脳出血で無職になった親父のブログ

株式投資に腕時計が好きなオッサンのブログです。年齢を重ねスピリチュアルにも興味を持ったお蔭で人生感も変わりました。

働いた分を下さい

2015年10月26日 10時52分04秒 | 裁判
残業代は会社にとっても大きな経費ですが社員にとっても労働の報酬として頂く権利はあります。確かに本当に必要な残業でないのに残って仕事をする社員も居るにはいます。だから社員は残業に必要な仕事内容を上司に報告して承認を得るべきかと私なりには思うわけですが中々、そうも言ってられない事情もあります。会社によっては残業は社員本人の能力不足?と評価するところもあると聞いたこともありますし反対に定時に帰ることがしづらく残業してこそ当たり前の風潮の会社もあることも事実です。環境はそれぞれ違いはありますが、私のように荷重労働によって労災となるほどの残業は会社の安全配慮義務違反にそうとするような場合また名ばかり管理職は会社は未払い残業代は支払うべきだと思います。労使関係は対等とか社員は家族だと言う経営に騙されてはいけないような気がします。私の勤務してた会社は労働効率を上げるためのシステム導入もせず、いつまでも人海戦術でしかありません。システム導入には億単位の経費が必要なので、それが、惜しいだけなのです。いかに最小限の人件費で最大の利益を上げるか?それは経営をするにあたり当然であるのは理解してますが、とにかく常識どころか労働基準法を全く無視し、社員を道具と考えているような経営が見えてしまった以上、私は残業代は勿論、会社の安全義務違反の過失を根拠に闘うつもりでいます。残業代請求は、ほんのジャブを撃つ程度にすぎません。本番は、その次です。労災障害の等級が何級に認定されるかは、間もなく知らせが入るころなので、認定後、弁護士を通じ慰謝料と逸失利益に将来介護費用を請求します。私の失った身体は身体だけではありません。後遺障害で生活だけだなく私や私の家族の希望や夢や楽しみまでも奪われたのです。身体はたとえ、何億、何十億積んでも元には戻らないのです。男性の平均寿命まで生きるとしても20年以上、この失った気持ちの重さは当事者と、その家族にしか理解できません。これから私と同じような思いをする人が出て欲しくない!そんな気持ちもあって闘うことを誓いました。
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23歳・・新婚生活

2015年10月25日 09時12分57秒 | わが半生
昭和57年私23歳、鈴本さん22歳 年齢は1つ下でしたが学年は同じ。まずは入籍を済ませ結婚式は後・・となりました。料理は決して上手とは言えませんでしたが一生懸命に勉強してレパートリーも増えました。彼女は生まれつきの持病もあって、よく体調も崩していたので門真市から実家のある八尾市へ転居。狭い1DKの部屋でしたが、とにかく広いところへ移ることが私達の目標となり私が支店長に昇進し漸く賃貸ではありましたが3DKのマンションへ引っ越すことが出来たのです。近鉄国分駅・・地下鉄天神橋筋6丁目まで通勤する私は遠くなりましたが大阪とはいえのどかな風景が漂う環境は気にいっていました。結婚し私は当然、子供を望みましたが彼女は『子供?いらん!二人の生活が壊れるし!』と全くとりあわず・・でもセックスをする時は基礎体温をしっかり管理してコンドームは極力、つけずに・・・。そして・・ある日・・『大人のオモチャ・・って興味あるねん・・』私は少し驚きました。結局、せがまれ私一人でアダルトグッズを買いにいくはめに。『ふ~ん。。こんな風になってるんや。』電池を入れスイッチうぃ入れるとウイーン♪とモーターの音が鳴り動きは始めると『うわ!面白い動き方する!このスイッチは・・え?ここが振動するんや!・・いや~ん・・やらしいぃ~。』その夜は言うまでもありません。そのグッズを使って夜の営みを・・今、思うと鈴本さんは、かなりのエロさがあったと思うのです。また、ある日・・『サウナスーツと○○通信販売で買ってん。見て!』仕事から帰ると、いきなり私の前に品物を見せるのですがサウナスーツはビニール製で電源を入れるとスーツ内に温風が入り汗をかくことで痩身できるらしく、もう1つの○○は・女性の陰部へ挿入し内部を洗浄するという品物でした。『御飯食べたら早速、使ってみる♪』そう言った彼女は夕飯後、風呂に入る前に全裸になりサウナスーツを着込んでスイッチを入れ約20分・・顔から汗が湧き出ていました。『あ・・暑い!もう体は汗まみれ・・』脱ぐと全裸のまま私に向って『ほら!すごい汗!これで体形維持していく!』小振りの乳房の先はピンク色が増し、腰から太ももにかけて汗が毛穴から浮き出るように出ていました。すると・・そのまま○○を取り出し洗浄液を○○に注ぐと『あなた・・入れてくれる?』○○を私の手に渡すのです。『俺が?入れるンか?』彼女は黙って頷いたのです。洗浄液が溜まってる部分はゴム製でそこから直径1センチくらいの・・プラスティック製のノズルが10センチくらい、丁度、天狗の鼻のようになっていました。彼女は自分自身の場所にゼリー状の液体を塗り『早く・・乾かないうちに入れて・・奥まで入れてから、そこのところを押して洗浄液を入れて・・』そんな事、自分でrすればいいのに!と思いながらも私も【オトコ】少し変態っぽくなっていたかも知れません。M字に足を開いた彼女の中心に目をやると・・その部分が何かを誘うように見えたのです。手に持った○○の先をその中心に優しく添えながら、ゆっくりと中へ入れていきました。『あ・・』小さな声が彼女の口から洩れ、『・・う・・もう少し奥・・優しく動かして・・』その後は・・お互いに収集がつかなくなり気が付くと私の本能もメラメラ。とにかく若い二人でした。そして彼女の行動は少しづつエスカレートしていき月日の経過とともに彼女本来の性癖が少しづつ出て来たのです。でも離婚原因にはなるのですが・・その後、私達は別々の人生を歩むことになるのでした。
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23歳で結婚そして27歳で離婚1

