J@Dの備忘録

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富士吉田浅間神社巡り

2024年12月25日 | おでかけ


クリスマスの今日は晴れ。今朝は上空に澄んだ暗い空が広がっていて、星がちりばめられたように煌めいていた。南東の空にブーメランのような月が浮かんでいるのが見える。今朝の気温は-3℃で湿度が高く、西よりの風が吹いていた。
今日は1日年休をとった。仕事に少し余裕が出てきていて、特に予定が無いこともあるが、職場から見える富士山があまりにも綺麗で、写真を撮りに行きたくなったというのも理由の1つである。そこで、富士山を撮りに出かけることにした。

外出するために玄関の扉を開けると、冷凍庫を開けた時のような冷気が室内に流れ込んできた。外に出ると、冷たい風が吹いていて、吐く息が白く見える。アスファルトの路面が氷のように冷たく、足下から冷気が立ち上ってくるように感じられた。
日野駅から中央線大月行きの電車に乗る。ホームに着くと、グリーン車を連結した12両編成の電車がホームに滑り込んできた。グリーン車の平屋席に座り、リクライニングシートの背もたれを最大限に傾ける。これで大月まで寝ていける。

八王子、西八王子、高尾と電車は西に向かって行く。各駅の東京方面のホームで電車を待つ通勤客を横目にラフな服装でシートに寝そべっているのもなんだか妙な感覚だ。奇妙な優越感に浸りながら、車窓を楽しむ。とはいえ、まだ外は暗く、どこを走っているのかもよく分からない。目が覚めると、電車は大月駅に到着していた。
大月駅で富士急行線に乗り換える。最初の目的地は下吉田駅である。

下吉田駅に着くと、電車を降りた。目の前には富士山が鎮座しているのが見える。


駅を出る。駅前には誰もいなかった。


下吉田駅から歩いて新倉富士浅間神社に向かった。から神社までは5分ほどで到着した。


鳥居をくぐって、本殿に向かう。


まだ、早朝ということもあって、本殿は閉まっている。この本殿の上には新倉山浅間公園があって、そこまでは境内社の塩竃神社の脇の階段を上っていくのである。咲くや姫階段という名の階段は398段あり、これを登り切ると、目の前に忠霊塔という五重塔が現れた。赤と白の彩色が華やかに見える五重塔は富士吉田市戦没者慰霊塔である。この五重塔の裏手に展望台があり、そこから見る富士山は富士山の絶景スポットとなっている。


神社の本殿が開くのが午前9時とのことなので、それまでこの展望台で富士山を眺めることにした。ガイドブックやSNSなどで拡散されているからなのか、かなり外国人客が多い。中には三脚を立てて動画を撮っている外国人客もいて、ちょっと迷惑だ。
時間になると、階段を下りて本殿に向かう。


新倉富士浅間神社の御祭神は木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、大山祇命(おおやまづみのみこと)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の三柱である。


参拝を済ませると、本殿に向かって左側にある授与所で御朱印をもらう。この神社の御朱印は「荒浜神社」「通常」「月替わり」「限定(冬)」「切絵(雪)」の5種類があって、「限定(冬)」「切絵(雪)」は書き置きに日付を記入してもらえる。この神社では「月替わり」の御朱印を頂いた。
授与所に「富士山 神玉巡拝マップ」のチラシが置かれていた。平安時代より大願成就を記念して神社を巡拝する風習があったということで、河口湖から山中湖にかけてのエリアにある7つの神社のマップが書かれている。下吉田駅の近くには小室浅間神社があるようだ。まだ時間も早いので、小室浅間神社に行ってみることにした。

下吉田駅まで歩いて戻ると、駅前の通りを歩いて小室浅間神社に向かう。から小室浅間神社までは5分ほどで到着した。


通りから通りをくぐって神社本殿に向かう。


この神社の御祭神は木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)で、平安時代に征夷大将軍の坂上田村麻呂が東征の途次、この地から富士山を拝して戦勝を祈願し、数年後に功業が成就したので、その報賽に神社を創祀し、神護を謝したとのこと。


境内には鎌倉幕府を倒幕し、建武の新政期には征夷大将軍に就いた護良親王を祀った「大塔宮桂之古跡」という桂の御神木がある。


大塔宮とは護良親王のことで、出家して天台宗門主となり、法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を構えたため、大塔宮と呼ばれていたとのこと。その後、還俗して鎌倉幕府を倒幕し、建武の新政では征夷大将軍に就任するも、足利尊氏との政争に敗れて鎌倉に幽閉され、暗殺される。首をはねられて捨てられた首級を側室である舞鶴姫が持って落ち延びたとのことである。舞鶴姫は現在の上野原市と都留市の境界にある舞鶴峠で亡くなり、家臣がこの神社の境内地にある桂の木の根元に葬ったことが伝わっているとのこと。


