脳出血で無職になった親父のブログ

株式投資に腕時計が好きなオッサンのブログです。年齢を重ねスピリチュアルにも興味を持ったお蔭で人生感も変わりました。

四畳半のアパート暮らし1(幼少期)

2015年03月31日 09時56分24秒 | わが半生
私が物心ついた時には大阪市城東区にあるアパートで暮らしていました。トイレも洗面も共同です。お風呂??当然、ありません。当時の日本はまだまだ貧しいのですが私達家族は特に貧乏だったと思います。幼い私は、そんな暮らしでも別段、普通だと思っていました。アパートの多くは子供もいる家族が多く同じアパート子たちとも遊んでいたものです。道路も舗装されているのは幹線道路くらいで殆どが舗装されていず雨の日なんかはズボンの泥水がはねて汚していました。地方へ板前修業の父は滅多に帰って来ず母は寂しいのを紛らわすかのように私を連れてパチンコに映画館ばかり・・私は退屈でぶつぶつ言うと『A男!落ちてるパチンコ玉、拾っといで!』ヒマな私はパチンコの店内を歩いては落ちている玉を拾い時々、自分でも打ってみた、それが入ると受け皿に流れ出たパチンコ玉を母が『よく、やった!!』と言いもっていってしまうのです。私が成人してもパチンコをしないのは、この時の店内の雰囲気がトラウマになっているのでしょうね。当時はパチンコ台に向かって立って打っていたのです。電動??ありません。右手にレバーがあり小さな棒に小指をかけながら親指でレバーを下げバネの反動で打つのです。レバーの少し上に玉を入れる穴があり左手に50個~のパチンコ玉を握り左の親指を穴に添え押し入れるように、そして上手な人は流れるように入れて行きます。店内は【軍艦マーチ】がパチンコ屋の定番音楽。その音楽に乗せて店員の大きな声がマイクに乗って響き渡ります。タバコの煙も蔓延・・とっても健康的?な娯楽・・・パチンコ。当時はフィーバーもスロットもありません。沢山、玉が出ると母は笑顔で店内のカウンターに行き玉と・・歯ブラシや蝶々の標本みたいなものに墨(書道用)を貰い店の側にある小さな小屋みたいなところへ行くと顔も見えない小さな受け窓口へ歯ブラシ等を渡すと暫くしてカルトンに乗ったお金が出てきたのです。母は、そのお金で買い物や映画に連れていってくれました。現在はJR学研都市線、当時は国鉄:片町線【鴫野駅】界隈に住んでいたので母はよく梅田にある阪急百貨店に連れていってくれました。片町線【京橋駅】で環状線に乗り換え大阪駅で降りると南出口から正面に阪急百貨店、そして右手正面に阪神百貨店。母は阪急百貨店の屋上に私を連れて行ってくれました。当時、百貨店の屋上は、ちょっとした遊園地になってまして子供が乗れる乗り物やゲーム。たこ焼きにポップコーン、夏にはソフトクリーム。あ、そうそうペットショップもありましたね。日曜なんかに行くと結構、多くの家族連れが来ていて活況でした。屋上で遊んで、お決まりは百貨店のレストランでお子様ランチが私にとって御馳走でもあり大きな楽しみでもありました。今のような本当に美味しいものや質の高いモノではありません。なんせ戦後20年・・とにかく池田内閣の所得倍増論と戦後の復興を急いだ日本。景気は順調に右肩上がりの始まりでした。
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