2015年10月24日 10時28分04秒 | わが半生
昭和57年 私は同僚の鈴本さんと結婚しました。結婚前にも・・何かとありました・・結婚前に、それまで、つきあっていた女性の関連は全て処分!ある日曜日の午後・・『これ・・捨ててくれる??』突然、渡されたのは銀行員の元カノからもらった手編みのセーター2枚、首のタグにはアルファベットでつづられた彼女の名前が表示されていて・・鈴本さんの表情は険しく『ふ~ん・・結構、器用なんや。。』美人の鈴本さんは容姿では遥かに自分の方が勝っている・・でも、この元カノのどこに惹かれていたのか理解できなかったんでしょう・・そして既に別れて鈴本さんと、つきあっている間、やたらと『あの子の、どこが良かったんん?』何度、言われたかわかりません。小柄でありながら、スタイルも良く色白・・セックスも、どちらかと言えば積極的な鈴本さん。つきあっている時はまだまだ・・わからなかったのですが結婚すると・・とにかく私を求めてくる頻度が半端でなく私が、その気でないと・・すごく誘う仕草や、突然、全裸になることも・・ある夜、わたしが寝ていると何やら下半身が・・(え??)寝てる間に下半身は露わになって彼女は私の・・でも、とても上手なんです。若い二人・・やることと言えば、ただただ1つ。そんな新婚生活のスタートでしたが昭和57年の秋。私は仕事のストレスから消費者金融会社を退職、家電量販店へ転職したのですが給与も大幅に減り生活が一変したのです。『もう!こんな給料じゃ生活は無理!!』勿論、二人で共働きをしましたが二人合わせて月給が30万もありません。家賃も1か月35000円の2Kのアパートに移りましたが・・窓もなく昼間も電気をつけないといけません。当時の妻の実家へは自転車で10分ほどのため毎週末には御飯を食べに行ったものです。車も妻の兄が乗っていたトヨタのカリーナを譲ってもらったり・・自宅にはテレビもありません。昭和といえど、戦後37年。テレビのない家ってあります??それでも新婚でしたから、それなりに幸せを感じながら生活をてましたが・・やはりお金・・でした。学歴もない私が収入と出世を考えると(やっぱり消費者金融すいかないのか?)そう思い始め、妻に『転職しようと思う。また戻るよ』その言葉に妻は黙って頷いたのです。妻の両親は消費者金融から家電量販店に転職した時は喜んでいました・・でも・・やっぱり給料が良くないと・・昭和58年3月に消費者金融大手のレ○クへ転職したのです。転職後、当時の消費者金融は業界でも大手と中小の格差が広がり世間では銀行等が消費者金融会社に融資することを問題化し始めたのもあり中堅以下の消費者金融が倒産や大手の傘下に入るなど業界の冬の時代がやってきたのです。レ○クも例外なく銀行や大手生命保険会社から資金の引き上げにあい営業キャッシュフローが悪化。危機を迎えつつも捨てる神あれば拾う神ありで、助けてくれた金融機関もありました。また当時、大蔵省(現財務省)の元官僚を(事務次官の次席)会長に迎えると、その心配はなくなったのです。やはり・・大蔵官僚が役員に入ると・・違いました。社内報には毎月、会長との対談が掲載されたのですが、その顔触れが凄い。銀行や生命保険等のトップが、サラ金と言われる会社の社内報に掲載されるんです。そしてレ○クは天下の日本長期信用銀行などからも資金が調達できるようにもなったのでした。昭和59年には三重県に自社の研修センターを建設し社員教育に力を注ぎはじめたのです。そんな時代の波に乗るべく私は・・昭和61年1月 26歳で天神橋筋6丁目にある支店の責任者として昇進しました。妻も涙を浮かべ喜んでくれてたのに・・支店長昇進と、ほぼ同時に八尾市から柏原市へ転居。家賃も65000円 近鉄国分駅徒歩2分のマンション。3DK・・漸く人並み?に生活ができる・・そう・・でも長くは続かなかったのでした。
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私の働いた残業代をください。第二回の期日 

