前回は一霊四魂という言葉の簡単な意味を、ざっくりと説明しました。
今日はその中の四魂について其々の説明です。
四魂とは『和御魂(にぎみたま)』『幸御魂(さきみたま)』『奇御魂(くしみたま)』『荒御魂(あらみたま)』のこと。
この順番も重要な意味を持ちますので、覚えるときはどうぞ、この順番で覚えてください。
ちなみにこの四魂についての説明は、わたしが尊敬する方から聞いた内容をベースにしていますので、書籍などに書かれていることとは若干、呼び方や内容の説明が異なります。
その辺はわたしなりの解釈ということで、どうぞご容赦くださいm(_ _ )m
それでは、はじめに『和御魂(にぎみたま)』から。
『和』という字に象徴されるように、『調和』を意味します。つまり、『調和の心』です。神様はわたし達にまず、『調和の心』を与えられました。
と、いうことは・・・
あんなアンポンタンな上司なんかどっか飛ばされちゃえ
とか
これは良くて、あれはダメ
この人は好きだけど、あの人は嫌い
というのは『和の心』、『調和』とは違いますよね。
万物は本来、全てが『調和』されているのですから、どのようなものであっても、『悪い』ということは本来はありえないのです。
存在する全てがどのような状態であっても、それはそれで完全なのです。
つまり、
『全ては完全である』という心以外のものは全て本質ではない
ということ。
それは神様が与えてくれたものではないものということ。
でも、本質ではない、違うものだからといって切り離してしまうのは、またそれはそれでNG。
先日の満月に便乗して、本質以外の全てを手放す。という意宣りを是非、行ってくださいと記事に書きました。
なので、『手放す』ことを薦めておいて、今度は切り離すのはいけないって一体・・・・と思うでしょう。
せっかくなので、そのことについて言及しますと、『手放す』「ということは本来は自分から切り離すのではなく、ゼロ(本質)に戻すということ。
そのために、セドナメソッドではまず、手放すものの存在自体をまず、『認める』ということをします。
次に、その事実を自分の中にただ、事実として迎え入れます。
つまり、感じたことを感じたままにただ、その事実だけを認めれば良いのですが、そこで『善悪』の判断をしてしまうと、事実は執着となって新たな意味を持ち、取り込まれてしまうわけ。
『善悪』の判断をせずにただ受け入れると、『怒り』や『恨み』などのどのような感情でもゼロに戻ります。
ゼロ・・・。つまり、本質そのもののエネルギー。
本質そのもののエネルギーとは・・・至福と安らぎ・・・それだけなんです。
ゼロに戻ったエネルギーは『至福と安らぎ』となって、わたし達自身の中の一部として融合します。
そう。
どのようなものであれ、受け入れて認めて、ゼロに戻す、ということをすればするほどわたし達は至福と安らぎに包まれ、本質へと戻っていくのです。
逆に、切り離す、ということは『善悪』の判断をすること。そのことによって、そのものに特別な意味を持たせます。
特別な意味を持つと、それは執着となり、執着はわたし達の自由を奪う足枷、制限、枠となります。
枠を作れば作るほど、本質からはどんどんと遠ざかり、本来は自由で全てと調和していたはずなのが、アレはダメ、コレはダメとダメダメがいっぱいになって、やがては身体や精神を病んでしまうことになります。
それは、わたし達の本来の姿、本質から程遠いもの。
ということで、『四魂』の一つ『和御魂(にぎみたま)』とは『調和の心』。
『調和の心』になるには『善悪』の判断を手放すこと。
全てはそれで『善い』のです。
そして、『手放す』ということは、切り離すことではなく、『善悪』の判断をせずにただ、認めて自分の中に受け入れて自分と融合させること。
そうして『調和の心』とは違う心をゼロ(本質)に戻し、自分と融合させればさせるほど至福と安らぎの心に満たされ常に幸せに包まれた状態になります。
次回は二つ目の心、『幸御魂(さきみたま)』についてです