばしば見られる、ストーリイの翻案でもありましょう。
また、「邯鄲の夢」、「金々先生栄華の夢」とも似通っています。
「聊斉志異」には、この手の話がいくつかあり、動物は、蛙ではなく、蜂などとなっており、また、主人公は、秀才と成っています。
現代でも、この手の話は、面白いとするようで、スタジオジブリの「猫の恩返し」では、主人公は女子高生となっています。これも、これらの話の流れにあります。
以下、本文の現代語訳
(蛙の国の夢)
井蛙館游宴(せいあかんゆうえん)
中世の頃、津の国(三重県)の「こや野」と言う所に、豊田小才次と言う百姓がいた。
ある日、こや野の池の堤を通った所に、大きい蛇が、蛙を捕まえて、呑み込もうとする所を、見つけた。
小才次は、持っていた杖でもって蛇を追いやったが、蛙は危い命を助かり、水に飛び込み泳いで逃去った。
その後、小才次は、田の草とりをしようと、男達と共に田に行った。
しばらく田の畦に昼寝して居た所に、高い冠に萌黄色の衣を着た人が、多くの従者を召つれて、巍々堂々として出て来た。
そして、小才次の前にかしこまって言上した。
「私は、沢辺国(たくへんこく)の主、井蛙(せいあ)大王よりの使者であります。
わが王は、久しくあなた様にお会いする事を願っております。
それゆえ、我々は仰せを承って、あなた様を迎へ奉るためにまいりました。願くは、お出でください。」
と申しあげた。
それで、小才次は驚き、
「私は、卑しい土百姓の身分でございます。外国の國王さまより勅使を受ける覚えは御座いません。
まして日本は、海にかこまれ、外国ははるかな遠くに御座いますので、どのようにして、行くことが出来ましょうか?」
使者が、申しあげるには、
「沢辺国(たくへんこく)は外国ではありません。即ち、此の近き辺りにあります。お出で下さい。」と言った。
小才次は、不思議に思いながら、彼の使者とつれ立って歩けば、程なく一つの門に至った。
井蛙館と云う額が掲げられていた。
彼の使者が申し上げるには、
「これ即ち、わが大王の城門でございます。」と。
その門より内に行って、一つの宮殿に至った。
「客人をお招き致しました。」と奏上すると、国王は、急いで出迎かえ、敬意を払った。
これは、わが大事なお客様であると、自ら立ち上がり、小才次の手をとり、玉の椅子の前に招いた。
すると、小才次は、大いに恐れいり、
「私は、日本の卑しい土民で御座います。
大王様は、なんでこのように、鄭重に、私を、お迎えくださったのでしょうか。」と言うと、
王は答えた。「あなた様は、扶桑(日本)の神孫であります。私たちは、あなた様を尊敬するのは、当然の事です。」
そして、強いて椅子に座らせ、再び拝して、言った。
「先日、私の娘が池の堤に遊んでいた所に、敵が急に追せまり、命をとられそうになった所に、あなた様が、幸いに来て頂きまして、命を救って頂きました。
この大恩は、誠に感謝しても感謝仕切れません。それで、今日、我が屋敷にお招きいたしました。」
小才次は、不審に思って、
「私は、そのようなことを致したことは御座いません。」と答えた。
「このようなことは、あなた様は、なぜ覚えていらしゃらないのですか?」
そこへ、数十人の臣下大臣が、各々威儀を正して、両側に列座し、酒宴を催し始めた。
小才次が、つくづく宮室の様子を見れば、いづれもかけ作り(水上にせり出した建築)であって、その美しさは、すばらしく、水は宮殿の下にさし入り、向うを見れば漫々たる湖水であった。
その時に、大王は、こうおっしゃった。
「さて、我国の開基の大祖は、蝦蟇仙人であります。
それから始って、子孫は多くにわかれ、池や湖などによって、それぞれ国を打ち建てました。
我が一族は、元より武に長じ、太公子房の兵書を受け継ぎ、
諸葛武侠の八陣、韓信の嚢沙背水の陣法を、我が一族は、ものにしました。
この故に、ややもすれぱ隣池分沢の諸侯と国境の境界争いをし、合戦に及ぶ事は、度々でありました。