2015年10月23日 10時37分14秒 | 裁判
10月21日 夕飯が済んだころ、私のスマホが音をたてました。画面を見るとW法律事務所。私の代理人です。『もしもしYです。』互いに挨拶をすませると『明日22日 期日ですが・・相手方より答弁書が届いている内容で少し確認したいのですが・・』届いた答弁書には2つありました。その前に・・私は入社後、子会社に出向扱いされており労災の申請も子会社からの申請で認定されているのですが給与は当然、親会社より支給されており基本、在籍は親会社にあります。健康保険・厚生年金等も親会社の扱いなのですが・・残業代の請求訴訟に対し親会社よ子会社を連名に訴訟したところ相手方より親会社に対する訴えを取り下げろと来たそうです。もう1点は子会社での私の立場はNo2であり大きな裁量をもって仕事に従事しているため管理監督者として値するので残業代を支払わないとのことでした。弁護士より『親会社から子会社への転籍ですか?出向ですか?また、転籍・出向において書面で辞令をもらってますか?』と聞かれたので転籍ではありませんし子会社へ行くときに新たな雇用契約が必要らしいのですが雇用契約書は勿論、辞令した頂いてませんと言うと・・『では、どういう形で・・』と聞かれ社内の通達で私の出向が全営業所と各関節部署にFAXされたくらいですと答えると・・弁護士は『わかりました。』の一言で終わり、22日の期日に臨みますとのことでした。一応、弁護士へは過去に会社から交付された給与辞令をメール送信しておきました。給与辞令は親会社が発令しているものだからです。子会社と言っても殆どペーパー会社で出向も私と、もう一人の部下である社員の合計2名・・(No2??笑わせるな!)私は心の中でつぶやいたのですが、顔に出ていたのでしょう。『お父さん・・』妻が私を呼ぶのでした。労災の申請も、子会社で行っているのには・・おそらく労災保険料の支払いを思慮してだろうと私は推測していました。親会社は約200名の従業員。子会社は出向社員2名・・労災保険料が会社の規模に比例するなら間違いなく子会社で申請するでしょう。でも人件費を、どうコントロールしてるかは知りませんが私は健康保険証は親会社。厚生年金も履歴には親会社の名前になっています。そして【No2で大きな裁量】思わず・・(は?)思うだけでした。社内決裁規定もなく全て報告・連絡・相談を求められた後、判断と決裁は専務が行っていました。タイムカードで管理され外出等は全て書面で報告。1000円ほどの少額の消耗品購入も稟議申請で専務決裁・・あきれるほど私達管理職に権限はありません。パート・派遣の雇用も全て専務・・私達は自部門の派遣雇用の面接すらさせてもらえないのです。残業代・・必ず頂戴いたしますので!!第二回口頭弁論で相手方の答弁結果が来週、弁護士より書面で送られてくる予定ですので楽しみで仕方ありません。
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22歳の別れ・・私は彼女に酷い事をしてしまいました。5

