とあるかつてあった敷地内の腰かけです。まちの仲でも「あそこはどこどこ」「ここはなになに」と大まかに地名を言葉にすることもあり、ここの周辺を『武鎗』「たけやり」と書いて「むやり」と昔から言ってました。
ここ周辺は小学校の跡地でもあり、村だった歴史もありました。1954年(昭和29年)まで、かつては村としての地方自治(市町村制制定)を行ってました。昭和29年ですから、東京オリンピックの10年前までここは、かつて村長がいて村役場もあったところです。
2021年から1954年だと、今から67年前。66歳、67歳の人までがここの村民であったことになります。その時の小学校出身者は、+6.7歳だと現在は72歳~3.4歳以上の方がその時代の体験者になります。
ここに校舎があった記憶は、僕が小学4,5年生ぐらいのときに遠足に近い行事といいますか、『歩け歩け運動』というのがありました。学校行事でここの小学校跡地まで生徒たちが歩いて訪れた覚えがあります。秋の行事でもありまして、ここで『芋煮会』『芋の子汁』が振る舞われました。まちの住人は自家製味噌を作る風習もありましたので、山形県のような醤油味ではなく、味噌味が定番でした。野外活動での食事は、大抵味噌汁鍋が定番でした。
枝豆、大豆に接することが多く、夏場は枝豆を茹でてそのまま塩をふって食べたり、枝豆をすり鉢で擦ってずんだ餅にして食べてたことは、物心ついた頃からありました。夏場はすり鉢で豆をすりながら過ごしてましたが、ずんだが出来上がる前に茹でた枝豆をつまみ食いしたりと、あれこれ困らせたこともありました。小作農で植えるものがそのようなものが多かったので、稲作で生計を立ててた家とはちがう家庭環境でもありました。
うちのお婆さんの家庭は小作農であって、貧困家庭でもあって、時代遅れな生活様式でしたから。塩屋さんがまずあって、塩は各家庭に配達してくれまして、味噌は自家製で作ってました。醤油はどうしてたか、というと。庄屋さんと呼ばれてた家がありました。そこから醤油を分けてもらっていた様子を子供の頃に見ていた記憶があります。庄屋さんが時々訪ねて来ては「足りないものないか?」といったやり取りもたびたび見ていました。年齢もお婆さんと同い年ぐらいな感じでしたから、ママ友、婦人会ぐらいの間柄でもありました。里芋も植えてありましたから『芋の子汁』を食べるのも珍しいものではありませんでした。むしろ、貧乏で時代遅れな生活様式が、他からみれば珍しかったのかもしれません。
村時代の小学校跡地はテニスコートにもなっていました。僕の個人的な印象ですが、ここの周辺の住人はコミュニティの形成が上手で、設置された施設の活用もうまく使っているようにも思いました。僕の住むまちの住人は「頼るが下手」と言いますか、せっかく容易した公園や施設があっても、遠慮して使わない住人がわりと多くいました。お店のお飾りや置物のような感じで、それがひとつの日常でした。
この日もテニスコートには利用者がいまして、利用者がいるということはちゃんと管理されているということでもありますから、もの静かなところですけど人間関係を大切にしてるところが、僕から見た印象でした。
この腰かけを見てとくに思ったことですが、思慕を大事にするところ。かつては村であって、「そこには我らの学校があった」と、声が聞こえてきそうな腰かけもありました。
ここに住む人たちはまず、持久力がありました。少数精鋭で、短距離走は不得意でも持久力はありました。1対1の競技が得意な生徒もいました。卓球の国体会場になったこともありますが、卓球が得意な生徒が多くいて、国体での卓球会場になった源流でもあります。
面積は広い地域でもありまして、藩政時代の館は3つはあったと思います。自動車が普及してない時代もあり、広い地域で住人もそれなりに多く住んでましたので、小学校の他に分校もありました。昭和30年代、40年代生まれの生徒の中には分校出身者もいました。
館になる前は『武鎗城』として機能してました。中心部は有賀館(有賀村)になるのですが、かつては、武勲に優れた武将だったと伝えられています。
その側には戒名みたいな参道もありました。
武勇伝
嘗ての思慕と
枠組は
集い逢いつつ
憩い逢いつつ
嘗てが印象的な場所の腰かけです。