「大塔宮桂之古跡」の背後には富士山溶岩流原形剣丸尾溶岩と呼ばれる起伏のある岩の堆積が見られる。西暦937年の富士山の噴火の際に流出した溶岩枝流の突端に当たるとのこと。


境内には神馬の馬場がある。9月には流鏑馬祭が開催されるとのこと。


馬場では一頭の神馬が日なたぼっこをしていた。


神社で御朱印をもらい、神社を後にする。鳥居を出て本町通りを南に向かって歩き出した。


通りの正面には富士山が見える。多くの観光客が下吉田観光案内所前から見える富士山を撮っていた。

( 北口本宮富士浅間神社 に続く )

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北口本宮富士浅間神社

2024年12月25日 | 日常生活



( 富士吉田浅間神社巡り から続く )

本町通りの先には富士山が鎮座しているのが見える。赤富士通りと交差する金鳥居交差点まで来ると、その先に金鳥居がある。


この鳥居は俗界と神聖な富士山の「結界」として1788年に建てられて以降、何回か建て直されているとのこと。現在の鳥居は1956年に建てられたもので、一之鳥居とも称されている。北口本宮富士浅間神社の鳥居ではなく、富士山という神の山の鳥居と考えられているとのこと。
金鳥居をくぐって更に通りを歩いて行くと、上宿交差点に出た。この交差点を左に折れて国道を少し進むと右手に北口本宮富士浅間神社の鳥居が見えてきた。


昼前から薄い雲が出てきたものの、日中は晴れて薄日が射す空模様となった。昼間の最高気温は9℃で湿度が低く、東よりの風が吹いている。塵ひとつ無い澄んだ空気が氷のように冷たく感じられたものの、写真を撮りながら歩いていると汗をかくくらいに体が熱くなってきた。
北口本宮富士浅間神社の鳥居をくぐり、参道を歩いて大鳥居に向かう。うっそうと茂った樹齢300年以上の杉と桧の木々からは木洩れ日が射し込んでいて、凜と張り詰めた冷たい空気が少し緩んだように感じられる。


参道の先には橋があって、その先に大鳥居がある。この大鳥居は富士山の鳥居とされて、この神社の社殿が建つ以前よりあったとされる鳥居である。


日本武尊が当地で富士山を遙拝した時に大鳥居を建てたと言われ、60年を以って式年と定め、建て替えまたは修理がされてきたとのこと。現在の鳥居は1954年に造営され、2014年に修理されているとのこと。扁額には「三国第一山」とあり、1636年に奉納されたものとのこと。三国とは日本と中国、インド(天竺)の三国で、世界一高く麗しい山とされた富士山を射すとのことである。
大鳥居をくぐると、その先に随神門がある。大鳥居に続く第二の入口で、重要文化財に指定されているこの門は1736年に建立されている。彫刻意匠が多く、装飾性に富んだ建物で、左右に豊磐門戸神(とよいわまとのかみ)、櫛磐門戸神(くしいわまとのかみ)という祭神が安置されている。


随神門をくぐると、その先に神楽殿があり、その裏に社殿がある。


北口本宮富士浅間神社の御祭神は木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、天孫彦火瓊瓊杵尊(てんそんひこほのににぎのみこと)、大山祇神(おおやまずみのかみ)の三柱である。日本武尊が東国を平定した帰り、神社の南西に位置する大塚丘で富士山を遙拝したことに始まる神社である。
社殿の南西に富士登山道吉田口がある。


ここから5分ほど道を行くと、左手に小高い丘がある。これが北口本宮富士浅間神社発祥の地である大塚丘である。丘の上には日本武尊が祀られている。


参拝を済ませると、社務所で北口本宮富士浅間神社と大塚丘の御朱印をもらった。
時計を見ると既に午後1時を廻っている。境内の南側にほうとう専門店「浅間茶屋」本店があるとのことだったので、そこでお昼を食べるつもりで店に行ってみると、水曜日は定休日だった。仕方ないので、富士急行線富士山駅まで戻り、その周囲の店でお昼を食べることにした。

( 今日のランチ(富士山うどん大@とがわ) に続く )

富士山駅ビルショッピングセンター「Q-STA」内の土産物屋でお土産を購入すると、に入った。


富士山駅から大月駅までの普通列車(各駅停車)は1時間に1~2本しかなく、富士山駅から大月駅までの所要時間は約1時間である。大月駅に到着したのは午後5時を廻っていた。
既に日は沈み、空は暗くなっている。大月駅から中央線普通電車に乗って日野駅に到着する頃には、上空には暗く澄んだ空が広がっていて、星が瞬いているのが見えていた。

日野駅に到着すると、改札を抜けて駅の外に出る。冷えたガラスのような硬い風がスースーと通り抜けていき、身をこわばらせながら家路を急いだ。家に着くと、熱いお茶を淹れて飲む。ようやくホッとした気分になった。

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