このために、人間にもたまたま我々の合戦を見られる事が有ります。
私たちは、特に水国に育って、水練が、得意であります。
願くは、あなた様の御慰みに、この湖水に入り、肴をとらせて御目にかけましょう。」と言った。
そして、臣下大臣に向って、
「早く水練をして御覧に入れよ。」と命令した。
小才次は、大王とともに、高欄によって下を見れば、臣下十余人が、衣冠をつけたまま湖水に飛び入った。
ある者は、水底を潜り、或る者は、波をきつておよぎ行いった。
その有様は、普通ではなく、あたかも鵜に似ていた。或る者は、大きい鯉を抱きかかえて上るものも有り、又は鱸(すずき)をくわえて上って来た者もあった。
様々な魚類を取って来て、調理して、小才次に勧めた。
国王がこう言った。
「我が娘は、いまだあなた様にお目見えしておりません。
願わくば、後堂にて、又一献をおすすめ奉りましょう。」と、小才次をまねき入れた。
後堂も、又かけ作りであって、大変美しかった。
高欄の下には 菖蒲や杜若が、面白く咲乱れていた。
さらに、今日は暑い夏の日であるが、気持ちの良い涼しさであった。
小才次は、興に乗って、
舞台子(ぶたいし)の 水に游ぶや 杜若(かきつばた)
と詠んだ。
すると、大王この句を聞いて大きに感じ、
「本当にすばらしい。誠に秀逸の句ですね。私も一首をつらね申しましょう。
私どもが和歌を詠ずる事は、すでに紀貫之(きにつらゆき)も古今の序に記されています。
(古今和歌集には、紀貫之が、その序文に、蛙も歌を詠む、と記しています。)
そうではありますが、三十一(みそひと)文字は珍しくはありません。
願くは七言の唐詩をもって、あなた様の発句に和しましょう。」と。
すぐに、七言絶句の狂詩を、つぎの様に吟じました。
菖蒲杜若映波間(しょうぶ かきつばた はかんにえいず)
游水野州見立哉(ゆうすいやしゅう みごとかな)
葉似艶姿花紫帽(はワ あですがたににて はなワ むらさきをかぶる)
肴斯又勧ニ三盃(さかなを かく また すすめる にさんばい)
と笑えば、小才次をはじめ満座の者達は興に入って、又、杯を廻(めぐ)らして飲んだ。
しばらくして姫君は、多くの侍女を引き連れて、お出でになった。
年は、十五位で、花の様な顔はあでやかで、白衣の上に緑色の天衣をはおり、薫風にひるがえっていた。
付き随っている侍女たち迄も、何れも美しかったが、アゴが少し尖っていた。
小才次には、それが可笑しくて、
花の顔 かつらのまゆに ひきかへて
腹あしげなる 妹(いも)がくちもと
と、和歌を詠んだ。
これを聞いて、姫君を始め侍女どもまで、とても恥ずかしげに見えたが、
顔に水をかけられたように、きょろきょろとしていた。
大王は、このように言われた。
「これは、先日あなた様に命を助けていただいたわが姫でございます。
今日は、たまたまあなた様にお会いできました。
お酒をすすめてさせて、感謝の気持ちを表させましょう。」
多くのの侍女が打ち混じって、酒宴たけなわの頃に、姫君は、琴をひいて、声美しく歌った。
そして、年の頃十二三の女の童(めのわらわ)が、錦の袖をひるがえして舞い歌う様子は、まことに梁の塵も飛ぶばかりであった。
このように面白い宴の最中に、宮中がにわかに物さわがしくなってきた。
「敵が来た。」と、上を下へと騒ぎだした。姫君も大王も驚きあわてて逃げまわった。
小才次 これは何事だろうと、妻戸をあけて出てみると、蛙の声が騒がしく乱れ鳴いていた。
すると、夢はたちまちにさめた。小才次が驚きおき上れば、こやの池の堤にいた。
その時に、水際の蛙が、ことの外さわぎ飛びはねているが、見えた。
先日の蛇が来て、蛙を追廻していた。
小才次は、これを見て、垣の竹を引ぬき蛇を追いやったが、ここにおいて夢の訳をさとった。
さてはこの池の蛙が、先日の恩を思って、夢に私を招待したのであろう。
誠にかように妖しいことを成したとは言え、陰徳の報いであるから、害には成らない。
しばらく、不思議な感覚を覚えたのも、面白いことであった。