2015年10月22日 09時54分23秒 | わが半生
私は22歳の頃、つきあっていた彼女がいましたが彼女と私・・そして彼女のご家族が全員、銀行員で私と彼女の交際には大反対であったのは正直、22歳の私にはハードルが高いと感じたのです。彼女のご両親は私と会ってくれようともしませんでした。今、思えばご両親の立場に立ってみると高校卒業で靴屋の店員から消費者金融の社員、父は寿司屋の雇われ・・団地住まいのわが家族・・そりゃ、反対するでしょうね。彼女のご両親も決して高望みでなく普通に大学を出て普通の会社に勤めていれば、おそらく会ってくれてたのでは?娘の幸せを思えばできれば銀行員であって欲しい・・ではなかったでしょうか。私の心の奥底に、どこか劣等感と、そのハードルの高さに重さを感じていたように思います。そんな頃に職場で知り合った女性。彼女も高校卒業し車のディーラーへ就職後、転職。自宅はお父さんは運転手で鋼材を運んでいてお母さんはパート。お兄さん二人は普通の会社員。そんな生い立ちを聞いて心が軽くなったのも事実です。職場で知り合った鈴本さん(仮名)は美人・・その美人から『私も彼とは別れるから・・あなたの彼女に会わせて!』そう頼まれた時、かなり悩んだ末、私は会わせることを決心したのです。今、思うと、どんなに残酷だったことか・・昭和56年 私は22歳、彼女は21歳でした。鈴本さんを乗せて大阪府高槻市にある彼女の自宅近くのバス停留所で待っていました。暫くして自宅からバス停までの坂道を上がって来る彼女を最初に見たのは鈴本さんでした。『あ1あのひと??』その視線の先に目をやると・・フレアースカートにパンプス。バーバリーのバッグを持った彼女が私の車に向かって手を振っています。坂の影響で助手席の鈴本さんの姿は彼女から見えなかった4のでしょう・・私は車から降りて彼女の傍へとかけよりました。胸の鼓動がドンドン高く額から汗がにじみ出てくるのを感じました。私の表情に何かを感じた彼女。『どうしたん?』少し首を傾けながら、いつもの穏やかな声で尋ねてきたのです。『実は・・』私が話を切り出したと同時に・・なんと鈴本さんが車から降りてきたのです。(え!?マジ??)もう私には、どうすることもできませんでした。彼女は鈴本さんの姿を見ると、その表情は見る見るうちに強張り無言のまま目から涙がこぼれていました。私は、このとき・・本当に後悔したのですが目の前の現実を目の当たりにしながら心の中で自分の馬鹿さ加減と彼女への申訳なさでいっぱいでした。車から降りて来た鈴本さんは、彼女に近寄り『初めまして。』その声と表情は彼女とは全く正反対。彼女は鈴本さんの挨拶は全く無視し『そいうこと・・するんや!!』ずっとこらえていた気持ちを爆発させるかのように叫び・・そして一気に涙をあふれさせました。彼女は・・薬指にあった私からプレゼントした指輪を外し地面に投げつけると・・丁度、バス停に到着したバスに飛び乗ったのです。なんとも・・言えない・・バスの窓からは涙をぬぐい、キッと唇を結ぶ彼女の表情が30年以上もたった今でも私の脳裏に染みついて離れません。私は大きな罪を犯しました。その後、私は鈴本さんを乗せて・・さて、どこへ行ったのかは覚えていませんが車中で・・『Yさんの彼女・・もっと可愛らしい人と思っていたのに・・どこが良かったんですか?』そう・・彼女は決して可愛らしいとか美人とかの容姿ではありません。私がすきになったのは彼女の性格だったのです。そのはずだったのに・・美人が近寄って来ると男は弱い。こんな形での裏切り方をするなんて男として最低です。人生で沢山の反省と謝罪はありますが、この時ほど相手の心を傷つけたことは何倍にも自分に跳ね返ってくる・・それを私は味わう事になるのです。そして・・翌年23歳。私は鈴本さんと結婚したのですが・・結婚までも・・そして結婚後も、その報いをうけることになりました。
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